4. 学校を中心とした避難所
~小学校単位で防災福祉コミュニティー
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学 校 名
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避難者
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就寝者
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小学校 |
丸山小 |
2,200
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860
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名倉小 |
1,000
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650
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室内小 |
500
|
400
|
宮川小 |
1,000
|
800
|
長田小 |
2,000
|
1,200
|
五位の池小 |
1,800
|
1,200
|
池田小 |
1,500
|
1,000
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御蔵小 |
2,800
|
2,200
|
志里池小 |
1,195
|
700
|
真野小 |
5,000
|
500
|
真陽小 |
5,000
|
2,300
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二葉小 |
4,600
|
820
|
長楽小 |
3,000
|
1,700
|
神楽小 |
1,500
|
1,350
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蓮池小 |
2,300
|
2,100
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中学校 |
高取台中 |
1,000
|
1,000
|
丸山中 |
270
|
300
|
西代中 |
1,000
|
800
|
苅藻中 |
1,200
|
1,000
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大橋中 |
610
|
500
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朝鮮初中級学校 |
150
|
80
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高 校 |
村野工高 |
500
|
500
|
長田工高 |
600
|
600
|
野田女高 |
450
|
450
|
夢野台高 |
2,000
|
1,500
|
兵庫高 |
2,900
|
2,300
|
長田高 |
2,000
|
1,000
|
育英高 |
750
|
600
|
常盤女高 |
350
|
200
|
常盤短大 |
300
|
200
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学校合計 |
49,475
|
28,710
|
避難所全体 |
66,446
|
40,487
|
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長田区災害対策本部が掌握した避難所は84ケ所だった。この内、学校は31校で避難者49,475名で75%を占めていた。私がお世話をさせて頂いた蓮池小学校の避難名簿をもとにどこの町・通から避難して来たかを住宅地図に記すと殆どが校区内であった。後で地元のサンテレビが追跡調査をすると小学校へ避難した理由として「子どもが通っている」「自分も勉強をした」「PTA活動でよく学校へ行く」「孫が通っている」「近くにあるから」があげられた。
避難所となった学校のコミュニティーは小学校が一番良かったのに対して高校は校区が広いこともあって地域との馴染みが薄くコミュニティーは取りにくかった。
(1) 真野地区での取り組み
今回の大震災は未曾有の被害のため行政の初動対応は限界があった。また、地域にあった自主防災組織もほとんど機能せず形骸化した存在であった。
ところが、行政に頼らず市民が主体的に防災活動を行った街がある。[真野のまちづくり]で有名な真野地区を紹介する。
この地区の特筆すべき特徴は震災初期の救出・救援である。①地元企業からの出火時は住民が消火ポンプを出動させ、また地域の出火時は企業が自衛消防隊を出動させ延焼をくい止めた。②倒壊したマンションに19名が生き埋めになったが住民が重機等で8人を救出した。③真野地区住民の物資の受け取りは個人では行わず、地区が救援物資の受け入れと配布体制をしくこととし、この一元化を図るため3日目には校区内16町会長会議を頂点とする災害対策本部を真野小学校に設置した。
(2) 防災福祉コミュニティー
このように真野地区では日頃からのコミュニティー活動を生かして住民が協力して消火活動や救出活動にあたることが出来大きな力を発揮した。このことを教訓として日頃の福祉活動をはじめとする地域活動を通して「ふれあい」や「つながり」を深め災害の時には「自分の街は自分で守る」ことが出来るような組織づくりを進めることになった。神戸市ではこの組織を[防災福祉コミュニティー]と名づけ、原則として小学校区単位のふれあいのまちづくり協議会(173ケ所)を母体に結成し、市民・事業者・行政とが協力して安全(防災)で安心(福祉)して暮らせるまちづくりをめざしている。
(3) 神戸市の支援策
① 地域防災活動の支援
② 市民防災リーダーの育成
③ 防災資機材の配備
④ 地域福祉活動の支援
5. 仮設住宅からまちの復興へ<土地区画整理事業・再開発事業>
区画整理・再開発地区の人口動態 ただし16年度は16.7.1現在
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H2年度
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H7年度
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H12年度
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H14年度
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H16年度
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H16/震災前
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新長田北
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6,925
|
2,874
|
3,925
|
4,768
|
4,982
|
71.94%
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御菅東
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1,368
|
311
|
424
|
561
|
540
|
39.47%
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御菅西
|
735
|
134
|
330
|
407
|
417
|
56.73%
|
鷹取東1
|
2,274
|
411
|
1,380
|
1,577
|
1,609
|
70.76%
|
鷹取東2
|
998
|
451
|
623
|
307
|
686
|
68.74%
|
新長田南
|
4,584
|
2,696
|
2,840
|
3,177
|
4,116
|
89.79%
|
合 計
|
16,884
|
6,426
|
9,522
|
10,797
|
12,350
|
73.15%
|
長田区合計
|
136,884
|
96,807
|
105,464
|
108,619
|
108,060
|
78.94%
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神戸市合計
|
1,477,410
|
1,423,792
|
1,493,398
|
1,529,199
|
1,519,251
|
102.83%
|
区世帯合計
|
52,948
|
37,979
|
45,928
|
52,221
|
53,086
|
100.26%
|
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7ケ月余り続いた避難所は8月20日で閉鎖され避難生活を余儀なくされていた方々は待機所へ移ることになった。各学校は2学期から通常の授業が始まり、長田区では旧・長田区役所庁舎と新長田勤労市民センターが待機所となった。
仮設住宅は市内で2万5千戸,市外で1万戸の計画で1月21日から着工した。軽量鉄骨のプレハブ平屋建で棟続きで1戸当たり台所と和室2間とUB・トイレで30m2。また、高齢者・障害者に配慮した[地域型仮設住宅]を1,500戸予定した。
被災者向け恒久住宅として県・市は建設・国土など関係省庁と協議をし、家賃低減を適用する公営住宅を3万8千戸とした。このことにより公営住宅入居希望の被災者は時間的には差はあるものの入居の目途がたった。また、年収、住宅規模、立地場所の3基準に応じた家賃体系をきめた。年収89万円以下で月額6,300円とし、移行時の支援として生活福祉資金(50万円)を設け事実上の個人補償に踏み切った。
一方、仮設住宅で一人暮らしの住民が誰にも看取られずに亡くなる[孤独死]が150人以上となった。男性が女性の2倍を超え、40~60才台の壮年男子が過半数をしめた。
まちの復興へ<土地区画整理事業・再開発事業>
震災直後の平成7年3月17日に神戸市は消失・倒壊など大きな被害を受けた地区を[復興土地区画整理事業]と [再開発事業]の都市計画決定をした。そして、震災10年を前にして仕上げの段階に入ったが「表」のとおり人口は未だ7割で「道半ば」の状態で大都市特有の多くの課題を抱えている。
とりわけ規模の大きい「新長田の再開発と区画整理事業」は今後も注視する必要がある。
6. 激甚災害初動対応マニュアル
先の大震災の経験から非常時の対応として踏ん張っている職員が倒れないようにすることと「がんばろう」と言える体制を確立しようとの取り組みが行われ、この度出来あがった。
マニュアルは防災指令第3号(全員出動)が発令された時に早期に区本部を確立させることを目的として作成された。まず、「マニュアル検討会」を発足させて大震災の教訓を生かし市職・市従の組合代表も加わった職員参加のもとで議論を重ねてきた。
大震災では17日に登庁できたのは(後日のアンケート調査によると)232人中86人で18日は36人で要した時間は1時間以内70人、2時間まで50人5時間以上は22人であった。被災状況は全壊・焼16人、半壊・焼22人、一部損壊123人となっていた。
今回の想定は3号や震度5弱以上の地震や大規模な災害が発生した直後で出動人員が充分でなく初動活動期の事務分掌が分任できない時としている。まず、家族の安否確認をしたうえで出動し区本部の指揮・優先業務・初動業務をすることになっている。
激甚災害初動対応フローチャート
7. 残された課題<街は蘇るか>
① なぜ長田区だけ火災が多かったのか{神戸空襲との関係}
② 主人公は誰・・・市民はお客さんか・・・72時間は地域で生命を守る
③ 食料備蓄は必要か・・・防災予算を有効に
④ 初動対応は一番簡単な部分(京大防災研、林春男先生「首長の腹の据わり方」)
⑤ 普段やっていることしか災害時にはできない
⑥ 神戸が本気で闘っているのは復興に向けた海図なき航海
⑦ 2035年から40年に東・南海大地震、高齢社会の真っ只中
⑧ 住んでいる家を安全に、人間と人間の繋がりをより豊かに(1981年 建築基準法改正 耐震基準強化、1995年耐震改修促進法施行)
⑨ 救援物資は第2の災害[SⅤAシャンテ国際ボランティア会 市川さん]
人・街・ながた震災資料室
1・17神戸に灯を in みくら
(かるみ父母の会、人・街・ながた震災資料室、神戸市従、部落解放同盟、神戸教組、神戸空襲を記録する会)
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御蔵小学校
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8. むすびにかえて
あの震災の時、ガレキの街でバッタリ会った友人に「あと10年がんばろう」と言って別れたのが昨日のようだ。
「もう」「まだ」そして「10年一区切り」という言葉があるが、追悼式典で13才の息子を失った父親が「i am,i can」「私は生きている。私にはなんでも出来る」そして「息子の夢と希望、可能性を、生き残った者の責任として受け継ごう」と語った。
大災害は一瞬にして弱者を打ちのめす残酷なものである。これに勝つのは支えあえる人間である。
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