1. 当事者に寄り添う気持ち
少しばかりの自己紹介をさせていただきます。父親は、佐野眞一氏の「満州国」に関する執筆の中にも出てくるような甘粕正彦氏の近くに居た軍医でした。「甘粕機関」の引き揚げに関して、中央からの指示が届かず、自分の持っていたもの全てを投げ売って、それを成し遂げたと聞いています。そんな状態でしたから、幼少時には「貧乏医者の子」と言われた覚えもあります。その苦労からか父親は、やや左寄りの発言・行動をする傾向にありました。しかし家では封建的な家父長そのもの、そして医者としての「プライド」は高く、「専門家」として姿勢で、住民運動にかかわっているのを、たびたび目にすることがありました。
この父親への反発もあって中学校時代には、将来は官僚になりたいと思って勉強をしていました。中学から高校時代は、学生運動の激しい頃で、そんな希望は隠して通学していました。高校2年の冬、通学の途中で、気管支喘息の子どもが発作で苦しんでいるのに出会い、「こんなことが在ってはいけない。医者に志望変更しよう。」と思いました。その後、父親も参加していた反公害の住民運動に顔を出しながら、2年間の浪人生活の後、医学部に入学しました。その頃には、やはり父親の住民運動に対する対応に疑問を感じて、そこを離れ、宇井 純氏の「公害原論」に参加しました。
大学2年の頃には、ほとんど学生運動も下火となっており、誰も手を挙げなかった大学祭実行委員長になり、その後4年間、住民運動・市民運動の現状を伝える活動もしました。そうしていたところ、東京医科歯科大学の松原雄一氏から、住民運動・市民運動に加わっている医学生の全国組織を創ろうとの呼び掛けがありました。全国医学生交流会から21世紀の医療をつくる若手医師の会への活動の中、それを支援してくれていた現在の総理大臣にも出会い、その後、その応援をする形となりました。研修医の頃、環境保護の市民運動の中で、「こうした活動をしているのに、タバコを吸っているのは問題。」と言われて、活動から一歩引きました。
そのような状況の中で、野宿労働者支援の活動に誘われました。特に、公立病院の救急医療を中心とする勤務医時代は、月に360時間働き、年間150枚の死亡診断書を書く生活でしたので、年間10数回しか活動に参加できない時期もありましたが、何とか継続してきて、今年で31年目になります。実際には相談員など他の仲間の力が大きかったと思いますが、名古屋弁護士会の人権賞もいただきました。そうこうしている内、難病の患者会や認知症の家族会のサポーターとしても活動するようになりました。こうした活動の中では、まず当事者に寄り添う気持ちが大切と考えています。
こうした活動に登場する医師の中には残念ながら、専門家として加わり、自分の哲学や自分達の組織の考えで、当事者を引き回そうとしたり、自分や自分達の組織の利益や宣伝のために活用しようとしたりする者も多く現れます。このような介入は、結果として当事者団体の自主的な活動を阻害し、場合によっては、活動停止に陥らせたこともあることを、ここでは指摘しておきたいと思います。現在の総理大臣とは、HIV訴訟関係の対応の仕方で意見が食い違い、その下から去りました。当事者団体に寄り添うという形より政争の具として利用していると感じたことがあったからです。 しかし現在の総理大臣には、新党さきがけ愛知県支部の幹事をしていた時期に、厚生省の外郭団体の在宅ケア委員会の委員として活用して頂けたこと、拡大厚生部会に、黒岩卓夫氏や山井和則氏と一緒に、意見具申をさせていただけたことは感謝しています。ここから「介護の社会化を進める1万人市民委員会」に参加し、その後その愛知県支部を改組した「特定非営利法人医療と保健と福祉の市民ネットワーク東海」の理事長となり、さらに現在の国立長寿医療研究センターの下請け在宅療養支援診療所となっていたことから、介護支援専門員指導者や愛知県介護支援専門員支援会議の副委員長としても活動させていただき、介護分野における行政と市民の協働に取り組んでおります。
2. 当事者を中心とする医療と介護の連携
在宅療養支援診療所を開設した当時は、救急医療や呼吸器の医者として、癌や難病の支援を中心にと考えていました。しかし東海市には、「認知症の人と家族の会」の愛知県支部の事務局があり、その方々と接触するようになり、認知症というものを教えていただいて、今後の超高齢化社会において、認知症を支える地域システムの構築が、最も大きな課題であることに気付かされ、その事務局の手伝いもするようになりました。これは、軽度あるいはグレーゾーンの「知的障がい」や「精神障がい」を持つものも多い野宿労働者の支援活動と全く同じ姿勢でのサポートができると感じています。 自治体からの直接的な助成が、何も無かった中で、認知症の介護教室(写真1)や相談会(写真2)も始めました。また虐待された子ども達の保護施設に、認知症の方々を「デイサービス」として連れて行って、交流させることもしました。認知症の方々が子ども達を守ろうとする姿も観られ、高齢者と子ども達の接触の場を創っていくことが、「地域崩壊」の中からの再生の第一歩になる気がしています。ただし、高齢者の中には子どもが苦手という方も居られますし、子ども達の中には、祖父や祖母からも辛く当られて、高齢者に対する反発があって、暴力をふるいかけたこともありましたので、全てが、これで上手くいくとは思っていません。もう一歩何らかの方策が必要と考えています。 当初は、「児童の施設に高齢者を入れることは許されていない。」という指導も、行政側からありました。しかし、こうした中に意識のある自治体職員も、一市民として参加してこられるようになり、そこから自治体側を説得するということもしていただけました。こうした中で「認知症の人と家族の会」の事務局では、時々交流会と称して食事会(呑み会;写真3)を行っています。この中での意見交換や個別相談が、地域での活動には大きな力となっているものと考えています。また、その場が家族同士のピアカウンセリングとなっていて、ここに大きな癒しがあるように思っています。
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(写真3)
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「認知症の人と家族の会」では現在、商店街にお願いして、認知症の早期発見と見守りを行っていただく事業を進めています。アルツハイマー型認知症では、計算に自信が持てなくなって、少しの買い物でも高額紙幣を出す、前頭側頭型では支払いを忘れる(万引きと間違えられる)、レビー小体型では初期には不安神経症様となって、何を買ったら良いか迷ったり、速射砲の如く不満を訴えたりすることがあるといったことを、地域住民に理解していただくことが重要ですし、こうしたことに自治体から助成が下りれば、商店街の再生から地域再生にもつながるものと考えています。
3. 医療と介護の連携のためのシステムの現状と問題点
認知症については、その家族やさらに看取り終えた方々の努力によって、かなり地域介護(医療と介護の連携)のシステム構築は、徐々にではありますが進んできていると思います。現在の最大の問題は、在宅介護支援センターを残したまま、地域包括支援センターを設立したところでは、さらにシステム構築が進んできている感もありますが、在宅介護支援センターから地域包括支援センターに改組した所では、地域包括支援センター毎の対応に温度差もあって、以前より後退してしまったと言わざるを得ない地域もあることです。 認知症は、初期の極軽度の段階と中等度から重度になる段階の2回、混乱した状況が出現します。この段階を上手く各種施設が支えていただけるのならば、かなり介護は楽なものになります。しかし介護としては比較的楽になった最終段階の認知症しか入所できないような施設もあります。混乱した段階では、家族と在宅サービスに苦労を押しつけて、疲れ果てたのをよいことに、最後の楽な部分だけ持っていく介護施設もあるのには、暗澹たる気持ちにさせられます。もちろん状況を、よく理解されて、十分な対応をしていただける施設もあります。こうした施設からは、「認知症の人と家族の会」の集まりに参加されています。当事者を囲むネットワークとしてシステムを構築することの重要性が、ここにも現れていると思っています。
図1は、介護保険開始時に講演会等で使用した連携図です。現在、認知症の最終段階での在宅介護では、この連携図に加えて、歯科医師、歯科衛生士、管理栄養士、薬剤師も加わった多職種連携の状況も生まれています(図2;厚生労働省の栄養ケアマネジメントの講義資料から)。この輪の中に、在宅介護支援センターや地域包括支援センターが加わっていただけたらと思うことも、幾度と無くありました。各自治体、そしてその傘下の社会福祉協議会の仕事として、地域介護システム構築のため、何ができるか今一度、検討し直していただければと思っています。
これに対して癌や難病、重度の「身体障がい」や重度の「内部障がい」児・者の場合には、一部の頑張っている在宅療養支援診療所と訪問看護ステーションが、少しばかり無理をしながら対応している状態で、地域介護システムとしては、これから創っていく段階かもしれません。こうした方々への支援の中心は、認知症以上に、訪問看護師の力が大きいのですが、介護職からの介護支援専門員が増え、その重要性が理解できなくて、「値段の高いヘルパー」といった声も大きくなってきているのは、かなり憂慮すべき事態と考えています。また、こうした手のかかる方々を、一切診ないとしている在宅療養支援診療所や訪問看護ステーションもあるのは、非常に問題と考えています。
また、こうした方々への支援では、たびたび病診連携の壁に突き当たることがあります。まず、当事者や介護者に強い専門医志向がある場合があること、その専門医の中に、特に公立病院の医師の中に、在宅介護支援の専門医を下に見て、任せきれないといった対応をされる方々が居られること、退院支援室、社会復帰支援室、病診連携室、地域連携支援室等、各病院で名称が異なっていますが、これら病院と地域を繋ぐ仕事をしている担当者に、入退院の実権が渡されていなくて、単なる連絡役、場合によっては広報係のように、病院の宣伝のみされる方も居られるのには、うんざりしています。この仕事を、もっと各病院が重要視していただければ、その病院の収益も上がるはずだと考えています。
4. 医療と介護の連携の今後の課題
医療崩壊の時代と言われています。先に述べましたように、病院の収益を上げるには、十分な病診連携を行い、平易な疾患や要介護者は診療所に任せて、より高度な医療に特化する必要があります。その中で地域連携を加味して、しっかりした研修システムを構築すれば、若い医師達にも魅力のある病院となり、医師不足も防げることは間違いないだろうと考えます。こうした病院の医師達の意識改革と同時に、地域住民の意識改革、まず診療所のかかりつけ医に相談して、その上で病院に紹介してもらうという常識のある医療機関へのかかり方を学んでいただくことが必要と思っています。 家庭崩壊の時代と言われています。介護保険が始まった当時は、「嫁が高齢者介護の犠牲になっている。」と言われ、「少しでも嫁の重荷を軽くしよう。」という訴えもありました。今は、「嫁が逃げ出して、娘が犠牲になっている。」という話も聞こえてきます。さらには老々介護、認々介護、そして独居。100歳の方を80歳の娘が介護では、十分な対応はできません。「介護保険前にはあったよね。」という話になるような「寝かせっきり」で粥だけ与えて褥瘡多発なんていう事例も、最近再び多く観られるようになってきました。その多くは介護保険の情報が伝わっていない低所得者の方々や認々介護の方々です。こうした方々には、早めに地域包括支援センターが介入し、施設入所も含めた対応を考える必要があるものと思っています。 かえって独居の場合のほうが、在宅介護支援がし易いと考えています。貯金や収入のある方であれば、各種IT機器の利用と、互助サービスとしての看護職を含めたボランティアの活用や、共助としての隣人の力も借りた、まさに地域ケアとして24時間体制を敷けば、完全な寝たきりであっても、さらには人工呼吸器付きであっても、十分な介護と満足な看取りを提供できると考えています。逆に生活保護の場合も、諸制度を利用して、かなり十分な在宅療養支援をすることができます。問題は商店主や零細農家等で、国民年金保険料を前納していても、生活保護以下の所得・生活しか保障されていないという制度上の問題があって、一部の方々では独居の要介護状態は難しいという話になります。 生活保護以下の生活状態の方々の支援のためには、もちろんこうした方々には土地や建物といった資産があることもあり、リバースモゲージの活用を、もっと自治体から当事者に説明していただく、普段から制度の理解を促す住民への広報活動をしていただく必要があると考えています。それも抵抗されたら、先祖伝来の資産を手放すことはできないとされたら、いつも講演などで述べていることですが、在宅療養支援診療所の医師が、ヘルパー代わりのボランティアとなって、おむつ交換から清拭まで行う以外にないのが現状です。「真面目に保険料を納めたものが最後に苦労する社会、何とかなりませんかね。でも満足な看取りはさせていただきます。」とぶつぶつ呟く、これが最近の口癖のようになっています。
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