【論文】 |
第38回地方自治研究全国集会 第1分科会 人口減少後の地域社会と政策 ~国が進めた政策の現状から考える~
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札幌市の児童会館は、戦後社会教育施設として整備され、さまざまな活動を市民参加型で行ってきた。2001年に児童福祉法に基づく児童厚生施設となった児童会館であるが、運営上は1980年代から留守家庭児童対策を始めるなど、徐々に児童厚生施設としての役割が求められていた。そして現在は社会教育施設の頃からの市民参加型で運営してきたノウハウを活かした「多世代交流施設」として位置づけられている。 |
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1. 研究に関する視点 札幌市の児童会館は、1949年に日本で最初の公設児童会館として中島児童会館が開館してから70年の歴史がある。しかし、その歴史的な変遷については、所管する部局が時代とともに変わってきたこともあり、整理されているとは言い難い状況にあった。このような中、2016年に中島児童会館の倉庫から児童会館の開館当初の資料が見つかり、報告者は児童会館の所管部局の担当者として、特に重要と思われるものを札幌市公文書館に移転させた。これらの資料をベースとして、札幌市の初期の児童会館の位置づけ・状況については、公文書館専門員である谷中(2017)(注1)が整理を図っている。また、2018年9月には児童会館の指定管理者である(公財)さっぽろ青少年女性活動協会が中島児童会館内に児童会館70年の歴史がわかるコーナー『MA・SO・BO』を開設させ、市民にも伝わるようにするなど、徐々に整理が行われ始めている。 しかし、前掲谷中論考にしても、『MA・SO・BO』の展示にしても、児童会館の開館当初から1960年代までに重点が置かれている。近年の全国の児童館の位置づけの変遷を報告した論考に八重樫(1999)(注2)があるが、これは社会教育施設(注3)としてスタートした札幌市の児童会館の状況に当てはめることが難しい部分も多い。札幌市を題材とした論考としては、亀原・古村(2010)(注4)、拙稿(2020)(注5)があるが、前者はまちづくりの中での児童会館の役割、後者は多目的ホールという児童会館の一部に着目した考察を中心としており、児童会館の位置づけというのは主題となっていない。 そこで本稿においては、70年の札幌市の児童会館の位置づけの変遷について明らかにしたうえで、現在の児童会館が期待されているものを検討することとしたい。 2. 児童会館の整備 (1) 社会教育施設としての児童会館① 中島児童会館の開館 1947年12月に児童福祉法が制定され、第40条で児童館を含む児童厚生施設について「児童に健全な遊びを与えて、その健康を増進し、又は情操をゆたかにすることを目的とする」と定義された。これに基づき、全国初の児童館として1948年に東京芝児童館が開館するなど、1940年代末~1950年代は全国的に児童福祉施策の勃興期となる。 このような社会情勢の中、札幌市で中島児童会館開館に向けた動きが出てきたのは1948年2月頃である。しかし、札幌市の当時の資料を確認すると、児童福祉法に基づく児童厚生施設とは異なる施設整備をめざしていたことがわかる。 中島児童会館設置にあたっての起案(注6)では、「児童の文化施設として使用することとし……」として「文化施設」というカテゴリーで説明され、中島児童会館設置に伴い制定された児童会館条例では「児童の文化的素養を培い、その福祉を増進するため」(第1条)と設置目的が規定された。また条例提出時の議会説明を見ると、「校外生活の善導を図り、且つ、学校教育の一助として児童の良識の発達、個性の進展を促進するため」とある。これらを通して確認できるのは、「文化」・「教育」をキーワードにした施設整備をめざしていたことである。 そして開館後は、社会教育施設として教育委員会の所管施設として運営がされていく。『新札幌市史』(注7)によると、中島児童会館の開館初期の運営は、「演劇、音楽、映画、文学などに従事するさまざまな市民の参加によって支えられた」とされており、市民参加型で社会教育施設らしい幅広い活動を行っていたことがわかる。 一方で中島児童会館は開館当初から児童福祉事業実施施設としての届け出も行っている。これは、開館直前の1949年6月に児童福祉法が改正され、「国及び都道府県以外の者であつて児童福祉事業を行う施設……を設置するものは、その事業の開始前に、政令の定めるところにより、都道府県知事に届け出なければならない。」(第34条の2)とされたことに基づくものである(注8)。 以上から確認できるのは、当時の中島児童会館が社会教育施設としての運営に加えて、児童福祉事業を行う役割も持ち、多方面で活用されている姿である。また、市民参加型の活動を行っていることが確認できる点も、現在の児童会館につながる点として注目しておくべきと思われる。 ② 児童会館の増設 1950年代末頃から、国は放課後の青少年の居場所づくりを自治体が中心となって行っていくように相次いで施策を打ち出していく。まず1959年に「青少年の社会性訓練を求める時代の要請」(注9)にこたえるとして、児童館とは別に「児童文化センター」の整備補助金を開始する。「児童文化センター」は、青少年教育施設として「科学知識の普及、生活指導等の場」とされており(注10)、中島児童会館に近い施設を想定しているものと思われる。また、1963年には市町村の児童館設置及び運営費に対しての補助事業も始める。 そしてこの時代、札幌市においても、子どもたちが集い、多くの市民が活動に参加できる児童会館について、身近に利用できるように増設をしてほしいという要望があちこちの地域から出された(注11)。そして、国の補助メニューの充実と地域住民の声に後押しされ、札幌市も「児童会館5館」を政策目標として掲げ(注12)、順次整備をしていく中で、新生児童会館は、中島児童会館に続く札幌市の2館目の公設児童会館として1960年に開館した。この児童会館は、「児童文化センター」として整備を行っており、中島児童会館と同様に「教育」という視点の強い施設整備だったことが確認できる。そして『新生児童会館40年の歩み』には、地域住民が児童会館のスポーツ行事等に多くかかわってきたエピソード(注13)が掲載されている。中島児童会館と同様に、社会教育施設にふさわしい多様な活動が市民参加型で行われ、地域の大人と子どもたちの交流が活発に行われていたことがうかがえる。 また、この新生児童会館の開館にあわせて現行の札幌市児童会館条例が制定されているが、その設置目的については第1条で「児童の文化的素養をつちかい、その福祉を増進するため、児童会館(以下「会館」という。)を設置する。」とされ、中島児童会館整備時に定めた旧条例が引き継がれた。この点からも、中島児童会館に続き、児童厚生施設とは異なる「文化」・「教育」に主眼を置いた社会教育施設として札幌市が認識をしていたことがうかがえる。 (2) 児童会館の転換 ―― 留守家庭児童対策という児童福祉の場 ―― ① 求められる留守家庭児童対策 1970年代後半に入ると、国の児童館施策が見直され、補助金の抑制が行われ始める(注14)。一方で、両親共働きでかぎっ子が増えていることが全国的に新しい問題になってきていた。そこで国は1979年の厚生省児童家庭局育成課長通知「都市児童館の機能強化について」において児童厚生施設である児童館での留守家庭児童対策を求めるようになった。 札幌市の児童会館は児童館ではなかったが(注15)、国の児童館施策の動向に呼応するように、現在の児童会館運営につながる大きな変化がいくつか生まれた。 ア 長期総合計画に基づく児童会館数の増加 札幌市では、1971年の『札幌市長期総合計画』で「各行政区に3館程度」という児童会館設置の目標を定めた後、1976年の『新札幌市長期総合計画』において、「児童の地域における日常活動の拠点となる児童会館を地区ごとに設置する」と目標を上方修正した。この「地区」とは、「基礎的なサービス施設を中心とした核をもって日常生活のほどんどを自足できる単位」という説明がなされ(注16)、地区数61館が設置目標となる。これらの計画以降、【表】のとおり、札幌市では児童会館を順次増設していき、施設数が充実していくことになる。 【表】昭和期の札幌市における長期総合計画と児童会館の設置目標
この中では単独館として整備されたものが多いが、まちづくりセンター(注17)などと併設して整備した事例もある。これらではまちづくりセンターと一緒に地域住民も参加した大規模なイベントを行うなど、市民参加型の行事が長年続いている例も多く見られる。 イ 児童福祉の充実 児童会館の増加とともに、その活動内容も児童福祉領域へ広がりを見せるようになった。札幌市の留守家庭児童対策は、それまで民間での活動が中心であったが、1982年には児童健全育成事業実施要綱を整備し、児童会館等において留守家庭児童対策(現:放課後児童クラブ)事業を始め、徐々に児童会館の活動の中核として認識されるようになった。 また児童会館の整備にあたって、1982年には敷地1,200m2に活動スペース300m2と体育室180m2を標準と定めるなどの対応を行った(注18)。この体育室を含めた児童会館整備については、1978年に国が体力増進機能を持つ児童館として新たに定義した「児童センター」を明らかに意識したものであると思われる(注19)。 以上から、札幌市が児童会館の法的な位置づけを社会教育施設としたまま、活動の幅を「児童館(児童センター)」に準じた児童福祉領域へと広げていったことが確認できよう。 ウ 児童会館の「児童館化」 前項で述べたとおり、札幌市は国の施策と住民のニーズを踏まえつつ、社会教育施設という位置づけのまま運営を続けてきた。そして、『第3次札幌市長期総合計画』で当初定めた78施設まで増設という目標が達成されると、1992年に策定した同計画の実施計画にあたる「第2次5年計画(1992~1996年)」において、1中学校区に1児童会館を基本とした整備計画を立て、さらなる児童会館・放課後児童クラブの需要増に応えようとしてきた。あわせて、児童会館の主な利用者である小学生にとって児童会館が身近にある施設になるように、1997年から校区内に児童会館のない小学校を対象に校内にミニ児童会館(注20)の整備を行い、1999年には(財)札幌青少年婦人活動協会(現:(公財)さっぽろ青少年女性活動協会)に児童会館全館の運営を委託した。このように建物整備・運営の両面で、公設の放課後児童クラブのニーズの高まりに応えられるような体制をとっていくこととなる。 そして増やしてきた児童会館の運営財源を確保すべく、2001年に「民間児童厚生施設等活動推進事業費」の補助金申請を行い、制度上の位置づけも社会教育施設から児童厚生施設に転換される(注21)。 ② 児童会館の多機能化 ここまで留守家庭児童対策が求められるようになり、児童会館が増設されていく経過を確認した。では、増設され児童厚生施設と定義された以降、児童会館の運営については、どのようなものが構想され、めざされたのだろうか。 そこでこの時代の児童会館の運営を把握する手がかりとして児童会館職員が中心となって記載した『児童会館将来構想委員会報告書』(児童会館将来構想委員会、2002年)(以下、「報告」という。)を見ていくこととしたい(抜粋)。
報告では、従来から児童会館が持つ児童健全育成機能に加え、「子育て支援機能」「地域活動の参加促進機能」を示している。しかし、これらの機能についても、児童会館は社会教育施設当時から行っていたものが多い。 子育て支援機能の観点からは、先に述べたとおり、1982年から留守家庭児童対策事業を始めているほか、幼児教育事業である「仲よしこども館」の実施場所としても活用されるなど、社会教育施設の時代から多くの事業として活用されてきている。また地域活動の参加促進機能については、報告には「児童健全育成機能や子育て支援機能など、あらゆる面に関わるもの」としたうえで、「地元住民にとって(距離的に)最も身近な公的施設であるという利点を有効に活用することが、その存在意義を高めることに繋がっていく」と記載されている。ここで「地元の子ども」ではなく、「地元住民」と記したのは、中島児童会館の開館当初の「演劇、音楽、映画、文学などに従事するさまざまな市民の参加によって支えられた」から変わらない札幌市の児童会館の姿が感じられる。 このように児童厚生施設になった児童会館の運営は、それまでの運営と変わらないものであった。実際に、札幌市の『札幌市政概要』を比較すると、この年から社会教育施設から「児童福祉施設(児童厚生施設)」の項目へ児童会館が載るページは移っているが、説明内容は「児童会館は、児童の文化的素養を培い、その福祉を増進するために設置された児童健全育成施設で、児童の校外生活を豊かにし、異年齢集団での遊びを通して地域における児童の交流をより一層深めること」(注22)と変わっていないことからも裏付けられる。また、前掲:亀原・古村(2010)が「町内会の打ち合わせ、子育て中親子のサロン、近隣のスポーツサークル等々の活動場所として機能している」ことを示し、札幌市の児童会館の特長として、「大人が日常生活のなかで気軽に子どもとかかわれるところ」と結論づけている点からも、継続して市民参加型の活動が行われていたことが確認できよう(注23)。 3. これからの児童会館のあり方 (1) 児童会館の方向性ここまで児童会館が徐々に児童福祉の場と変化していき、2001年に正式に児童厚生施設となったことを示した。また児童厚生施設となった後も、市民参加型の活動が続いていることを確認した。 そして本章では、今日の札幌市の児童会館が「児童福祉」の次の段階に入ってきていることを示したい。札幌市の児童会館が次の段階に入るきっかけは、2014年に制定した『札幌市市有建築物配置基本方針』(注24)(以下、「方針」という。)である。 方針では、児童会館について、「1中学校区1館+小学校区に児童会館が無い場合に『ミニ児童会館』を整備する」という既存の方針から転換し、さらなるニーズの高まりに応えるため、「1小学校区1館」とした。そして具体的な整備方法として「小学校の改築等にあわせて小学校と併設した児童会館として整備する(複合化する)」ということが示された。また、この方針に基づく児童会館の方向性の一つとして、「多世代交流」がめざすべき理念と示された。 そして、複合化によって、児童会館の運動スペースは、小学校の体育館をタイムシェアし、その機能を満たすこととなった。しかし、これは言い換えると児童会館専用の運動スペースであった体育室が無くなることを意味し、今後整備する児童会館の法的位置づけは体力増進機能のない「小型児童館」に移行することとなった。 (2) 多世代交流と児童会館条例の改正 多世代交流については、「機能の統合や集約により、多様な市民の交流が生まれ、特に多世代交流など地域コミュニティのさらなる深化につながる」とされている(注25)。その中で、2020年1月以降に開館するものについては、既存の児童会館の300m2の活動スペースに加え、150m2の多目的ホールで児童会館を構成することとした点が着目すべき点である。 この多目的ホールの位置づけについて、小学校の体育館のタイムシェアでは不足する体を動かす遊びをしたいという子どものニーズに応えることを目的とするほか、「複合化している地区会館利用者においても使用することができるものとして整理し、複合施設の多機能化や多世代交流の場として使用される」(注26)ものとした。このため、大人が子どもと一緒に参加する既存の児童会館の活動に加え、多目的ホールについては児童会館の開館時間中であっても、大人だけでも利用ができるように条例改正を行ったところが多世代交流施設への大きな転換点である(注27)。この条例改正は、大人が多目的ホールにとどまることなく、複合施設全体に活動を広げ、地域コミュニティの核となることを期待していることは言うまでもない。 4. 結 論 本稿では、札幌市の児童会館は、戦後社会教育施設として始まり、2001年に児童厚生施設と位置づけが変わったものであることを明らかにした。一方で、過去の文献類から、運営上は社会教育施設の頃から、児童厚生施設としての役割も求められてきたものであり、また市民参加型の活動を促進していたことを示した。以上から、札幌市の児童会館の位置づけを時代ごとに定義しようとすると、次のようになろう。 (1) 第1期 社会教育施設期 1949年~1981年 中島児童会館の整備に始まり、その後に児童文化センター補助金を使用した児童会館の整備も行っている時期である。1949年から児童福祉事業の届け出を行うなど、児童厚生施設の端緒も見られるが、全体として「さまざまな市民の参加」によって社会教育的な事業が行われていたことは述べてきたとおりであり、社会教育施設の色彩が明確であった時期と言える。 (2) 第2期 変革期 1982年~2000年頃 新たに整備した児童健全育成事業実施要綱に基づき児童クラブ事業を開始したり、国の定める児童センター基準に適合する活動スペース300m2+体育室180m2を児童会館の標準仕様と定めたりするなど、ハード面・運営面の両面で児童厚生施設としての児童館に近づいてきた時期である。いまだ法的な位置づけは社会教育施設であったが、児童福祉という住民ニーズに可能な限り応えられる施設として変革をしていく時期であった。 (3) 第3期 児童厚生施設期 1997年頃~2014年頃 住民からの児童福祉ニーズに応えるべく、児童福祉を充実させた時期であり、特に放課後児童クラブの充実に重点が置かれた。各中学校区に1か所であった児童会館を補う事業としてミニ児童会館事業を開始したほか、児童クラブを実施する児童会館を順次増やし、また児童クラブの対象学年を増やすなどの取り組みが行われた。そしてこれらのニーズに応える財源確保をすべく、児童会館を児童厚生施設と定義し、補助金を受給し始めた時期でもある。 (4) 第4期 多世代交流施設期 2014年頃~ 方針によって、1982年以来定めてきた児童会館の体育室の整備を止め、「児童センター」という看板を下ろすことになった。そのうえで、今までの市民参加型の活動を行ってきたという児童会館の特徴を踏まえ、「多世代交流」という新たな理念を明確にさせた小学校と複合化した小型児童館として整備していく時期である。 このような整理を行うと、札幌市の児童会館は現在第4期「多世代交流施設期」を迎えている。今までの市民参加型の活動は、「子どもと他の世代」に着目をした多世代交流であったが、今回の条例改正で認めた「大人だけの利用」は、現在のところ札幌市では児童会館3館の多目的ホールのみで認められたものであり、全国的に見ても少ない。そのため、多世代交流施設期の運営については、前例がない難しい課題に直面することもあろう。しかし、札幌市の児童会館が70年の間培ってきた市民参加型の運営ノウハウを活かし、多世代交流施設としての運営を行っていくことが期待されていると考えている。 |