【自主レポート】

第33回愛知自治研集会
第10分科会 自治体から発信する平和・人権・共生のまちづくり

 広島県本部は平和運動の継承として、03年11月に、県本部内で「平和活動委員会」を立ち上げ、「被爆60周年」に向けて、広島県内各単組の平和運動の調査を行いました。広島からの発信として、原爆の碑めぐり、リーフの作成、原爆写真CDなどを47都道府県本部へ送付しました。広島県内全自治体は、「非核自治体宣言」を行い、7月・8月には、自治体によって取り組みの格差はありますが、原爆展など行っています。



ヒロシマ・ナガサキから核廃絶の運動を世界に
被爆60周年から被爆65周年まで ―― 核兵器廃絶2020ビジョン

広島県本部/大竹市職員労働組合 山崎 幸治

1. はじめに

 広島での原水禁運動は、反核平和の火リレー、平和行進と、6月の梅雨入り前後から始まります。平和の火リレーは地域の青年女性が中心になって、爆心地の平和公園の火を採取し出発し、県内全自治体首長に要請書を手渡し、走り継ぎ平和公園に戻ってきます。平和行進は、東コ-スは岡山から、西コースは山口からそれぞれ引き継ぎ、北は広島県北の庄原市から出発し、8月3日に3コースが平和公園で合流します。
 自治体における非核自治体宣言の運動は、1982年3月に府中町から始まり、一気に県内に広がりました。丸いワッペンシールを作成し、各地域で一軒一軒訪問しながら署名活動と100円でシ-ルを買ってもらい玄関に「非核自治体宣言」のシ-ルを貼る取り組みでした。市町村合併により自治体数は少なくなりましたが、「非核自治体宣言」は全自治体で行っています。

2. 国内外へ ヒロシマ を発信

 県本部平和活動委員会設立目的
 原水禁運動、沖縄をはじめとした反基地運動、世界各地で勃発する戦争や国内でそれを推し進める動きを阻止し抗議する取り組みなど、政治の反動化に伴い平和を脅かす問題が多発しています。こうした情勢を受けて、原水禁、平和センター、連合広島から県本部に対する行動要請も増加しています。しかし、一方でそうした行動が、ともすると動員主義や行事消化に陥り、一連の反戦・反核・平和運動と捉えきれない弱さが生じているのも事実です。したがって、県本部平和活動委員会を新設し、年間を通じた一連の平和に対する取り組みを県本部として受け止め、様々な反戦・反核・平和運動を統一的、体系的にするとともに財政的にも裏づけのある運動としていきます。

(1) 平和活動委員会(2003.11.25)
 各単組の取り組み状況について(アンケート集約から)
① 反戦・反核座り込み行動について
  「ほぼ」以上実施している単組が34.5%で、平和行進(79.3%)、反核平和の火リレー(91.4%)、原水禁大会参加(82.8%)に比較すると随分低いパーセンテージになっています。逆に言えば平和行進等は恒例化しており、多くの単組で定着しているといえます。座り込みが参加できにくい理由としては、座り込み実施地区が広島・尾道・府中・東広島・三次・福山・大竹と少なく、地理的な問題も大きいと思われます。また、座り込み指示も緊急であり、対応が難しい状況があります。全体の座り込み状況では、自治体前で行っている単組は結構あると思われますが、核実験反対が中心でイラク問題など反戦での座り込みとなっていません。
  今後は、全単組での座り込みを追求していくことと合わせて、現在実施している地区と連携したり、総支部内で集まりやすい拠点を作れないか検討する必要があります。
② 単組での平和学習の開催について
  「ときどき」実施以上が43.1%と、おおむね6割の単組が平和学習会を開催できない状況があります。その理由としては、「学習会の準備ができない」「指導的(中心的)立場で関わる人がいない」などがあります。その一方、反核平和の火リレー関係の学習会は、青年女性を中心とした取り組みが見られます。今後の取り組みの手法としては、平和学習会をもっと身近なものとして捉え、昼休みなどの時間を利用してビデオ鑑賞等を実施してみてはどうでしょうか。青年女性の「碑めぐり」など、日程設定し県本部平和学習として基本組織役員・組合員の参加を募っていきます。
③ 平和集会の開催について
  「時々実施している」以上を含めると88.0%の単組で実施(参加)している状況があります。こうしたことは、この間の非核自治体宣言等の取り組みに対する成果が大きいと思われます。しかし、その一方で庁舎敷地内での座り込みに対して、有事法制・イラク問題等の政治の反動化によって、平和運動に対する攻撃も強まりますが、これまでの取り組みに自信をもって、平和集会等の開催を継続していく必要があります。また、非核自治体宣言をテコにして、当局へ原爆パネル展を実施させたり、非核自治体宣言から非核自治体条例制定に向けた運動を展望する必要があります。

(2) 被爆60周年
① 平和活動委員会2005年度(2004.12.3)
 ・自治労広島県本部平和活動委員会は、「被爆60周年のスタート」として、「全国への発信」「NPT再検討会議とニューヨーク行動」「5・15オキナワ平和行進」「被爆パネルと碑めぐり」「今後の取り組み~私たちにできること~」の討論を始めました。
 ・反戦、反核、平和運動を中心に統一的、体系的に取り組む
 ・財政的にも裏付けのある運動へ
② 被爆60周年広島県本部企画
  「被爆60周年のスタート」スライド作成
  「ヒロシマから世界へ 核も戦争もない未来を」リーフ作成
   ・被爆60周年の年「被爆地ヒロシマ」として、「自治労」ができることを、行動に移していく。
   ・全国への発信……どのような手段で、何を。
   ・被爆パネル「ヒロシマの被爆」……広島県本部に保管している被爆パネルを活用し、諸集会や単組などへ展示してもらうなど、一人でも多くの人へ「被爆の実相」を伝える。
   ・「碑めぐり」……広島県本部として、平和公園の碑、それぞれの碑の思いなどを聞き取り、調査して「碑めぐり」冊子を作成する。また単組などの学習会資料として、活用してもらう。


(はじめに)
 1945年8月6日 月曜日 午前8時15分 暑い夏空を見上げながら、広島の人々は一週間の始まりを迎えていました。その時です。日本と戦争を行っていた米国の爆撃機から小さな爆弾が投下されました。その瞬間、光と音そして爆風で広島の人々は今まで体験したこともない衝撃を受け、一瞬のうちに町並みが跡形もなく消え去ってしまいました。

(原爆ドーム)
 被爆前の原爆ドームは『産業奨励館』と呼ばれ、商工関係の団体や、内務省等が入っていました。この原爆ドームの位置がほぼ爆心地で、上空約580メートルで原子爆弾が炸裂しました。原爆ドームは爆心地付近にあった事で、上から大きな力がかかり、その後、爆風が外に広がり、中心が一旦真空状態になり、その返りの爆風が中心に向かいました。構造上、そうした上下の圧力に耐え、コンクリートのため燃えにくかったので残りました。
 この原爆ドームが爆心地になったのは、一説にはアメリカ軍がこの先にある相生橋という、当時としては珍しいT字型の橋を投下目標にしたためと言われています。当時の広島は、被服廠や兵器廠の軍の施設が南にあり、北にも広島城を中心に練兵場等がありました。そういった軍の施設でなく、一般の施設を狙ったのは、初めて使用する原子爆弾の威力を確かめる試験的な意図がうかがえます。そうした思惑の中で、この原爆ドームを中心に原子爆弾が炸裂しました。

(原爆の子の像)
 『原爆の子の像』は、別名を『千羽鶴の塔』とか『折鶴の塔』と言われています。この慰霊碑は、白血病のために12歳の若さで亡くなった佐々木禎子さんの死を悼み、募金で設立されました。碑の上には、折鶴を持った少女の像が乗り、中に金色の折鶴のモニュメントが下げられています。
 佐々木禎子さんは、爆心地から2キロ離れた三篠町で、2歳の時に被爆をしました。当時は元気で過ごしていましたが、小学校6年生の時、急きょ発病し、長い闘病生活の末に、中学1年生で亡くなりました。禎子さんは、「千羽の鶴を折ったら良くなる」と聞き、望みを抱きながら折っていました。実際に折り上げた数は、千羽を超えていましたが、母親が「まだ六百」「まだ七百」と、「まだ千に届かないから、もう少しで元気になるよ」と励ましながら、闘病生活を過ごしていたようです。禎子さんをはじめ原爆の犠牲になった多くの子どもの慰霊のため禎子さんの同級生が中心になり全国の児童・生徒に呼びかけ建立しました。
 原爆の熱線や爆風で亡くなった被災者の慰霊碑が大半ですが、この像が唯一、目に見えない放射線の影響で、将来的にも健康を害し、命を落とす方がいることを訴えています。特に、原爆投下5年から10年経過して、白血病で亡くなる人が非常に増えてきた経緯がありますし、現在でも、癌になる確率は放射線を浴びた人と浴びない人で、有意な差が認められています。二世・三世問題での放射線の影響については、厚生労働省は、“二世・三世の数すら把握していない”のが実態です。放射線の恐怖を通じて、二世・三世問題まで問い掛ける碑でもあります。


(3) 被爆者・被爆二世・被爆三世
① 自治労被爆協の取り組み
  自治労組合員の被爆者、被爆二世・三世を中心に取り組みを進め、94年の被爆者援護法制定でひとつの到達点を迎えました。その後被爆者が職場から退職したことに伴い、現在は二世・三世を中心に、被爆者援護法に規定されていない、被爆二世・三世問題の充実を求めるなど取り組みを行っています。
 ・被爆60周年広島県本部企画の「碑めぐり」ガイドを取り組みました。
 ・毎年の被爆協総会で学習会を行い、被爆の実相や被爆二世・三世問題を共有すべく取り組みを進めています。
② 全国被爆二世団体連絡協議会との連携
  自治労被爆協も加盟する全国被爆二世団体連絡協議会に、会長を選出し、被爆二世・三世問題の解決をめざし取り組みを進めています。「再びヒバクシャをつくらないために」を合言葉に、厚生労働省や放射線影響研究所等とも継続的な協議を行っています。

(4) 放射線影響研究所労組の取り組み
① 自治労中央本部内に「放射線影響研究所対策会議」を設置し、厚生労働省や米国国防省(アメリカ大使館内)窓口を持っています。
② オープンハウスの歴史
  ABCCから放射線影響研究所(放影研)を通して初めての施設開放を1995年8月5日に行いました。ABCC時代からのイメージそのままを抱いておられる方、比治山の山の上にあり身近に感じられないこと、米国が建てたかまぼこ型の見慣れない建物であることなどから、昔から近くに住み子ども時代は比治山が遊び場であった人や近くを訪れたことがある人でも、多くの方が「何をしているところかわからない」「異様な雰囲気がする」「怖い」「名前からして放射線をつくっているところなのかも」という感想、イメージを持たれていました。そんなイメージを払拭し、親しみを持っていただくこと、開かれた施設であること、行っている調査研究を理解していただくことを目的に、仕事内容を説明させていただくオープンハウスを開催しています。当日の資料は全て職員の手作りです。
  初めのころの開催日は8月か11月の1日間の開催でした。
  第1回目1995年8月5日・第2回目1996年8月5日・第3回目1997年11月3日(長崎 第1回目1997年8月8日)・第4回目1998年11月23日(長崎 第2回目1998年11月2日)・第5回目1999年11月27日(長崎 第3回目1999年11月23日)・第6回目2000年8月4~5日
  県内、県外の多くの方に来ていただくことができるように、第7回目の2001年以降からは広島8月5日~6日、長崎8月8日~9日の2日間の開催が定着しました。今年2010年は広島での第16回目の開催となり、過去最高の1,476人の入場者がありました。
③ 広島第5回目(1999年11月27日)からは講演会を開催し継続しています。過去からの講演会の演題は「放射線ってなあに?」「放射線の疫学調査ってなあに?」「国連機関と放射線影響研究」「広島・長崎と疫学」「放影研60年――取材の立場から」「原子爆弾による放射線の人体への影響」「1人ひとりに最適ながん予防を目指して」「生涯リスク:ヒトにおける放射線の影響を明らかにする方法」などがあります。講演会に合わせて、放射線の基礎知識、放影研の国際協力関係と世界中の研究機関との共同研究による国際貢献、被爆者の方々の協力で行うことのできている健康診断調査の概要、そして調査から得ることができた成果、ABCCから放影研にかけて60年間の歴史などをより理解していただけるよう展示も工夫してきました。
④ 広島の第3回目(1997年11月3日)の翌日11月4日にABCC-放射線影響研究所設立50周年記念式典・記念講演を開催しました。長崎では第2回目(1998年11月2日)の翌日に設立50周年記念式典が開催されました。
⑤ 来られた方にはアンケートへの回答のお願いをしています。中にはABCCのイメージのまま批判的な回答もありますが、多くの方からは「行っている研究が良く理解できた」「今後も貢献できる調査研究をする施設であってもらいたい」という回答をいただき、職員の励みにもなっています。

(5) 非核自治体宣言
 1980年秋に英国のマンチェスター市から始まりました。日本国内では、非核自治体宣言を進めようとの運動が起こり、広島県内では、1982年3月25日に府中町で「非核自治体宣言」が行われ、全自治体で宣言がされています。都道府県内で全自治体が宣言をしているのは、岩手、秋田、神奈川、石川、三重、大阪、奈良、鳥取、広島、徳島、長崎、大分の1府11県です。(2010年7月1日現在、日本非核宣言自治体協議会事務局調べ)

(6) 平和市長会議
① 広島市・長崎市は一貫して世界に核兵器の非人道性を訴え、核兵器の廃絶を求め続けてきました。1982年6月24日、ニューヨークの国連本部で開催された第2回国連軍縮特別総会において、荒木武広島市長が、世界の都市が国境を越えて連帯し、ともに核兵器廃絶への道を切り開こうと「核兵器廃絶に向けての都市連帯推進計画」を提唱し、計画の賛同を求めました。現在、世界144カ国・地域、4,037都市の賛同を得ています。(2010.7.1)
② 2003年秋より2020年までの核兵器廃絶を目指す具体的な行動指針「2020ビジョン(核兵器廃絶のための緊急行動)」を策定し、世界の都市、市民、NGO等との連携を図りながら、核兵器廃絶に向けた取り組みを世界に展開しています。
③ 2020ビジョンキャンペーンには欧州議会、全米市長会議、IPPNW、全国市長会、日本非核宣言自治体協議会等、多くの組織が賛同しています。

3. 今後の取り組み~私たちにできること~

(1) 過去を学び 未来を考える
 戦争体験者が減少し、実体験としての戦争が継承されない状況では、再び戦争への道を歩むことになりかねません。体験はできなくとも、過去に何があったのか、なぜそうなったのかを学習し、させないためにはどのようにすればいいのかと考えることが重要です。被爆の実相だけでなく、広島県内にも空襲での被害や、軍事施設等、当時のことを学ぶことのできる施設は多く存在します。これらから過去を学び、核兵器廃絶や在日米軍基地問題等の現在や未来を考え、取り組みを進めていくことが必要です。

(2) 自らが行動する・みんなで行動する
 核兵器廃絶1000万人署名行動では全国で672万5千筆を集めました。このことは2010年NPT再検討会議において、参加国が様々な議論がありながら最終文書に合意する上で、大きな力となったと感じています。平和創造の上で、自分たちが何を求めるのか、はっきりと意思表示を行うことが重要です。またそれはできるだけ多数の共感の中で行われることが、より効果的です。

(3) 次の世代へと語り継ぐ
 被爆65周年を迎えた今、広島市で広島に原爆投下された日を正確に答えられる人は約70%、長崎の原爆投下になると50%になるといわれています。長崎市でも長崎の原爆投下の日は7割、広島は5割程度となります。全国では25%で、4人に3人は、8月6日、9日の意味を知らないことになります。被爆の記憶は確実に薄れつつあります。このような状況の中で、核武装論などが議論され始めています。改めて、次の世代への被爆の実相や戦争体験等を語り継いでいくことが必要です。被爆者の平均年齢は76歳、被爆を記憶としてとどめている被爆者は年々少なくなる状況です。どのような方法で次世代へと語り継ぐかが問われています。