はじめに
東日本大震災への職員派遣は、阪神・淡路大震災当時の広域支援の中で発生した問題点を踏まえて、改定された「神戸市地域防災計画」の「広域連携・応援体制計画」に基づきながら実施している。
「広域連携・応援体制計画」では、他の地域への広域災害支援に向けて、先遣職員の派遣や、支援の検討・決定、職員の応援(自己完結型、地元の意向に沿った支援、現地の活動拠点に連絡室の配置等)などに関する手続きが定められている。また、消防組織法などの法令や大都市災害相互応援協定などの応援協定に基づく職員の派遣等については、その定めによるとしている。
これまでの支援活動のうち職員派遣の活動分野は、先遣隊の活動、消火・救助・救急活動、医療活動、応急給水・復旧、保健衛生活動、避難所運営、り災証明調査、災害廃棄物の撤去運搬、道路復旧、下水道災害復旧、災害ボランティアセンターの立ち上げ・運営など多岐にわたっている。なお、2011年3月11日から10月3日までの間に派遣された職員数は、累計で1,796人、延べ人数で13,714人となっている。
1. 先遣隊の活動
3月11日の東日本大震災直後から、危機管理室では、市内および被災地の被害状況の収集を始め、津波により仙台市をはじめ東日本の広範囲な地域に甚大な被害が出ていることを把握した。このため、当日の夕方に市長副市長会を開催した。市長副市長会において、「大都市災害時相互応援に関する協定」に基づき、仙台市を支援することを決定した。また、仙台市の被害の詳細が不明のため、危機管理室から先遣職員を派遣して被災地の災害状況を把握することとした。このため、危機管理室から1人と消防局から3人の計4人で先遣隊を編成し、先遣隊は震災翌日の12日午前に、神戸空港からヘリコプターで被災地に向かった。ヘリコプターは福島空港で足止めになったため、福島空港からレンタカーで仙台市に向かい、12日20時に仙台市災害対策本部に到着した。その直後に避難所運営等で50人規模での支援要請を受けた。当時、仙台市では、仙台港付近の石油精製所が赤々と燃え上がり、避難所には10万人を超える避難者が詰め掛けた騒然とした状況であった。
すぐに、仙台市からの要請内容を神戸市に伝えた。要請を受けた神戸市では、12日土曜日深夜から13日日曜日にかけて阪神・淡路大震災の経験者を中心に第1次支援隊を編成、14日月曜日にバスで仙台市に出発、本格的な支援を開始した。また、先遣隊は、仙台市青葉区役所4階の仙台市災害対策本部内に神戸市現地連絡室を設置し、被災地の被害状況やニーズの把握、神戸市からの派遣職員の受け入れ準備、震災経験を生かしたアドバイス等を行った。
このように先遣隊の派遣により、仙台市に対して総合的なカウンターパート型の支援を早期に開始することができた。
また、法令や発災前からの支援ルールに基づき、3月11日に緊急消防援助隊による消火・救助・救急活動、3月12日にDMAT(Disaster Medical Assistance Team:災害派遣医療チーム)による救急医療活動、応急給水支援、国土交通省より広域支援が必要である旨の派遣要請を受けて福島県への下水道被害状況調査及び支援調査活動、道路復旧調査活動に対する職員の派遣を行った。
2. 職員震災バンクの活用
神戸市では、阪神・淡路大震災で多くの自治体・関係機関から多数の人的支援を受けた感謝の気持ちと、震災の教訓を国内外に継承・発信していくため、「職員震災バンク」という、震災対応業務の経験者をその業務分類ごとに登録・データベース化し、本市の災害だけでなく、全国の災害時に支援要員を迅速に選び、業務に応じた経験・能力を有する職員を派遣するためシステムを設けていた。今回の東日本大震災の支援活動のための職員派遣でもこのシステムを活用することとなった。だが、年数の経過により、阪神・淡路大震災での業務経験者の多くが退職するなど、継続した支援に十分な人員確保が必ずしも出来なかった。また、阪神・淡路大震災以降の17年間で、生活再建支援法の制定や災害救助事務の運用の弾力化など、災害対応関係の法令や制度運用などが著しく変化・進化しており、これらの実務面のストックの更新がなかったことが大きな反省点であった。今後、東日本大震災支援での派遣職員のバンクへの登録と継続した研修、新たな制度・知見等の蓄積が大きな課題である。
3. 避難所での支援活動(若林区・青葉区避難所)
第1次隊は、3月14日15時からの派遣ガイダンスの後、16時30分に、市役所前から、市長・副市長、市会議長・副議長、労働組合幹部をはじめ多数の職員の見送りを受け、大型バス2台で出発、途中、コープこうべの倉庫で食料の積み込みを行い、約13時間をかけ翌15日早朝に仙台市災害対策本部のある青葉区役所に到着した。到着後、同区役所内の一画をお借りして、現地本部を開設し、先遣隊からの引継ぎを受け早速活動を開始した。
避難所支援班48人は、青葉区の避難所(8箇所)と若林区の避難所(4箇所)計12箇所に配置され、1班4人編成の24時間交代(2人ずつ2交代)で勤務につき、仙台市職員1人とともに、被災者の方々、地元自治会の皆さん、消防団、教職員その他の避難所の施設管理者の方々と当面の避難所運営に取り組んだ。
12か所の避難所は、その施設規模、収容人数や運営形態も様々であったが、阪神・淡路の経験のある職員を中心に、安否確認や避難所運営の基本となる避難者名簿のデータ化などの整備、避難者の方が情報取得できるようテレビの配置、持病や単身高齢者等の要援護者の把握など、避難所運営上、重要と考えられることの提案や実行を積極的に行った。また、避難者の方からの環境改善などの要望に基づいて、市当局への伝達や日常の足となる自転車の確保などを行った。そのほか、物資の運搬整理や配食の手伝いなどの役務など多様な業務を行った。
本市が担当させていただいた避難所の多くでは、第1次隊が到着した時点の発災後間もない頃でも、避難所の地元自治会や避難者の方、ボランティア等が中心になって整然と運営が行われていたところが多くあった。
例えば、壊滅的な被害を受けた地域から集落単位で避難された方が多く避難されていた避難所では、集落の自治機能を活かした運営がなされており、複数の集落が入所していたところでも集落毎の代表者の方の話し合いでまとまりある運営がなされていた。また、避難所のある地域の自治会が前面に運営を担っておられたところやボランティアが主導的に運営していたところなど、形態は様々であったが、自立的な運営をされておられるところが多くあった。
しかし、阪神・淡路大震災の時もそうであったように、避難者の方は、ご家族の安否や余震への恐怖とともに、避難生活や今後の住宅の確保・生活再建などに多くの不安や情報不足の苛立ちも抱えておられた。
避難所で支援活動についた職員は、阪神・淡路大震災での経験をもとに、また、経験のない職員も、避難者の方の恐怖や不安に真摯に向き合うことで、いまできる最善と思われることをさせていただくことに努めた。発災後から刻一刻と変わる、被災者の方に必要な支援など、阪神・淡路大震災で避難所における応急対応のフェーズを経験した職員たちの活動が役だったと思われる報告例を以下にあげる。
ある避難所(小学校)では、今後の避難者の健康管理や生活再建に向けた各種施策には絶対に欠かすことのできないものとして、持病をお持ちの方や単身高齢者等の確認、次の移動先の有無などを調査した避難者名簿と避難者カルテを作成した。名簿等の作成にかかせないパソコン等については、避難所の施設管理者である学校等にも協力を呼びかけ実現した。
別の避難所(中学校)では、余震や生活再建情報を避難者の方が素早く得られるよう、避難所の本部スペースに学校の協力を得るなどしてテレビを確保した。また、避難所内のブロック毎の入所者名簿のデータ化を図り、入所者の所在確認とケア、そして外部からの安否確認や今後の生活再建等の基礎データとなるよう整理を図った。また、避難者の自主運営メンバーの集団退所を控え、先々の自主運営を確保できるよう、運営ノウハウの引継ぎ等を提案し働きかけた。
避難所の防犯や治安面でも、阪神・淡路大震災で避難所の夜間等のセキュリティ対策として、被災者の方の雇用確保も兼ねて民間警備会社のガードマンを避難所に配置した例などを区本部等に提案し、実際に配置していただくなど、避難者の方の安全確保や施設管理者等の負担軽減につながる支援も行った。
4. 仙台市・名取市におけるり災状況調査支援
(1) 経 緯
り災証明発行のための被災家屋のり災状況調査・判定にかかる支援について、本市では、仙台市及び名取市に113人、延べ976人の職員を派遣して、1次調査および2次調査にあたった。
仙台市には、大都市災害時相互支援協定に基づき、発災直後から、先遣隊派遣に続き、避難所運営、保健・医療、生活保護、道路災害復旧、被災宅地危険度判定、ボランティア活動など、6業務の支援ための職員を派遣していたが、新たに仙台市の要請をうけ、4月24日から、家屋等のり災状況調査・判定支援の職員を派遣することとなった。
また、名取市においても、復興計画・まちづくりや避難所運営・給付・仮設住宅関係、ボランティア活動など、幅広い分野の支援のための職員派遣を行っていたが、名取市からの要請に基づき、5月9日からり災状況調査の職員を派遣することとなった。災害時には、被災者の生活再建のための義援金や住宅再建のための生活再建支援金、その他の制度適用のために「り災証明」の早期発行が急務となるため、両市とも全国市長会を通じた要請や都市間の協定等に基づき、全国の市町村や民間団体からの応援を得て、調査・判定、証明発行を進めており、神戸市も約6ヶ月間にわたり支援活動を行った。
(2) 仙台市での活動概要
① 仙台市のり災調査・判定業務の進め方
仙台市の被害状況は、全壊29,290棟、大規模半壊25,711棟、半壊75,521棟、一部損壊116,106棟(2012年2月5日現在:仙台市HPより)と広域にわたる大規模なものとなった。
仙台市のり災調査・判定の基準・方法等については、内閣府の定める「災害に係る住家の被害認定基準運用指針(内閣府)」に基づきながら、今回の震災による甚大な津波被害への対応も含め、新たに内閣府から示された考え方も踏まえたものとなっていた。
調査は、特に被害が甚大かつ広範囲であった津波被害地域については、航空写真などを活用して迅速な認定を行い、その他の地域については、原則として建物外観から被害程度を認定することで、迅速化と簡素化が図られるように努めていた。また、外観調査(1次調査)と建物内部の調査(2次調査)を合わせて行うものであった。
具体的には、被害認定調査のエリア区分を、津波による被害の大きかった海岸線から内陸部にかけて概ね東西方向に三地区に分け、調査・認定の方法を定めていた。
仙台市では、3月12日からり災証明の申請受付けが始まったが、概ねの地域は、被災市民からの申請に基づいて、個別にり災状況調査・判定を行う「申請主義」の方式であった。
本市が支援活動を行った宮城野区での自治体からの応援は、4月15日の愛知県市長会からの支援職員をはじめとして、本市の第1隊が宮城野区に到着した4月25日時点では、徳島市の職員が1次調査の支援活動を開始していた。本市も同様に1次調査の支援を行うこととなり、1班5人編成のチームを概ね1週間交代で派遣することとなった。
② 派遣職員の構成、派遣期間等
支援メンバーの編成にあたっては、東日本大震災での最初のり災調査・判定の支援活動であるため、阪神・淡路大震災や他都市の災害での同業務経験者や、本市行財政局の養成研修及び兵庫県の家屋被害認定士の養成研修を修了した職員、及び建物の専門家である建築職を中心に構成することとした。
第1期の支援活動にあたり、特に主税部では、2008年の兵庫県佐用町でのり災調査・判定支援活動を始め広域災害での支援活動の経験を有しており、派遣前の職員研修や装備などの事前準備、先発隊の活動状況のフィードバックなど入念なマネージメントを行い円滑な支援活動の立ち上げと継続につながった。また、宮城野区では、佐用町と同様に郊外型の大規模家屋の調査もあり、従前の広域支援活動の経験が活かされた。
さらに、都市計画総局の建築職員は、調査・判定業務には即戦力として的確な業務を実施する一方、様々な被害物件の調査をとおした専門的な見地から、仙台市の建築物の被害様相について今後の神戸市の住宅耐震化施策等にも有用な分析を行い、本市へフィードバックしている。
おわりに
神戸市においては、「1・17阪神・淡路大震災」の経験があることから、派遣される職員一人一人の、被災地支援に対するモチベーションは高く、また、それ以外の職員についても、たとえ直接被災地入りすることはなくても、派遣職員の業務をカバーするなど、災害派遣に対する理解があり、職員全体としての災害派遣に対する意識が共有化できていた。
また、被災地の方々からも、『被災地「神戸」から』ということにより共感が得られ、信頼関係を築きやすかった。
だが、阪神・淡路大震災から17年以上が経過した今、震災を経験していない職員が増加してきている。また、実際に阪神・淡路大震災で復旧復興活動にあたった職員も退職等で減少の一途をたどっている。これらの震災の記憶や経験の伝承は被災地共通の問題であるといえる。
災害における職員派遣においては、派遣される職員本人の負担はもちろんのこと、派遣期間中の、派遣される職員の担当していた通常業務をカバーする他の職員、また職員の家族等にも負担がかかる。そのため、災害における職員派遣は、派遣される職員個々人の努力だけで達成できるものではない。
何れにせよ、この度の大震災は、人と人の「絆」の大切さを、多くの人々に実感させるものとなった。災害はいつどこで発生するかわからない。また、自分がいつ支援を受ける側になるか、支援をする側になるかもわからない。平時から、周りの職員や、家族とともに、震災が起こった場合の「支援」と「受援」の両方について、話し合っていただけたらと思う。 |