【要請レポート】

自治と分権の災害対策を進めたら……

東京都本部/練馬区職員労働組合

1. このリポートの概要

 このリポートは、「自衛隊が参加する防災訓練に反対」した昭和50年代から、「自治体労働者として防災に積極的に関わっている」今日までの、練馬区職員労働組合としての防災への関わりの変遷を述べます。そして、どのような過程で、練馬区職員と労働組合が自らの役割を認識してきたのか、「防災」に積極的に関わることを通して見えてきた新しい地域コミュニティの姿について報告します。

2. 大地震対策特別法成立(1978年、昭和53年)から

 昭和50年代には、東海地震の危険性が認識され、いわゆる予知型の地震災害対策が開始されました。「広域避難場所」が指定されて、自主防災組織(練馬区で「区民防災組織」と呼ぶもののうち防災会と市民消火隊がそれにあたります。)が育成され、災害対策が一気に前進したと思われていた時期です。
 練馬区においては、1979年(昭和54年)9月1日に、6都県市総合防災訓練の中央会場として、まだ米軍住宅から返還されたばかりの光が丘一帯(グラントハイツ跡地)で東京都の総合防災訓練が行われました。練馬区職員労働組合は、「自衛隊の防災訓練参加反対」の運動と、当日の抗議行動を行いました。住民に受け入れやすい「防災」に名を借りた自衛隊による治安出動訓練との認識に基づくものでした。練馬区には陸上自衛隊第一師団があり、その意味でも大きな政治的課題としてありました。
 災害対策として考えても、当時展開されていた「広域避難」には、区職労として異議を唱えていました。はるか遠方の荻窪あたりから、途中の杉並区内が火の海になっているかも知れないところを、東京都の北西の端である光が丘公園まで、徒歩の隊列を作って避難するという非現実的なものだったからです。(もっとも、その後5年おきに見直しがあり、3キロ以上の避難の指定は例外となり、正式名称からは「広域」が取れました。)この東京都が指定する避難場所ですが、相当密集している地域では、必要なものかもしれません。けれども、関東大震災から81年、阪神・淡路大震災から9年の今日、「広域避難」という「とりあえず命がたすかればいいや」というような震災対策ではなく、「まちづくり」や「耐震補強」などを中心とした、被害を減らす「減災」対策こそが、求められていると言わなければなりません。
 視点を変えてみると、下町から、多摩地域まである東京都(実際は島もありますが、そちらは別の対策が必要)で、一つの条例で災害対策を定めて、「どの地域にも画一的な対策を当てはめようとすること」に無理があったとも言えるのです。

3. 阪神・淡路大震災以降

(1) 自治体職員の役割と活動
   広域避難場所を主とした震災対策が、現実的でないかもしれないと、わかる日がきました。阪神・淡路大震災が発生したのです。神戸市などの下町地区を中心に、地下に断層が走っているベルト地帯を、未曾有の大地震が襲いました。その地域では、人々は逃げ惑い、小中学校や地域の公共施設・公園などに避難しました。かつて東京都が計画してきたように、大地震後の炎が燃え盛る町を捨てて、人々が隊列を作って遠方の公園に避難する、というような例は、見られませんでした。
   この災害に際して、消防や警察が中心の緊急の消火活動や人命救助活動等を除いて、被災者の援護活動、復旧、復興に際して、市や県などの一般自治体職員の果たす役割は、実に大きなものがありました。練馬区の職員にも、国や都を通じた要請による行政派遣、自治労を通じての自治体職員ボランティアに参加する者が、多数おりました。
   これらの活動を通じて、自治体職員の防災への関わりが、単に大規模な防災訓練のときに会場整理係などで動員されるようなものではなく、大量に発生する被災者の援護や、それぞれ日常の仕事の延長にあることを、区職労として認識させられたのです。

(2) 分散型の緊急初動対策と防災訓練
   神戸などの惨禍を目の当たりにした当時の練馬区長岩波三郎氏が、広域避難場所中心の災害対策を方向転換し、練馬区内に103ある小中学校を避難拠点(避難所+防災拠点)にしようと発案しました。集中して備蓄していた物資を学校に分散備蓄し、さらに災害対策用品も追加し、無線電話・ファクスも備えました。そして、物資だけでなく人員も配置しようということで、労使協議が行われ、各避難拠点の近隣に住む男性職員5人ずつを、その年の8月に避難拠点要員に任命しました。区職労執行委員長委員長をはじめ、多くの組合役員も職員として任命され、夜間・休日を中心とした活動をしています。わずかな人数では、一拠点あたりの想定避難者600人に十分対応できないことから、後述する地域の皆さんとともに活動するようになり、みんなで災害対策を勉強しています。(後に教員や学校職員5人を追加して、一校あたり要員10人。2001年には、労使協議により一定の条件をつけて女性職員も避難拠点要員に。)
   地域のみなさんも、それまで区民防災組織である防災会活動等をされてきたのですが、発足から20年程度を経過し、構成員の高齢化などによって、多くの地域では、活動がうまくいかなくなっていました。その事情も踏まえて、1999年3月、区から地域の皆様に、103の区立小中学校=避難拠点で、区や学校とともにその運営を担う避難拠点運営連絡会の結成を呼びかけました。結果として、全部が結成し終わったのは2003年6月でした。避難拠点運営連絡会は、概ね7割が活動を行っていて、PTAや親父の会、関係団体の参加もあり、多くの避難拠点では老若男女の区民が参加する活動となっています。そして避難拠点の活動に触発され、小中学校としての防災活動も活発化しています。消防団、防災会、避難拠点運営連絡会などの「地域」が学校に協力し、PTAなどの学校関連組織が地域に協力するという関係が生まれて、発展しつつあります。まさに防災を軸に避難拠点活動の実践を通じて自治体職員を含む新たな地域コミュニティネットワークが形成されてきています。
   また防災訓練も、1997年(平成9年)まで主流であった中央会場型の総合防災訓練ではなく、複数の会場を指定して行う避難拠点防災訓練を中心とした、それぞれの地域での防災への取り組みを重視したタイプに転換しました。その理由は、区をはじめとする防災機関がお膳立てした訓練に動員して、防災機関の訓練を見せたり、それはそれで必要かもしれませんが、決まりきった訓練項目をやらせてみたところで、区民や職員の防災力は、ほとんど向上しないからです。それよりも、地域地域で、自主的な防災訓練の企画から運営まで参加するなどの、区民自らの力で防災訓練を行うほうが、いざというときの力になると考えからでした。まさに区職労として政策主張してきた内容が自治体政策に結びついた姿と言えます。

4. ビッグレスキューと、練馬区・東京都合同総合防災訓練以後

(1) ビッグレスキュー(2000、2001)への反撃
   一方、災害時には区市町村の災害対策を広域的に支える役目の東京都が、それまでも続けてきた、まるで冷戦下の共産圏で行われた軍事パレードのような中央会場型の展示訓練の集大成ともいうべき訓練、「ビッグレスキュー」を行いました。これは東京都知事に就任した右翼政治家、石原慎太郎氏が、アジア系外国人蔑視政策を防災対策でも実現し、災害時に発生すると彼が妄想した「第三国人による暴動」を防止するために、自衛隊の力を発揮させようとしたものです。
   更に、この2000年9月1日のビッグレスキュー2000を成功させるために、三宅島村から要請の出ていた全島避難が、数日間遅れてしまったのではないかという、重大な疑惑も生じました。
   練馬区職員労働組合としては、このような暴挙に反対し、2000年、2001年、新宿区大久保で連合東京などが実施した、多文化共生の防災訓練を支持するとともに、2000年9月1日、陸上自衛隊第一師団の地下鉄大江戸線による都心への進出訓練に反対して、自治労都本部にも応援を頂き地域住民と共に監視行動・抗議行動を実施しました。
   一方、区民の自主的な防災活動や、被災地での住民と防災機関の連携・協働を重視する立場から考えても、災害発生直後に地元住民・自治体・警察・消防を合わせた人数よりも、自衛隊員の人数のほうが多いというような防災訓練は、全く「絵空事」であり、自衛隊への過大な「幻想」を振りまくものであることを認識し、批判してきました。

(2) 練馬区・東京都合同総合防災訓練(2002.9.1)
   ところが、そのビックレスキュー2001の余韻がさめない2001年末に、区当局から驚くべき情報提供がありました。それは、2002年の東京都総合防災訓練を、練馬区を会場にして行いたいと、東京都から申し出があったというものでした。
   その後、区当局と区職員労働組合は、断続的に情報交換や労使交渉を持ちました。その結果、次のような到達点を築くことができました。練馬区と東京都との協議で、区民が主体の防災訓練とすること、中央会場を重視する方式ではなく相当数の防災訓練会場を設けて区内全域で防災訓練を行うこと、自衛隊の参加は訓練にともなう被害想定と被災後の状況設定にともなって必然性のある人数となること、訓練の名称は、災害時は基礎自治体である区が主体となるべきという立場から、東京都の防災訓練では異例ですが、区の名称が前に出た「練馬区・東京都合同総合防災訓練」とすることなどです。
   練馬区職労としては、2年連続で行われたビッグレスキューのような防災訓練に名を借りた治安対策訓練からの転換を区と確認し自衛隊の防災訓練参加について、異議を留保しつつも、災害時の協力については、必要な事実として受け止めることとしました。
   結果として、主な防災訓練会場8箇所、その他会場約150箇所、参加人員約2万名、うち区民1万5千名という規模で、区民を中心とした防災訓練が行われました。ちなみに、主な防災機関としては警視庁約800名、東京消防庁約700名、自衛隊約250名という規模であり、この訓練は、区民、関連業界や、ボランティア団体などの参加が、圧倒的多数であったといえます。
   この練馬区・東京都合同総合防災訓練から、東京都の区市を巻き込んだ防災訓練の流れが変りました。翌2003年、東京都は日野市と合同で防災訓練を実施しましたが、市内の複数会場を使用して、各種訓練に取り組み、各機関の連携を図る訓練となりました。また2004年は、東京都は、台東区、墨田区・荒川区という複数の基礎自治体と連携した訓練を行う予定です。このようなタイプの防災訓練は東京都においては新しいタイプであり、広域的支援を行う都道府県の立場と、基礎自治体として第一義的に災害対策を行う区市町村の立場の、それぞれを反映した訓練となるはずです。

5. 地域の力で災害要援護者のために

 災害時の大きな課題として、災害要援護者対策があります。
 地域では、普段から、多くの高齢者、障害者等が、行政や民間のサポート機構(介護保険の事業所、在宅介護支援センター、各種施設、ボランティア等々)に支えられて生活しています。大災害が起きると、それらの支える力が一時的に落ちたり、支援を受けている人々の所に到達しないなどの事態が生じ、生命の維持の問題に直結したり、大変な不便を強いられたりします。したがって、大災害の後、支える力が復旧し、あるいは災害によって急増したニーズに対応できるようになるまで、一時的にせよ、地域の力で、これらの人々を支える必要があります。
 練馬区の地域防災計画では、災害要援護者が避難拠点に避難してきた場合には、二次避難拠点として各種施設で支えることになっています。けれども、それらの場所が立ち上がるためには一定の時間が必要ですし、収容できる被災者の数に限りがあります。また災害要援護者といっても状況がそれぞれに違うわけですから、直ちに避難拠点に避難できる方々だけではないはずです。
 そこで、地域の人々によって、それらの災害要援護者の安否を確認したり、生活を支える必要が出てくるのです。そのためには、地域で防災活動をしている人々が、災害時の支援内容として、どのような人々が何を望んでいるのかを知る必要があります。また、行政や地域の団体がアンケートをとって、仮にそれを知ることができたとしても、そのようなニーズを理解して行動する人々が、地域に多数いなければ、要援護者を支えることができません。
 練馬区職労は、これまでの各避難拠点での訓練の総括から、当たり前に地域の障害者、お年寄り、病弱者、在日外国人を受け入れることができる避難拠点づくりが必要であるとの見解にたち、モデル避難拠点を指定しての訓練の実施と、シンポジウムの開催を区に申し入れ、実施することになりました。モデル避難拠点については、この提起を行った区職労役員が避難拠点要員に配置されている拠点としました。
 2004年6月27日には、区立大泉小学校において、区と避難拠点運営連絡会の共催で、災害要援護者の受け入れ等をテーマとした防災訓練と、訓練後には「さまざまな被災者を地域で支えるには」と題したシンポジウムを行い、この企画を提起した区職員労働組合としてこの訓練を全面的にバックアップしました。(避難拠点要員の他に区職労委員長を含め20名のボランティア要員を区職労組合員で組織し参加、また自治労都本部自治研推進委員会メンバーの参加も得た。)
 この訓練に、練馬区職労が働きかけた視覚障害者と身体障害者を中心に障害者当事者の参加があり、地元の防災組織が支えました。それに加えて、区内全域から避難拠点運営連絡会のメンバー、区の避難拠点要員等が集まり、同一の体験をしました。障害のある人や、さまざまなマイノリティーがいることを知って、災害時にもそのような人々も含めて、地域で支えることを学び、その力を伸ばしていくための試みでした。
  障害者自身も起震車体験、煙ハウス体験、水消火器放水訓練などに取り組みました。また他の参加者は、それに加えて障害や加齢による運動能力の低下体験、視覚障害体験、車椅子乗車で段差・スロープなどの体験を行いました。
 この訓練には、これ以外に二つの特別な取り組みがありました。ひとつは、災害時の「ごみ問題」です。区職労から清掃労組に呼び掛け、清掃労組が清掃事務所長を動かし、災害時のパネル展示、側面が透明で中が見える清掃車の展示、炊き出し訓練食事後のゴミの分別指導が行われました。もうひとつは、地域に在住されているバングラデシュの方の指導により、イスラム教の教義によって処理された鶏肉のカレーが、用意されたことです。防災訓練では、豚汁とか、豚肉のカレーが用意されることが多いのです。けれども練馬区においてさえ、68人に一人が外国人である現在、災害時を考えたときに、このバングラデシュ式の鶏肉カレーような、文化的違いを意識しなければならないことも知る必要があります。このことは、食物アレルギーなどに対応する場合にも、共通する部分があります。
 詳しくは、練馬区の公式ホームページ(防災)をご覧ください。

 http://www.city.nerima.tokyo.jp/bousai/index.html

6. 防災を起点に見えてきたコミュニティと地域自治

 こうした取り組みを通して、区職労は多くの事を学んできました。
 当たり前の事ですが、地域防災力はその地域のコミュニティ力に規定されるということ。その地域とは、昔から住み続けている家、引っ越してきたばかりの人、障害者や病弱な人、在日外国人など多種・多様な住民で構成されているということ。
 持続的な避難拠点の活動が、地域の諸団体を紡ぎ、出会いの無かった団体、集団の輪の拡大を生み出していくこと。
 避難拠点要員に任命された600名ほどの区職員が、夜間や休日に本来の役所での部署を離れて在住地域で住民と直に接し、共に地域活動を担うことで醸成される信頼関係。
 地域々々の特性にあわせて、避難拠点が主体性をもってその地域の防災対策を試行錯誤し豊富化し、定着させてきたこと。
 役所任せにするのでは無く、自分たちの地域は自分たちで守るという意識の浸透。
 これらは、まさに住民自治の本来の姿を浮き彫りにしています。
 大都市東京では、隣の住民と声を交わしたこともないという住民が多く、旧来のコミュニティ装置がハードの上でも、ソフトの上でも溶解しつつある一方で、練馬区の小中学校103校を避難拠点にした住民と区の職員の取り組が、新たなコミュニティ形成の萌芽を宿しているのではないかと私たちは考えています。

避難拠点訓練とシンポジウム

練馬区職労の提案で実現した防災訓練の模様(2004.6.27)