【要請レポート】

阪神・淡路大震災10年
神戸・長田から~「できたこと、できなかったこと」

兵庫県本部/神戸市職労・長田支部 人・街・ながた震災資料室 清水 誠一

1. はじめに
2. 震災直後~災害対策本部設置
3. 自治労ボランティア
4. 学校を中心とした避難所~小学校単位で防災福祉コミュニテイー
5. 仮設住宅からまちの復興へ〈土地区画整理事業・再開発事業〉
6. 激甚災害初動対応マニュアル
7. 残された課題〈街は蘇るか〉
8. むすびにかえて

 

1. はじめに

阪神大水害 昭和13年(1938)7月3~5日
家屋流失1,410戸、全半壊8,653戸、死者616人
神戸大空襲 昭和20年(1945)3月17日、6月5日、死者7,000~7,500人
42年7月豪雨 昭和42年(1967)7月9日全半壊388戸、死者84人、不明8人

 神戸・長田区は古い街である。源平の時代にまつわる地名や碑が多くある。災害の歴史も『阪神大水害』や『神戸大空襲』を経験してきている。
 平成7年1月17日(火)午前5時46分、神戸の街は『震度7』の激震に見舞われ長田区も未曾有の被害を受けた。以来、区役所職員は今まで経験したことのない『場』で日夜震災関連業務に従事した。また、自治労をはじめ各方面の皆さんには献身的なご支援を頂き『人と人が支えあうこと』の大切さを学んだ。その時の貴重な体験を風化させないために震災1周年に職員記録誌「人・街・ながた 1995.1.17」を発行してきた。そして被災地のなかの長田区役所に震災の状況を永く記憶するため『人・街・ながた震災資料室』を開設し震災資料を収集・保存するとともに後世の人々に継承していく活動をしている。復興に向けた一つの指標として人口動態を分析してきたが、昭和15年(22万9千人)が戦前のピークで戦後は42年(21万5千人)で以降は減り続けている。大震災はまさに長田の街が大変貌する出来事であった。
 今回、震災10年を迎えるにあたり「できたこと、できなかったこと」を報告する機会を与えられた。私たちは「がんばろうと言える職場づくり」や「災害に強いまちづくり」をめざしてきた。皆さんのご意見を頂けると有難い。


2. 震災直後~災害対策本部設置

 平成5年12月に完成したばかりの新区役所に入ると躯体部分は異常はなかったが、裏階段は崩落寸前で室内はロッカー、カウンター、机、書庫等がひっくり返っており中へ入れない状態だった。
 スプリンクラーがピイユール・ピイユールと鳴って苛立つ気持ちが余計に昂ぶる。庁舎内は暗く3階フロアに行くと庶務のメンバーが来出していた。まもなく松岡収税課長が来た。続いて赤尾、小寺、斉藤、大槻君らが到着した。すでに近くの住民は区役所へ避難し出していた。この時、消防署から「区役所の対策本部はどこに置いたのか」との問い合わせがあった。区長はまだ来ていなかったが、私は42年7月豪雨(当時、対策本部詰めだった)の経験から「本部は3階に置く、連絡責任者は松岡課長」と伝えた。
 10数人が集まった時点で重点避難所(主だった学校)へ被災状況の把握に行くことになった。単車・自転車・徒歩のグループに分かれて出発し、私は単車の後ろに松岡課長を乗せて長田高校・西代中学校・高取台中学校・育英高校・五位の池小学校をまわった。道路は凸凹でガスはいたる所で充満し、まさに爆撃を受けた様相であった。
 区役所へ戻ると他の組も帰ってきて状況が判ってきた。北部は比較的大丈夫だ。しかし中部・南部は壊滅的だ。庶務の松村さんが黒板に避難者の数字を書いているのがその事実を表している。区長以下の職制も来出し対策本部の格好が出来だしてきた。(17日の出務者は3割69名)区長から「番町が気になる、西市民病院も大変だ。見に行ってくれ」と言われ斉藤君と行く。区役所を出るともう家が壊れていてあちこちから煙が立っている。ふだん通る6メートル幅の道は家屋が倒壊していて通れない。番町は古い家屋が多くあり街づくりは途中だ。案の定、街は全滅で16号棟は1階が潰れ被害者が出ている。文化会館の山本館長にあったが会館もガスが漏れていて危険だという。自治会長の塚前さんに会い頑張ってくださいといって、ガレキの中を歩いて西市民病院へ着くと戦場であった。負傷者が次々と運び込まれながら同時に崩壊した5階から患者らの救出作業が行われている。
  ~長田の街が潰れた。


3. 自治労ボランティア

 1月20日現在、区本部が把握した避難所は74ケ所で46,187名が避難していた。街のなかで人が集まれる場所は全て避難所の様相を呈していた。学校が一番避難者が多かったが、長田神社にも130名が避難していた。普段あまり交流のなかった朝鮮初中級学校に150名が避難していて総務部長の金君が活躍していた。
 身動きができない対策本部に自治労から支援隊が来るとの情報が入ったのは1月末で木下本部長と受け入れの協議をし次の考えを長田区の案とした。自治労の森脇執行委員は快く了解をしてくれ早速県本部代表者会議や受け入れ集会の準備に入った。
 2月5日に自治労が受け持つ学校へ説明に回ったが各校長は自治労についての認識が薄く「全国の役所の職員で構成している組合ですから、皆さんベテランなのです」と了解を求めた。この頃、各避難所は初期の段階を終わろうとしていて、形態は住民主体・学校主体・行政主体のいずれかになり出していた。
 代表者会議で私は「蓮池小学校の状況は避難者2,000人で高齢者は逃げてくるのが遅かったので多くの方は廊下で寝起きしている。教室や体育館へ移るよう勧めても動かない。(この訳は後で分かった事だが、①職員室に近いと情報が多い、②医務室に近い、③炊き出しや物資が早く手に入る、④話し相手がいること)学校では24時間になることが多い。何よりも長田の街づくりに立ち上がってくれる人づくりの役目を持ってくれるとありがたい。自治労の言う地域生活圏闘争のようなものです」
 各県本部の皆さんの顔が緊張してきているのが判る。以降、3月末まで配送センターと10の避難所は自治労が肩代わりをし、区の職員は他の分野に回せることになる。(配送センターには連合チームも来ていたが自治労チームが連合チームを指揮することになる)

(1) 自治労ボランテイア受け入れについての協議
  ① 200名の内、150名は長田区で50名は東灘区で受け入れる。
  ② 期間は3月末までとする。
  ③ 市職員の指揮下に入るのではなく自治労が全責任を持って業務を遂行する。
  ④ 自治労デスクは9時~5時でなく24時間体制をしく。

(2) 自治労が受け持った避難所
   丸山中学校 大橋中学校 神楽小学校 長田工業高校 名倉小学校 苅藻中学校 真陽小学校 宮川小学校 長楽小学校 西代中学校




4. 学校を中心とした避難所

    ~小学校単位で防災福祉コミュニティー

学校を中心とした避難所(人)
 
学 校 名
避難者
就寝者
小学校 丸山小
2,200
860
名倉小
1,000
650
室内小
500
400
宮川小
1,000
800
長田小
2,000
1,200
五位の池小
1,800
1,200
池田小
1,500
1,000
御蔵小
2,800
2,200
志里池小
1,195
700
真野小
5,000
500
真陽小
5,000
2,300
二葉小
4,600
820
長楽小
3,000
1,700
神楽小
1,500
1,350
蓮池小
2,300
2,100
中学校 高取台中
1,000
1,000
丸山中
270
300
西代中
1,000
800
苅藻中
1,200
1,000
大橋中
610
500
朝鮮初中級学校
150
80
高 校 村野工高
500
500
長田工高
600
600
野田女高
450
450
夢野台高
2,000
1,500
兵庫高
2,900
2,300
長田高
2,000
1,000
育英高
750
600
常盤女高
350
200
常盤短大
300
200
学校合計
49,475
28,710
避難所全体
66,446
40,487

 長田区災害対策本部が掌握した避難所は84ケ所だった。この内、学校は31校で避難者49,475名で75%を占めていた。私がお世話をさせて頂いた蓮池小学校の避難名簿をもとにどこの町・通から避難して来たかを住宅地図に記すと殆どが校区内であった。後で地元のサンテレビが追跡調査をすると小学校へ避難した理由として「子どもが通っている」「自分も勉強をした」「PTA活動でよく学校へ行く」「孫が通っている」「近くにあるから」があげられた。
 避難所となった学校のコミュニティーは小学校が一番良かったのに対して高校は校区が広いこともあって地域との馴染みが薄くコミュニティーは取りにくかった。

(1) 真野地区での取り組み
   今回の大震災は未曾有の被害のため行政の初動対応は限界があった。また、地域にあった自主防災組織もほとんど機能せず形骸化した存在であった。
   ところが、行政に頼らず市民が主体的に防災活動を行った街がある。[真野のまちづくり]で有名な真野地区を紹介する。
   この地区の特筆すべき特徴は震災初期の救出・救援である。①地元企業からの出火時は住民が消火ポンプを出動させ、また地域の出火時は企業が自衛消防隊を出動させ延焼をくい止めた。②倒壊したマンションに19名が生き埋めになったが住民が重機等で8人を救出した。③真野地区住民の物資の受け取りは個人では行わず、地区が救援物資の受け入れと配布体制をしくこととし、この一元化を図るため3日目には校区内16町会長会議を頂点とする災害対策本部を真野小学校に設置した。

(2) 防災福祉コミュニティー
   このように真野地区では日頃からのコミュニティー活動を生かして住民が協力して消火活動や救出活動にあたることが出来大きな力を発揮した。このことを教訓として日頃の福祉活動をはじめとする地域活動を通して「ふれあい」や「つながり」を深め災害の時には「自分の街は自分で守る」ことが出来るような組織づくりを進めることになった。神戸市ではこの組織を[防災福祉コミュニティー]と名づけ、原則として小学校区単位のふれあいのまちづくり協議会(173ケ所)を母体に結成し、市民・事業者・行政とが協力して安全(防災)で安心(福祉)して暮らせるまちづくりをめざしている。

(3) 神戸市の支援策
  ① 地域防災活動の支援
  ② 市民防災リーダーの育成
  ③ 防災資機材の配備
  ④ 地域福祉活動の支援


5. 仮設住宅からまちの復興へ<土地区画整理事業・再開発事業>

区画整理・再開発地区の人口動態   ただし16年度は16.7.1現在
 
H2年度
H7年度
H12年度
H14年度
H16年度
H16/震災前
新長田北
6,925
2,874
3,925
4,768
4,982
71.94%
御菅東
1,368
311
424
561
540
39.47%
御菅西
735
134
330
407
417
56.73%
鷹取東1
2,274
411
1,380
1,577
1,609
70.76%
鷹取東2
998
451
623
307
686
68.74%
新長田南
4,584
2,696
2,840
3,177
4,116
89.79%
合 計
16,884
6,426
9,522
10,797
12,350
73.15%
長田区合計
136,884
96,807
105,464
108,619
108,060
78.94%
神戸市合計
1,477,410
1,423,792
1,493,398
1,529,199
1,519,251
102.83%
区世帯合計
52,948
37,979
45,928
52,221
53,086
100.26%

 7ケ月余り続いた避難所は8月20日で閉鎖され避難生活を余儀なくされていた方々は待機所へ移ることになった。各学校は2学期から通常の授業が始まり、長田区では旧・長田区役所庁舎と新長田勤労市民センターが待機所となった。
 仮設住宅は市内で2万5千戸,市外で1万戸の計画で1月21日から着工した。軽量鉄骨のプレハブ平屋建で棟続きで1戸当たり台所と和室2間とUB・トイレで30m2。また、高齢者・障害者に配慮した[地域型仮設住宅]を1,500戸予定した。
 被災者向け恒久住宅として県・市は建設・国土など関係省庁と協議をし、家賃低減を適用する公営住宅を3万8千戸とした。このことにより公営住宅入居希望の被災者は時間的には差はあるものの入居の目途がたった。また、年収、住宅規模、立地場所の3基準に応じた家賃体系をきめた。年収89万円以下で月額6,300円とし、移行時の支援として生活福祉資金(50万円)を設け事実上の個人補償に踏み切った。
 一方、仮設住宅で一人暮らしの住民が誰にも看取られずに亡くなる[孤独死]が150人以上となった。男性が女性の2倍を超え、40~60才台の壮年男子が過半数をしめた。
まちの復興へ<土地区画整理事業・再開発事業>
 震災直後の平成7年3月17日に神戸市は消失・倒壊など大きな被害を受けた地区を[復興土地区画整理事業]と [再開発事業]の都市計画決定をした。そして、震災10年を前にして仕上げの段階に入ったが「表」のとおり人口は未だ7割で「道半ば」の状態で大都市特有の多くの課題を抱えている。
 とりわけ規模の大きい「新長田の再開発と区画整理事業」は今後も注視する必要がある。


6. 激甚災害初動対応マニュアル

 先の大震災の経験から非常時の対応として踏ん張っている職員が倒れないようにすることと「がんばろう」と言える体制を確立しようとの取り組みが行われ、この度出来あがった。
 マニュアルは防災指令第3号(全員出動)が発令された時に早期に区本部を確立させることを目的として作成された。まず、「マニュアル検討会」を発足させて大震災の教訓を生かし市職・市従の組合代表も加わった職員参加のもとで議論を重ねてきた。
 大震災では17日に登庁できたのは(後日のアンケート調査によると)232人中86人で18日は36人で要した時間は1時間以内70人、2時間まで50人5時間以上は22人であった。被災状況は全壊・焼16人、半壊・焼22人、一部損壊123人となっていた。
 今回の想定は3号や震度5弱以上の地震や大規模な災害が発生した直後で出動人員が充分でなく初動活動期の事務分掌が分任できない時としている。まず、家族の安否確認をしたうえで出動し区本部の指揮・優先業務・初動業務をすることになっている。

激甚災害初動対応フローチャート


7. 残された課題<街は蘇るか>

 ① なぜ長田区だけ火災が多かったのか{神戸空襲との関係}
 ② 主人公は誰・・・市民はお客さんか・・・72時間は地域で生命を守る
 ③ 食料備蓄は必要か・・・防災予算を有効に
 ④ 初動対応は一番簡単な部分(京大防災研、林春男先生「首長の腹の据わり方」)
 ⑤ 普段やっていることしか災害時にはできない
 ⑥ 神戸が本気で闘っているのは復興に向けた海図なき航海
 ⑦ 2035年から40年に東・南海大地震、高齢社会の真っ只中
 ⑧ 住んでいる家を安全に、人間と人間の繋がりをより豊かに(1981年 建築基準法改正 耐震基準強化、1995年耐震改修促進法施行)
 ⑨ 救援物資は第2の災害[SⅤAシャンテ国際ボランティア会 市川さん]

 人・街・ながた震災資料室

  1・17神戸に灯を in みくら

    (かるみ父母の会、人・街・ながた震災資料室、神戸市従、部落解放同盟、神戸教組、神戸空襲を記録する会)

御蔵小学校

 

8. むすびにかえて

 あの震災の時、ガレキの街でバッタリ会った友人に「あと10年がんばろう」と言って別れたのが昨日のようだ。
 「もう」「まだ」そして「10年一区切り」という言葉があるが、追悼式典で13才の息子を失った父親が「i am,i can」「私は生きている。私にはなんでも出来る」そして「息子の夢と希望、可能性を、生き残った者の責任として受け継ごう」と語った。
 大災害は一瞬にして弱者を打ちのめす残酷なものである。これに勝つのは支えあえる人間である。