【論文】 |
第38回地方自治研究全国集会 第1分科会 人口減少後の地域社会と政策 ~国が進めた政策の現状から考える~ |
「郡是」「町村是」とは、明治20(1887)年頃から昭和初期にかけて、各市町村の現状を調査し将来目標を定め、その実現のための施策をまとめた農村計画、地域振興計画のことである。旧黒土村は現在の福岡県豊前市の黒土地区であり、筆者の地元である。『市町村是』『黒土村是』を通じて、なぜ「地方改良運動」で実績をあげることができたのか、そこから、現在の地方自治に通じるものがあるのか、考察していく。 |
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1. はじめに 「郡是」「町村是」とは、明治20(1887)年頃から昭和初期にかけて、全国の各市町村の現状を調査して将来目標を定め、その実現のための施策をまとめた農村計画、地域振興計画のことである。「町村是の変容とその再解釈―町村是の反省的継承を目指して―」(注1)で、嶋田暁文氏は、「町村是」とは、徹底した調査に基づく科学的客観性を具備した農村計画であり、村経済の歳出入を明らかにし、それを根拠として計画を策定し、住民の自治意識を高め、その力を結集することで「村力」を高めようとするものであったと指摘している。前田正名によって始められた「町村是運動」は民間運動としてスタートし、明治26(1893)年頃から全国各地で「村是」が作成されていき、大正期には1,200を超える町村が「町村是」を作成していたという(注2)。しかし、通説では、「町村是運動」(注3)は日露戦争前後の明治37~38(1904~1905)年頃から、内務省による「地方改良運動」 によって吸収されていき、科学的客観性を失い、自治意識・国民意識の高揚を目指す精神主義へと変化していくとされている(注4)。 「町村是」と「地方改良運動」の関係について、不破和彦氏は、「『地方改良運動』と『町村是調査』―明治末期の内務官僚による「模範町村」創出をめぐって―」(注5)で、「町村是」は、内務省が日露戦争後の日本の経営をめぐって「地方自治」の再編や強化のために「町村是」を重要視したものであり、地方改良運動によって「模範町村」を創出していく際の基本計画になったと指摘している。 ここで、日露戦争後の明治40(1907)年に策定された『宇美村々是』(注6) 、『黒土村是』(注7)の緒言を見て行きたい。 2月に策定された『宇美村々是』の冒頭には、「社会ノ進運ハ経済ノ膨張ヲ促シ国力ノ発展ハ生産の培養之レニ伴ハサル可カラス町村ハ是レ国家存立ノ要素ニシテ一村ノ貧富ハ偏ニ一国強弱ノ関スル所タリ」とある。 4月に策定された『黒土村是』でも日清戦争、日露戦争をへて、日本は「世界一等国」の仲間入りを果たしたが、さらなる「国運ノ発展」は国民の重大な責任であると述べた後に、「我国民タルモノ個人タルト町村法人タルトヲ問ハス宜シク玆ニ一大奮起シ進ンテハ国家ノ進運発達ヲ補佐シ退テハ町村自治ノ完成ヲ期シ以テ明治盛世ノ鴻恩ニ酬ユル所ナクシテ可ナランヤ」と書かれているし、緒言以外にも、全体的に、「町村経済基本ノ確立」「一村経済ノ独立」といった経済に関する言葉が頻繁に使われている。 つまり、日露戦争後、列強諸国と対等に渡り合うためには、日本の経済発展が不可欠であると考えられていたのである。日本の経済発展とは、すなわち各町村の経済発展であり、町や村を挙げて経済発展のため、課題に取り組むことが重要視されていたと言えよう。 『黒土村是』は、作成前の5か月前である明治39(1906)年11月から「黒土村是調査委員」によって調査が開始されている。調査掛長に村長、調査主任に収入役、調査員として村会議員、各地区の区長の名が連なっており、村を挙げて調査されたことが分かる。なお、明治44(1911)年に、旧黒土村は、「地方改良運動」で実績を上げた「模範村」として内務大臣の表彰を受けている(注8)。 旧黒土村は現在の福岡県豊前市の黒土地区であり、筆者の地元である。学生時代に日本史を専攻していた身として、地元に残る史料を読み解き、当時の旧黒土村の様子をうかがうことができるのは実に興味深いことである。 本稿では、『市町村是』(注9)および『黒土村是』を参照することを通じて、旧黒土村がなぜ「地方改良運動」で実績をあげることができたのか、旧黒土村の実績から現在の地方自治に通じるものがあるのか考察していきたい。 2. 『市町村是』からみる旧黒土村 明治36(1903)年に市町村雑誌社から刊行された『市町村是』に、「福岡県築上郡黒土村治」という項目がある。『黒土村是』が作成された以前に刊行されているが、旧黒土村の村長とその人柄、村役場での役職の配置を簡潔にまとめた後、「勤務及役場内ノ状況」として、吏員は少ないが、服務に忠実で、文書・器物の保存は正確で、納税準備については懇ろに村民に諭してあるため不納者はいない、といったようなことが紹介されている。そのあとに、「村ノ事業ニ就キテは左ノ如シ」として、町村制制定後の負債の処理、小学校、村役場、伝染病院の移転・改修、火事や洪水など災害対策などについて15の項目とその費用、寄付金の内訳が書かれている。そのうち(三)から(五)では道路、(六)ではため池、(七)では水路について次のように書かれている。
(三)大字久路土樋ノ口道路兼堤防ハ従来屈曲甚シク洪水ノ都度破壊シ通行危険ニシテ且耕地ニ害ヲ及スニ付キ之ヲ更生シタル (略) (三)から(五)では、旧黒土村にある屈曲していたり、道幅が狭かったりする道路は経済発展を阻害するものであり、道路の新設・改修は「村経済ノ緩急ヲ図」るものであると捉えられている。改修や新設は村会で同意を得て整備すること、整備するにあたって該当する土地の地主に土地を寄付してもらうこと、その地域から人夫を勧誘し、村費を補助して改修工事を行うことを明記していることから、当時の道路の新設・改修については村全体の事業であったことがうかがえる。(四)本村里道ハ従来道幅狭隘ニシテ屈曲甚シク車馬通行スルモノ二三線ナリシヲ村経済ノ緩急ヲ図リ漸次改修又ハ新設ノ見込ヲ立テ村会ノ同意ヲ得テ更生シタル(略) (五)本村内各大字ニ通スル道路及耕作道ハ頗ル狭隘ニシテ不便ナルヨリ村会ノ同意ヲ得荷車通行ヲ目的ニテ用地ハ地主ニ寄附セシメ工事関係部落ヨリ出夫ヲ勧誘シ其難易ヲ見テ村費ヨリ補助ヲ与へ改修シタル(略) (六)本村ノ溜池ニシテ他村地内ニ在ルモノ貯水流失スルノ憂アリ且ツ分水上動モスレハ紛議ヲ生シ為ニ訴訟ニ及ヒタルコトアリシヲ規約ヲ設ケテ和解シ樋管ノ改修又ハ隧道ヲ開鑿シテ紛議ノ根據ヲ絶タシメタリ(略) (七)本村ハ頗ル旱害ノ多キ土地ナリシカ溜池ハ河水引用スルタメ左ノ水路ヲ新設シタリ (略) (六)にある「本村ノ溜池ニシテ他村地内ニ在ルモノ」とは、豊前市に隣接する上毛町にある矢方池と考えられる。矢方池とは、明治20(1887)年に旧黒土村の高橋庄蔵氏が旧黒土村の他に旧三毛門村(豊前市)、旧西吉富村(上毛町)、旧南吉富村(上毛町)、旧東吉富村(吉富町)に働きかけ、約13年かけて築造されたため池である。高橋氏は、矢方池築造中に亡くなったが、大規模な工事に私財を投げ打ったこと、矢方池築造後、周辺地域の水害や旱害は減少し、生産量の向上に繋がったことから、豊前の偉人の1人として知られている(注10)。 しかし、(七)に「本村ハ頗ル旱害ノ多キ土地」とあることから、矢方池築造後も旧黒土村は度々旱害に見舞われ、水路新設が急務であったことが推測される。 そこで、次に『黒土村是』に目を移し、以上で見た諸課題がどのように扱われたのか、そして、それ以外にどのような課題が抽出され、それに対してどのような対策が提示されたのかを見ていくことにしたい。 3. 『黒土村是』から見る旧黒土村 『黒土村是』は「緒言」から始まり、「第一部 現況部」と「第二部 将来部」の2部構成になっている。「第一部 現況部」では旧黒土村の地理、気候、利便性、特産物、村内の各地区の人口、小学校、病院、神社仏閣などの施設や商業の紹介、地質についての概要と経済状況がまとめられている。経済状況においては消費額19万200円25銭に対し、生産額20万5,220円6銭13銭5厘と生産額が消費額を上回っているため、「本村ノ為メ慶事ト為ス所」と書かれている。生産量が黒字であるのは、前述した矢方池築造の影響が推測される。しかし、矢方池が完成したとは言え、それ以降も何度か旱害や水害に見舞われながらも黒字を出していたと考えれば、本来の旧黒土村の生産量はさらに大きかったものと推測される。「第二部 将来部」では教育の普及、風俗の矯正、産業組合の設立運用、道路や橋、溜池などの新設・改修、重要産物改良、副業奨励などの14の項目が挙げられている。 「二、実業教育ノ普及」では「学理ヲ実地ニ応用シ以テ農産ノ改良ヲ謀ルハ最モ緊要」であり、有識者の講話にとどまらず、将来の普通教育の完成を図り、義務教育を終えた男女に2年間実施する「普通実業補習学校」、農業者に対して春と秋に20日間以内で実施する「期別実業補習学校」、「普通実業補習学校」を修了した男子に農繁期を除いた時間に行われる「夜間実業補習学校」の3種類の実業補習学校を設置し、「適切ナル思想ヲ養成」するとしている。 「四、産業組合ノ設立及運用」では「一村経済ノ独立ヲ謀リ自治ノ完成ヲ期」するため、事業を行う当事者の智力と財力に対して適切な方法を講じなければならないと述べており、農業従事者は金銭的に余裕がないという現状を「発展上一大支障」と捉えている。 つまり、金銭的に余裕がないため、肥料や苗が十分に買えないというのは農業の生産低下の原因であるし、それが続けば生産低下の一途をたどってしまうと危惧しており、農業従事者の保護策を講じる必要性を説いている。そのための対策として「組合の設立」を提唱している。 「五、道路橋梁ノ改修」「六、水利灌漑」では道路、ため池・井堰などのインフラ整備を「最モ急務」であると捉えており、「本年ヨリ十ヶ年ヲ期シ完成ヲ期セントス」と道路や橋を2,580円、ため池、井堰などを8,500円かけて10年計画でそれぞれ改修・新設工事を行うとしている。 『市町村是』の「福岡県築上郡黒土村治」では道路の改修については村費、地元、寄附、各市町村組合補助の費用の負担割合しか書かれておらず、どこの道路を改修したか不明であったが、「五、道路橋梁ノ改修」に「縦横郡道」が貫通しており、運輸交通については申し分ないと書かれていることから、主要な道路の新設・改修はほぼ完了していたと推測できる。 ところが、交通網は十分発達していながらも「村経済ノ緩急ヲ謀」るために9つの道路や橋の改修工事を、「六、水利灌漑」では故高橋氏の矢方池築造により旱害は減少したが、明治37(1904)年の旱害で「米参千石」の生産量の減少したことを述べ、6つの溜池の築造、改修についてそれぞれ10年計画を策定していることから、道路の整備、ため池の築造、改修は『市町村是』刊行時点と変わらず、最重要課題であったと言えよう。 さらに「十、小作改良」「十一、肥料改良」「十二、工作改良」では肥料の講習会の開催や石灰濫用の禁止、共同苗代田の推奨といったそれぞれの実行法や改良法が明記されている。 特に「十、小作改良」では小作の生産量を自作と同様に上げることを重要視している。実行法や改良法以外にも10年計画で「1、肥料貸与組合の設立」「2、地主を奨励して小作法を行う」「3、地主を奨励して小作米額の不権衝を矯正する」「4、小作人に土地の便宜をはかり、小作をさせる」という4つの実行方法を挙げている。 ほかにも「三、風俗矯正」では貯蓄組合や青年会、婦人会の設立の他に、時間厳守を道徳や経済よりも大事なものであるとし、時間厳守の啓蒙活動を行う「規時会」の設立、「十三、実業者ノ治蹟旌表」では村の発展に尽くした高橋庄蔵氏とその偉業を称えること、「十四、舊趾古跡勝地ノ保護」では史跡の保護を名目に村の総鎮守である石清水八幡宮の保護管理や信仰などについても書かれている。 以上のことから、当時の旧黒土村では、経済の面については黒字であるが、その黒字を増やすため、産業組合を設立し、農業従事者の金銭面を援助すること、道路やため池などの村のインフラ整備を行うこと、農業の生産性をさらに向上させることを課題としていたことが分かる。 教育の面については、座学よりも「実践」を重視していること、風俗の矯正については、青年会、婦人会などの設立の他に尋常小学校の児童への教育方針から郷土愛護思想の啓蒙活動にいたるまで村全体で取り組んでいることなどが分かる。また、『優良町村便覧』(注11)によれば、旧黒土村は明治40(1907)年には文部大臣から、明治42(1909)年には福岡県から「教育の模範」として表彰されていることから、当時の旧黒土村が「教育村」を村の基本理念としていたのがうかがえる。 4. 考 察 『黒土村是』から、旧黒土村は、村内の道路や水路、ため池のさらなる整備、農業従事者の援助、実践を主とした学校教育といった村の生産性向上のための体制づくりが行われていたことが読み取ることができた。前述したように、明治44(1911)年に旧黒土村は「模範村」として内務大臣の表彰を受けていることから、ほとんどの計画が実行されたと考えられる。その背景要因の一つに、『市町村是』の刊行時点で役場の職員の勤務態度は良好で、税金の滞納者もいないと紹介されていたように、旧黒土村の人々の真面目さ、勤勉さがあったことは、想像に難くない。 通説では「町村是」は日露戦争以降、地方改良運動に吸収されていく中で科学的客観性を失っていき、自治意識・国民意識の高揚をめざす精神主義へと変化していくと前述した。 確かに、『黒土村是』は日露戦争後に作成されているため、「町村是」本来の科学的客観性と精神主義のバランスが失われ始める時期であったと言えよう。 しかし、「3. 『黒土村是』から見る旧黒土村」で前述した通り、『黒土村是』は農業の実業学校の普及、副業や小作の奨励、道路、ため池、水路の新設・改修など農業生産の拡充にも風俗矯正や神社の信仰などの精神的改良についても触れられているが、村内の経済力向上の対策の計画が多く、精神的改良についての記述は極めて少ない。このことから、『黒土村是』はデータをしっかり踏まえたうえで構想を立てていたと言えるのではないだろうか。 「町村是」の内容について、嶋田氏は、緻密で膨大なデータを集めても十分な分析スキルや構想力が欠けていたために「定番」以上の「答え」を導き出すことができなかったため、「是」の内容が全国的にほとんどの項目が共通しているとも指摘している(注12)。本稿では、『黒土村是』の比較資料として、『宇美村々是』も扱った。ここで、2つの村是の構成や内容を比較してみたい。 『黒土村是』は「第一部 現況部」と「第二部 将来部」の2部構成、『宇美村々是』は「現況之部」「将来之部」「附録之部」の3部構成であった。項目に関しては「実業教育ノ普及」「産業組合設置」という共通のものがあること、どちらの「緒言」も書きぶりが若干異なるが、「国家経済の発展のためには町村民が一丸となって町村の経済の底上げが必須である」というような内容であった。嶋田氏の指摘するように、2つの村是には共通点が多くあったが、旧宇美村は「模範村」として表彰は受けていない。 ここで再び『優良町村便覧』に目を向けたい。「福岡縣築上郡黒土村」の項目の中にある「三、治績」では、旧黒土村は前述した文部大臣、福岡県からの「教育の模範」に関する表彰以外にも、明治39(1906)年に大日本農会から、大正7(1918)年に産業組合中央会から、大正8(1919)年に青年会が文部大臣から表彰されていると書かれている。 村の特長については、矢方池の築造に尽力した高橋庄蔵氏、40年近く旧黒土村の村長を務めた矢幡小太郎を挙げ、公共事業に協力的であること、村会では反目することなく慎重に議論を行い、常に満場一致であること、勤勉であることが紹介されている。そして、その村民性ゆえに、ため池の改修工事で地主は直ちに土地を村に寄附し、地元の住民が人夫として働くなど協力的だったため、村費が当初の予算の半額にとどまったこと、道路の改修工事が全て行われ、主要道路も農耕道も整備されたことが書かれている。 『優良町村便覧』からも旧黒土村の勤勉さ、真面目さといった特徴が読み取れるし、『黒土村是』で掲げた計画がほとんど実行されていたことが裏付けられる。旧黒土村が「地方改良運動」で実績を上げることができたのは、「是」の内容が定番であったとしても、村の現状をしっかり把握したうえで計画を立てること、そしてその計画を実行する力があったという本来の優良な自治の内実を備えていたからではないだろうか。 5. おわりに 「町村是」とは全国の各市町村の現状を調査して将来目標を定め、その実現のための施策がまとめている農村計画、地域振興計画であると前述した。本稿では、筆者の地元であるからということで『黒土村是』を主に扱ったが、「村是」について考察する上で実感したことを2点挙げたい。1点目は現状や課題を洗い出し、計画を策定すること、その計画を実行させようとする力の重要性である。「地方改良運動」で成果をあげた旧黒土村から現代の地方自治において学べることがあるとすれば、この企画力と行動力であり、現在の地方自治に通じるものがあるのではないだろうか。 2点目は「よりよい地域を作りたい」という思いは、どの時代も変わらないということである。しかし、そうした不変性と同時に、大きな違いも感じざるを得ない。『黒土村是』や『宇美村々是』と全国の各自治体が現在策定している基本計画を見比べて、まず思いつく相違点は人口流出や減少について言及されているかということではないだろうか。明治期は日本の全人口が増え始める時期であるため、ほとんど問題視されなかったのであろう。 人口減少だけではない。限界集落の出現、介護問題、環境問題、災害の発生、文化の継承の危機といった、現在、ほとんどの自治体が直面しているであろう問題は明治期では想定外だったはずである。暮らしが便利で豊かになる一方で、これからも想像していなかった問題に直面する機会は増えていくだろう。これからは行政だけではなく、地域に住んでいる住民の力も必要である。 この点、嶋田氏は「町村是」の反省的継承として住民の課題認識と奮起を惹起させるため、住民に地域の実情を客観的に示し、なすべきことを具体的に示すことが有用と指摘している(注13)。 『黒土村是』を通じて、「よりよい地域」をめざすには、行政と住民が「何が課題なのか」「何をするべきなのか」という共通認識を持つこと、その課題に向き合い、解決していくことの大切さを再認識できたのではないだろうか。 |