1. はじめに
大牟田市役所に勤務して、32年が過ぎた。農林水産課に農業技術者として10年、第三セクターに出向して14年、教育委員会に出向して三池地区公民館・手鎌地区公民館の館長を5年間、そして現在の職場、農業委員会に3年間になる。地域の歴史に関わり、世界が広がった。しかし、NPO理事と市職員の二枚看板をかけているといくつかの課題も見えてきた。本論では、①三池炭鉱の歴史、②近代化産業遺産との出会い、③大牟田・荒尾 炭鉱のまちファンクラブの活動というNPOの実践活動を通して、NPO理事と市職員の二枚看板でのまちづくりへの関わり方を考えてみた。
2. 三池炭鉱の歴史
三池炭鉱は、18世紀前半の古文書に柳川藩と三池藩で採掘されていたことが記されている。1873年には官営(国営)になり、政府は殖産興業策として力を入れ、長崎の高島炭鉱(日本で最初に西洋式技術が導入された炭鉱)でグラバーとともに炭鉱開発に当たっていた英国人フレデリック・ポッター等お雇い外国人を招聘し、三池炭鉱でも西洋式技術の導入を積極的に行った。1889年には民間に払い下げられるが、入札では三井と三菱の厳しいせめぎ合いが行われ、経営は三井に移った。三井鉱山になってからは、新しい坑口施設、環状線のような三池鉄道、三池港など、積極的に設備投資がなされた。三池で採掘された石炭は、1908年以前は大牟田港→口之津港(または三角港)→長崎港、三池港が完成する1908年以降は三池港→長崎港を経て、いずれも上海・香港・シンガポールに蒸気機関の燃料として運ばれていた。
ここで石炭はどのように利用されていたかについて触れよう、①石炭を燃やし、海水を煮詰めて塩を作ったり、貝を焼いて石灰や漆喰を作ったりした。②石炭を燃やし、蒸気を発生させ、蒸気機関により蒸気船、軍艦、炭鉱の巻上機(エレベーター)など、機械や設備を動かすエネルギーとした。③発生させた蒸気でタービンを回し、電気エネルギーに転化し、電気機関車や炭鉱の機械類など、機械や設備を動かすエネルギーとした。④石炭を蒸し焼きにして、製鉄や亜鉛精錬に必要なコークスを製造した。コークスの副産物として産出するタール及び石炭ガスから肥料・医薬品・染料などの化学製品を製造した。三池炭鉱には、大正時代には東洋一の石炭化学コンビナートが形成された。
石炭とともに発展してきた大牟田市・荒尾市は日本の産業の牽引車として、その役割を果たしてきた。その輝かしい歴史の影には、明治・大正・昭和初期の囚人労働、戦前戦中の中国人強制労働・朝鮮人強制徴用、戦中の欧米人捕虜の強制労働、三池争議、炭塵爆発等、『負の遺産』と呼ばれるものもみられる。このように日本の産業史には大きな足跡を残した三池炭鉱も1997年に閉山した。このところは大牟田市制作、熊谷弘子監督「三池終わらない炭鉱(やま)の物語」(DVD発売中)に詳しい。
3. 近代化産業遺産(大牟田の宝もの)との出会い
市内の南東部の勝立地区には5千万年前の新生代古第三紀層が見られ、地層からは二枚貝・サンゴ・サメの歯を始め、88種の化石が発掘されている。高校時代は地学サークルで数回採集に行ったことがある。この時代に繁茂していた針葉樹と広葉樹が倒伏して、川で運ばれたものが堆積して、長い年月と圧力により生成されたものが石炭である。閉山になった今でも高取山付近では石炭露頭がみられ、小学生を引き連れて採集会を行っている。
三池炭鉱の石炭層は5度の傾斜で西に続いている。炭層を追って採炭するために、大牟田市の内陸部の丘陵地帯(地表で採炭)から有明海の中央部付近(地下650m)まで、坑口施設や入気排気坑は時代とともに西へ西へと移動している。三池炭鉱の近代化遺産の特徴は万田坑・宮原坑(国史跡・重文)など石炭採掘の坑口施設から、三池鉄道や三池港など輸送施設、さらには倶楽部施設、囚人労働の集治監などが残っており、遺跡を通して石炭産業の全体が見えることである。また、クレーン船、三池港閘門など機械・施設が百年の歳月を現役で生き抜いていることである。
内陸部に石炭化学コンビナートが形成され、坑口を中心に炭住が整備され、石炭と人を三池鉄道が運んでいた。大牟田・荒尾の都市の骨格は三池鉄道を中心に形成さたことが読み取れ、都市計画の視点で見ても興味ある対象といえる。近代化遺産の前に立つと日本の産業の黎明期や戦後復興に果たした石炭の役割が彷彿と思い起こされる。まさに、これらは、大牟田の宝ものと自慢できる。
しかし、25年前の私はこれらの炭鉱施設や歴史はほとんど知らなかった。目に写っても、当たり前の日常的な風景であり、何も思わなかったのかも知れない。特に、珍しくもない、自慢どころか、コークス炉の降下煤塵、大牟田川の廃水の強烈な臭いと色、亜鉛精錬に伴うガドミウム土壌汚染等、捨て去り、消してしまいたいという気持ちが強かったのかも知れない。
ちょうど、組合の役員をしていた頃に自治研活動で大牟田市の魅力を探る調査に携わった際に、九州芸工大の岡道也先生から「イギリスには産業考古学という学問があり、都市の再生に活用されている」という話を聞いてから、興味を持つようになった。早々、産業考古学会に入会したものである。その後、当時の商業観光課が市民の皆さまと観光資源を掘り起こし、大牟田市の観光ビジョンを策定する仕事に事務局として携わった。その流れで1989年には第三セクター㈱ネイブルランドに出向し、会社設立やテーマパークの企画づくりに携わった。炭鉱閉山対策として計画され、1995年に開園したネイブルランドは残念ながら、1998年12月に閉園した。ネイブルランドと同時にオープンした大牟田市石炭産業科学館は現在も稼働中で、炭鉱に関する総合博物館として大牟田市直営で運営されている。
ネイブルランドの閉園後も、三池炭鉱の近代化産業遺産群が市の活性化に役に立つという思いは募るばかりで、市役所の友人5人で「マチおこし研究会」を立ち上げた。大成建設の助成を得て、産業遺産として世界遺産第1号のイギリスアイアンブリッジから講師を招聘したり、銅のまち新居浜市と交流を図ったりした。このような時に、永吉氏と鵜飼氏が私の職場、第三セクター㈱花ぷらす(道の駅おおむたの園芸店)に来られて、ファンクラブの構想を熱っぽく語られた。私は、即座に参加を表明し、発起人会に出席した。大牟田・荒尾 炭鉱のまちファンクラブが設立されたのは2001年10月28日のことである。
4. 大牟田・荒尾 炭鉱のまちファンクラブの活動
会の目的については、定款に明確に書かれている。「炭鉱のまちの様々な地域資源を活かしたまちづくり活動を展開する事業を行い、地域の活性化へ寄与することで、炭鉱のまちの風景と心象が次世代に継承されていくことを目的とする。」
登録会員は約100人だが、実際に活動に参加する会員は10~15人である。毎月1回の定例会と行事を行う活動日にはそれぞれ集まってくる。元炭鉱マン、主婦、大学教師およびOB、介護施設長、公務員、電気会社社長などで、各人それぞれが炭鉱や郷土に寄せる思いを持っている。解体の危機にあったレンガ造りの三川配電所施設を購入し、登録文化財にするとともに会社の社屋として活用している人、NPOの活動を論文に取りまとめ、博士号を取得した人など、個性のある会員ぞろいである。対外的な連携もうまく行っており、軍艦島や北九州、鹿児島のグループとのネットワークを生かしたり、専門家に助言や協力を頂いたりして、近代化産業遺産の保存活用について多様な取り組みを行ってきた。15人の力でも、いろいろな活動ができるものである。近年の代表的な活動を紹介しよう。
(1) 石炭産業科学館館内案内及び企画展業務(現在も継続中。 中野理事長が専任)
大牟田市より委託を受け、大牟田市石炭産業科学館の館内案内と、企画展の準備や運営に関する業務を行っている。
(2) 万田炭鉱館指定管理(現在も継続中。 元炭鉱マン梶原氏が館長として専任)
熊本県荒尾市より委託を受け、万田坑(国史跡・重文)の近くにあるコミュニティーセンター(公民館施設)の指定管理を行っている。公民館の貸館事業と市民ガイドの育成・研修を行っている。三池炭鉱は大牟田市(福岡県)と荒尾市(熊本県)にわたっており、行政間の連携が図られて保存活用が進められているが、どうしても抜け落ちる部分を補完していくこともNPOの役割として重要であると考えている。
(3) 万田坑市民まつり(毎年実施)
万田坑ファン倶楽部と共催で、施設ガイド、スケッチ大会、演芸会、炭坑節総踊りなどを実施。昨年から始めた地域ぐるみのもちつき大会は、みんなが関わる仕事があると好評である。
(4)
TantoTantoウォーク(毎年実施)
2002年度より大牟田・荒尾に残る炭鉱遺産を歩いて巡るウォーキングを実施。
(5) 「石炭今昔三池かるた」制作販売(第二版販売中)
大牟田市には「かるた発祥の地」として、市立の資料館がある。大牟田美術協会・荒尾美術協会の協力で、炭鉱の歴史に親しんでもらうために、三池炭鉱を題材としたかるたを制作販売した。
(6) 宮原坑社宅の改修工事と市民公開(2004年度事業)
宮原坑に隣接する旧社宅を、大牟田市、有明高専、NPOの協働で改修。その後は、施設公開日に教育委員会の手伝いをしたり、地域住民・中学校と草刈ボランティアを実施。
(7) 福岡県教育委員会委託事業 筑後子どもキャンパス(2005年度~2009年度)
子ども達に地域資源を活用した一泊の体験活動の機会を提供するもの。化石を採集したり、石炭を掘って燃やし、臭いや燃え方を観察したり、炭鉱の煙突の高さを測ったり、いろいろな体験メニューを用意している。
(8) 三井港倶楽部の保存運動(2005年度事業)
1908年に三池港と同時竣工の倶楽部施設である。営業されていたレストランが休業し、施設の撤去や移転が危惧されたが、大牟田経済倶楽部、地元商店街、NPOの署名活動で沸きあがった市民の声を背景に、大牟田経済倶楽部が核となり㈱港倶楽部保存会が設立され保存された。これを契機に大牟田市は税控除が適用される寄付金制度「近代化遺産保存活用基金」を創設した。
(9) 文化庁委嘱事業(2006年度事業)
文化庁の助成金を得て、荒尾市万田坑で「三池炭鉱ほりだしものがたり~トラスト創設に向けての協力連携のプラットフォームづくり」を実施。①山の神コンサート、②小中学校教諭のためのワークショップ、③公開講座「三池炭鉱が世界遺産になるって、ホント!?」、④万田坑の保存活用を考える「ほりだし講座」を実施。
(10) 郵便事業会社の助成事業(2007年度~2010年度の4年継続)
三池港及び周辺施設の保存活用について、調査を行うとともに保存に対する市民の気運を盛り上げる事業。2007年度は三池港ドックに隣接する旧長崎税関三池税関支署の測量と詳細図面の作成を行った。2008年度は開港当時から現役で稼動している三池港閘門の動くシステムを理解するための模型を作った。両年とも有明高専の協力により実施できた。21年度はシンポジウム「三池港と世界遺産」の開催及び三井文庫(東京都)で世界遺産登録に向けての文献調査を行った。
(11) 近代化遺産のネットワークづくり
九州各地の近代化産業遺産のある地域で活動している団体と情報交換するとともに、共同で行事を開催するなど、横の連携を広げている。
私たちの活動の概要を紹介したが、NPO認証されたのは2003年4月7日であり、それ以降に会の活動が広がり、財政的な面も安定してきた。地域での評価もますます高まりつつある。NPOの活動は好きである。土日が活動になるので、休みがとれずしんどいこともある。しかし、みんなと同じ思い“近代化産業遺産を保存活用しよう。私たちの誇りを次世代に継承しよう。”で、同じ方向に向かってベクトルをひとつにする醍醐味は、運動を継続する大きな力となっている。
5. NPO理事と市職員 二枚看板のつぶやき
NPOとしての活動は明解である。近代化産業遺産を保存し、活用すべきだ。そのためには、多くの市民に理解していただくよう啓発しよう。運動を広げ、強固なものにするために他地区の保存活用グループや専門家とのネットワークを築く訳である。昨今は行政を経ないで文化庁から直接支援を得る事業もでてきた。文化庁委嘱事業(2006年度事業)の場合は、指定管理を受けている荒尾市を中心に事業を組んだが、小中学校教諭のためのワークショップについて大牟田市教委に参加を打診したら、反応はよくなかった。教育委員会としての方針が定まらないうちに、NPOが先走ることが迷惑がられたようである。NPOの活動が成果をあげるためには、行政との連携は重要であり、連携を確実なものにするために、最近は行政・市内の観光ボランティア・地元市民そして私たちNPOが合同で実行委員会を作り、一部の事業は実行委員会主催として執り行っている。
私がNPOに所属していなければ、どういう立場で活動しているかとか、他の課の仕事に口をだすなとか、反発が出てくるだろう。NPOに所属し、そのNPOが力をつけていくとそのような反発は行政からは聞こえない。
NPOの活動は、勤務時間中には行わないことにしている。しかし、職場を訪ねてこられる市民や、取材に来られるマスコミの皆さんと時間中に数分立ち話をすることはある。NPOの活動等により、年間20日の年休は完全に消化している。いまのところ、何とか平穏に過ぎているが、職場の同僚や上司の理解を得るすべを模索している。
市役所での仕事を振り返ってみると、採用後5~10年頃に大牟田市の公害を考え、行動するグループ「大牟田市役所公害○○(まるまる)会」「公害に反対する市民学習会」に参加していた。退職された先輩の言葉「公害に対する視点をどこにおくか。廃水問題を考える際には、廃水口から海を見るのではなく、海の中から廃水口を見るべきだ。」に共感し、毎年夏には年休を取って海苔ひびの竹立てに漁業組合長宅に通ったものである。大牟田の優良農地である三池干拓に物流団地の計画が出たときは、カドミウムの土壌汚染を復旧して農地として利用するのが市のやるべきことと訴えて反対運動を行い、担当部長から叱責をうけたこともある。退職までの残された6年間、仕事とNPOを両立させることが私の課題である。
最後に、最近うれしくて小踊りするニュースが舞い込んだ。世界遺産の暫定リストを基本に、「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産の絞込みを行ってきた専門家委員会は6県12市からなる世界遺産登録推進協議会(会長・伊藤祐一郎鹿児島県知事)に対して、提言書をまとめ10月22日に報告した。その中で、三池炭鉱関係は、すでに世界遺産の候補としてリストに掲載されていた万田坑・宮原坑・三角港に追加する形で、三池港と三池鉄道が盛り込まれた。これから、協議会は文化庁と協議しながらユネスコの本登録を目指して進むわけである。大牟田市も、保存活用が鮮明になり、市総合計画でも位置づけられることが決定した。これから、世界遺産登録までNPOとしても活動が増大することが予想される。
NPOの活動で、いま、一番やりたいことは5年後に想定される世界遺産登録まで、より多くの市民の皆さまが関わることのできる仕組みを作ることである。市役所とNPOの30人程度が関わるのではなく、300人、3,000人の市民が関わると、それぞれに世界遺産の誇りが宿ると確信している。それこそが、世界遺産になる最も大きなメリットと思う。
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