【自主レポート】 |
第38回地方自治研究全国集会 第7分科会 福祉、環境、農業…地域の宝を探し出せ! |
西淀川区役所に配属になり、地域を知るため、街歩きマップを片手に、海抜0メートル地帯、工場地帯、矢倉海岸という大阪市内唯一の海岸などを回っていました。ある日、見知らぬ「外島保養院記念碑」という記念碑に出会いました。「大阪にハンセン病療養所」があったんだと初めて知りました。このレポートで、岡山県の邑久光明園への軌跡を伝えていきます。 |
|
1. はじめに ハンセン病療養所「外島保養院」の簡単な歴史2. 外島保養院の開設と移転問題 (1) 外島保養院の開設① 外島保養院の開設と移転問題 外島保養院があった場所は、現在でこそ治水が完全に行われていますが、当時は海抜ゼロメートル地帯で療養する環境としては厳しい立地条件でした。 昭和初期には「無らい県運動」が盛んになり、当時の警察が主な役割を担ってハンセン病患者の隔離政策が進められていました。
(2) 外島保養院の移転問題 3. 大阪にあったハンセン病療養所のいま (1) 1934年室戸台風で壊滅的被害、1938年岡山県邑久郡で再興外島保養院に隔離収容されていたのは、私たちが現在暮らしている地域で生活していた人たちです。ハンセン病問題について考えるとき、なぜ病気を理由に地域から排除されなくてはならなかったのか、なぜ長年にわたって隔離という人権侵害がつづいたのか、それぞれの地域から考えていく必要があるのではないでしょうか。 ※ ハンセン病療養所入所者数全国13か所の国立療養所の入所者数は1,211人、私立療養所に4人、合計1,215人の方がいらっしゃいます(2019年5月1日現在)。また、平均年齢は、85.9歳(2019年5月1日現在)とかなりの高齢になっていらっしゃいます(支援センター抜粋)。
(2) 大阪市西淀川区中島地区で開催される慰霊祭 「『外島保養院風水害追悼行事』式典では、邑久光明園自治会主催のもと、大阪府・大阪市の担当者、並びに多くの支援団体の方々が参加し、献花しました。」(虹の会おおさかニュース第19号2019年10月25日発行より抜粋) 「碑文 平成八年四月『らい予防法』廃止サレル 強制収容絶対隔離ヲ根幹トシタ日本ノハンセン病対策ノ終焉ヲ記念シ外島保養院ノ日々ニ思イヲハセ茲ニ記念碑ヲ建立スルモノデアル 平成九年十一月 邑久光明園入園者自治会」(記念碑 碑文より抜粋) 2019年9月27日(金)外島保養院風水害追悼行事に参加させていただき、献花もさせていただきました。 4. これからの課題 ハンセン病回復等支援者養成講座より2019年(令和元年)11月、大阪市、社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会 ハンセン病回復者支援センター主催の「ハンセン病回復等支援者養成講座」が開催されました。 11月11日・13日に基礎編としてハンセン病に関する「医療・支援・家族・地域」などの現状、実態、課題の提起、11月27日フィールドワークとして国立療養所邑久光明園、長島愛生園へ行き、入所者との交流、献花、園内見学という養成講座を受講しました。 講座のなかで、今後の課題として①差別と偏見の解消、②療養所入所支援、③社会復帰への支援、非入所者への支援、家族への支援(安心して受けられる医療・介護、地域とのつながり支援、家族関係の調整支援等)が、あげられています。 5. おわりに (1) ハンセン病家族訴訟2016年2月「ハンセン病家族訴訟」は、国に損害賠償と謝罪を求め、熊本地裁に提訴した集団訴訟。2018年12月が結審。2019年6月判決。2019年7月内閣総理大臣面談、厚生労働大臣面談。 ※ 国家賠償法に基づく損害賠償請求を一部容認した。賠償額は33万円から143万円。(支援センター抜粋)
(2) あったことは伝えていく。そうでないと風化していく。 訪ねてみると、大きな工場群の中の堤防沿いにポツンと慰霊碑があります。周辺は草でおおわれているのですが、慰霊碑のある一画はきれいに掃除がされています。 なぜこの地に慰霊碑があるのか、現在・過去・未来につながる「キーワード」は伝えきれません。 ただ、短い期間で体験したことは、「あったことは伝えていく。そうでないと風化していく。」という思いです。 |