【自主レポート】

第38回地方自治研究全国集会
第7分科会 福祉、環境、農業…地域の宝を探し出せ

 西淀川区役所に配属になり、地域を知るため、街歩きマップを片手に、海抜0メートル地帯、工場地帯、矢倉海岸という大阪市内唯一の海岸などを回っていました。ある日、見知らぬ「外島保養院記念碑」という記念碑に出会いました。「大阪にハンセン病療養所」があったんだと初めて知りました。このレポートで、岡山県の邑久光明園への軌跡を伝えていきます。



大阪にあったハンセン病療養所・
第三区連合府県立外島保養院
―― 大阪市西淀川区から「あったことは伝えていく。
そうでないと風化していく。」 ――

大阪府本部/大阪市職関係労働組合・西淀川区役所支部

1. はじめに

ハンセン病療養所「外島保養院」の簡単な歴史
 1907年(明治40年)「らい予防ニ関スル件」公布。1908年(明治41年)大阪府西成郡川北村字布屋町の2万坪の土地が買収。外島保養院の工事着工。1925年西成郡が大阪市に編入され大阪市西淀川区外島町となる。1931年(昭和6年)「らい予防法」公布。「無らい県運動」全国に展開。1934年室戸台風による水害で壊滅的な被害を受け、入所者173人を含む196人が犠牲となる。1938年(昭和13年)名称を「光明園」と改称して岡山県長島(現瀬戸内市)に復興。1941年(昭和16年)施設名を邑久光明園と改称。1996年「らい予防法」廃止、「らい予防法の廃止に関する法律」公布。2009年「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」施行。

2. 外島保養院の開設と移転問題

(1) 外島保養院の開設
① 外島保養院の開設と移転問題
 現在の大阪市西淀川区中島2丁目付近にあたる場所に近畿等の2府10県(大阪、京都、兵庫、奈良、三重、滋賀、和歌山、福井、石川、富山、岐阜、鳥取)が協力し、公立のハンセン病療養所「第三区連合府県立外島保養院」(以下「外島保養院」定員300人大阪府主管)を隔離施設として、1907年(明治40年)法律第11号「らい予防ニ関スル件」に基づき、1909年4月に開設しました。
 外島保養院があった場所は、現在でこそ治水が完全に行われていますが、当時は海抜ゼロメートル地帯で療養する環境としては厳しい立地条件でした。
 昭和初期には「無らい県運動」が盛んになり、当時の警察が主な役割を担ってハンセン病患者の隔離政策が進められていました。

(2) 外島保養院の移転問題
 当時、増加していた収容人数に対応するため、何度か他の場所への移転計画が出されましたが、その度に移転先の地元住民の反対があり移転は断念せざるを得なくなりました。
 結局、現地で増築することになり、1,000人を収容する大施設への工事が進められました。工事がほぼ完成する1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の直撃により、暴風雨や高潮等で施設が崩壊、一瞬にして193人(入所者173人、職員家族11人、施設拡張工事関係者9人)の命が奪われてしまいました。
 その後、移転が再度検討されましたが、その都度住民の反対により候補地が決まらず、1938年(昭和13年)、岡山県邑久郡(現在は岡山県瀬戸内市)の長島に、当初「光明園」として再興され、1941年(昭和16年)、国に移管され「国立療養所邑久光明園」と改称しました。
 現在、外島保養院の跡地付近には、1997年(平成9年)に国立療養所邑久光明園入園(所)者自治会により、「らい予防法」廃止の記念事業として記念碑が建立され、毎年9月に、関係者による犠牲者追悼行事が行われています。

3. 大阪にあったハンセン病療養所のいま

(1) 1934年室戸台風で壊滅的被害、1938年岡山県邑久郡で再興
 外島保養院に隔離収容されていたのは、私たちが現在暮らしている地域で生活していた人たちです。ハンセン病問題について考えるとき、なぜ病気を理由に地域から排除されなくてはならなかったのか、なぜ長年にわたって隔離という人権侵害がつづいたのか、それぞれの地域から考えていく必要があるのではないでしょうか。
※ ハンセン病療養所入所者数全国13か所の国立療養所の入所者数は1,211人、私立療養所に4人、合計1,215人の方がいらっしゃいます(2019年5月1日現在)。また、平均年齢は、85.9歳(2019年5月1日現在)とかなりの高齢になっていらっしゃいます(支援センター抜粋)

(2) 大阪市西淀川区中島地区で開催される慰霊祭
 「跡地には記念碑があるのみ 毎年9月末に外島保養院跡で犠牲者追悼行事が行われており、今年の行事に参加させていただきました。辺り一帯工場で、かつて療養所があったとは想像できませんでした。外島保養院を中島に作らなければ被害は免れていた可能性が高く、その点では人災とも言えるのではないでしょうか。ハンセン病という病気に対する社会の偏見や差別が生んだ悲劇ともいえます。」(りべら2019.11より抜粋)
 「『外島保養院風水害追悼行事』式典では、邑久光明園自治会主催のもと、大阪府・大阪市の担当者、並びに多くの支援団体の方々が参加し、献花しました。」(虹の会おおさかニュース第19号2019年10月25日発行より抜粋)
 「碑文 平成八年四月『らい予防法』廃止サレル 強制収容絶対隔離ヲ根幹トシタ日本ノハンセン病対策ノ終焉ヲ記念シ外島保養院ノ日々ニ思イヲハセ茲ニ記念碑ヲ建立スルモノデアル 平成九年十一月 邑久光明園入園者自治会」(記念碑 碑文より抜粋)
 2019年9月27日(金)外島保養院風水害追悼行事に参加させていただき、献花もさせていただきました。

4. これからの課題

ハンセン病回復等支援者養成講座より
 2019年(令和元年)11月、大阪市、社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会 ハンセン病回復者支援センター主催の「ハンセン病回復等支援者養成講座」が開催されました。
 11月11日・13日に基礎編としてハンセン病に関する「医療・支援・家族・地域」などの現状、実態、課題の提起、11月27日フィールドワークとして国立療養所邑久光明園、長島愛生園へ行き、入所者との交流、献花、園内見学という養成講座を受講しました。
 講座のなかで、今後の課題として①差別と偏見の解消、②療養所入所支援、③社会復帰への支援、非入所者への支援、家族への支援(安心して受けられる医療・介護、地域とのつながり支援、家族関係の調整支援等)が、あげられています。

5. おわりに

(1) ハンセン病家族訴訟
 2016年2月「ハンセン病家族訴訟」は、国に損害賠償と謝罪を求め、熊本地裁に提訴した集団訴訟。2018年12月が結審。2019年6月判決。2019年7月内閣総理大臣面談、厚生労働大臣面談。
※ 国家賠償法に基づく損害賠償請求を一部容認した。賠償額は33万円から143万円。(支援センター抜粋)

(2) あったことは伝えていく。そうでないと風化していく。
 大阪市西淀川区中島地区に「ハンセン病療養所」がありました。
 訪ねてみると、大きな工場群の中の堤防沿いにポツンと慰霊碑があります。周辺は草でおおわれているのですが、慰霊碑のある一画はきれいに掃除がされています。
 なぜこの地に慰霊碑があるのか、現在・過去・未来につながる「キーワード」は伝えきれません。
 ただ、短い期間で体験したことは、「あったことは伝えていく。そうでないと風化していく。」という思いです。