【自主レポート】

教育基本法の豊かな可能性・なぜ今改正か?
― 本物の地方分権・住民自治を目指すために ―

北海道本部/自治労札幌市役所職員組合連合会・自治研推進委員会・
札幌市月寒公民館 森  昌彦

 政府は故小渕首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」からの最終報告を受け、法により設置される「中央教育審議会」に「教育基本法」の改正に向けて諮問していたが、2002年11月14日中間報告「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興計画の在り方について」が発表され、各地の公聴会を経て2003年3月20日に最終答申が文部科学大臣宛提出された。これを受け政府与党は、自民公明それぞれの思惑のもと政策調整を行い、次期通常国会には改正案が提出される可能性が大となっている。
 今まさに施行後50余年を経て、教育の憲法ともいうべき「教育基本法」の改定が現実味を帯びてきたといえる。

 敗戦から来年で60年。冷戦構造の崩壊、バブル経済とその後の停滞、すべての分野におけるグローバル化(アメリカの一人勝ち)、少子超高齢社会へと時代は大きな転換期をむかえ、教育と子どもたちを取り巻く状況も「学級崩壊」「いじめ」「不登校」「児童虐待」「学びからの逃走」「子ども自身が加害者となり被害者となる凶悪事件」などに象徴されるように、困難な様相を見せている。このことに危機感を抱き国は、教育改革を推し進め、不適格教師の排除、問題行動児の排除、社会奉仕活動導入のための関連法の成立をはじめ、「ゆとり教育」の名のもと、2002年4月から学校完全週5日制、総合的な学習その他の施策が実施されている。
 また、「地方分権」が曲がりなりにも進められる中、住民自治・住民参加のキーワードのもと「地域に開かれた学校」「地域の教育力の充実」が大きな課題として掲げられ、その具体的な取り組みも各地で模索されている。北海道ニセコ町ではいち早く「情報公開条例」「まちづくり基本条例」を制定し、選挙権を持たない未成年の子どもたちにもそれぞれの年齢に応じ、まちづくりへの意見表明権(子どもの権利条約第12条)を積極的に認めている。さらに、子どもの権利条約を受け川崎市をはじめ北海道奈井江町などいくつかの自治体では「子どもの権利条例」を制定し、「新しい子ども観」のもと一個の人格ある存在として子どもたちを認めようとしている。このことからも推測可能であるが、管理・統合から参加・自立・多様化が大きなキーワードとなると思われる。

 なぜ今「改正」であり「見直し」なのか?
 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育を確立するため、この法律を制定する。」1947年3月31日公布施行された教育基本法の前文が雄弁に物語っているように、教育基本法は日本国憲法と切っても切り離せない関係にある。
 それ故、現在の改正論者および一連の動きの背景には憲法改正への極めて強い意思が存在するのは確実である。2000年1月には憲法改正を具体的に進めようとする憲法調査会が国会に設置され、“憲法調査”を名目とする実質的な改憲の準備が進められている。政権党である自民党は2002年の運動方針に「2003年には憲法改正案を発表する準備をする」ことを掲げた。マスメディアにおいても読売新聞が独自に憲法改正案を発表しているのもよく知られている。第9条に象徴される平和主義、国家との関係における主権在民、何者にも侵されることのない自然権としての基本的人権、これら憲法の基本原理を“新しい時代”にふさわしく変更することが改正論の狙いといえる。
 新しい時代とは一体どのような時代・社会を想定しているのであろうか? 最終答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」では、教育の現状と課題として次のようにその理念を明らかにしている。
 ① 我が国社会は大きな危機に直面。自信喪失感や閉塞感の広がり、倫理観や社会的使命感の喪失、少子高齢化による社会の活力低下、経済停滞の中での就職難。このような危機を脱するため、政治、行政、司法、経済構造等の抜本的改革が進行。創造性と活力に満ち、世界に開かれた社会を目指し、教育も諸改革と軌を一にする大胆な見直し・改革が必要。
 ② 教育は危機的な状況に直面。青少年が夢を持ちにくく、規範意識や道徳心、自立心が低下。いじめ、不登校、中途退学、学級崩壊が依然として深刻。青少年の凶悪犯罪が増加。家庭や地域の教育力が不十分で、家族や友人への愛情を育み、豊かな人間関係を築くことが困難な状況。初等中等教育段階から高等教育段階まで学ぶ意欲が低下。初等中等教育における「確かな学力」の育成と、大学・大学院における基礎学力、柔軟な思考力・創造力を有する人材の育成、教育研究を通じた社会貢献が課題。
 ③ この半世紀の間、我が国社会も国際社会も大きく変化。国民意識も変容を遂げ、教育において重視すべき理念も変化。
 ④ 直面する危機の打破、新しい時代にふさわしい教育の実現のため、教育のあり方の根本までさかのぼり、普遍的な理念は大切にしつつ、今後重視すべき理念の明確化が必要。

 「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」を目指すため、これからの教育は、次の5つの目標の実現に取り組むことが必要である。
 ① 自己実現を目指す自立した人間の育成
 ② 豊かな心と健やかな体を持つ人間の育成
 ③「知」の世紀をリードする創造性に富んだ人間の育成
 ④ 新しい「公共」を創造し、21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成
 ⑤ 日本の伝統・文化を基盤として国際社会を生きる教養ある日本人の育成

 これらの文脈からはっきり読み解くことができるのは、99年の国旗国歌法の成立に象徴される「国家」の突出であり、地方分権・規制緩和に名を借りた管理強化の姿勢である。すでに学校現場では、強制はしないという国会答弁にもかかわらず児童生徒教職員のみならず保護者家族まで式典での日の丸君が代の強制が当たり前の風景となっている。また、教育改革関連法の施行により学校長への権限・権力の集中が行われたことで、民主的な合議機関である職員会議の位置づけが相対的に低くなり、空洞化と個々の教員の孤立化が進行しているのは紛れもない事実である。福岡県をはじめとする幾つかの自治体では学校長の権限のもと、子どもたちの愛国心(『郷土を愛する気持ち』)の評価まで行う学校も出てきているとのマスコミ報道もある。準義務化された「奉仕活動」に積極的にかかわる子どもたち、家庭で忘れずに日の丸を掲揚している子どもたちの評価が高いのであろうか? 時空が50年以上遡ってしまったような錯覚さえ覚える。
 また、「ホウレンソウ」(報告・連絡・相談)に象徴される指導管理の強化徹底で心を病む教員も増えている。さらに、日の丸君が代の職務命令に従わない教員に指導不適格の烙印を押し、現場から排除していく動きも見られる。すでに教育基本法の改正解体は既成事実を重ねた憲法第9条の「解釈改憲」と同様、現在進行中とも言える。石原知事の下首都東京で行われている一連の「教育改革」のすさまじさは、そのことを如実に物語っているといえよう。
 高度情報・高速交通の確立による世界のグローバル化は、国民国家の枠を飛び越えた資本の移動の自由(多国籍企業・産業の空洞化)も担保した。先端技術の研究開発には膨大な経費と時を要するため、国家戦略プロジェクトのもと産学協同での取り組みが行われている。21世紀における日本経済の安定と発展のためには、ぜひとも科学技術(人材)立国を目標とする必要があり、その基盤としての“エリート教育”を早急に実現させなければならず、経済界からは強く教育基本法改正の声が上がっている。〔日本の安定した発展のためには、国民の5%のハイタレントと10%ないし15%の中間管理層と、あとは安上がりで従順な労働力人口の育成が必要で、教育はその方向に向けなければならない。〕(1960年代池田隼人首相が高唱した『国づくり、人づくり』)、「2・6・2の組織原則」も同様。ここには教育基本法第3条(教育の機会均等)第1項「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって(後略)」の理念・趣旨を敢えて曲解するかのように、運動会での横一列でのゴールに象徴される「悪平等」を非難攻撃し、個性化を標榜したエリート養成(エリート教育)を至上命令とする強固な意思が存在する。

 規制緩和・地方分権の名の下、教育現場では東京都品川区での義務教育段階の学区制の撤廃、中高一貫教育の推進、習熟度別学級、などが実施されている。いわゆる“個性の尊重”という名の能力主義や“自己責任”に基づく自由(競争)主義、つまり新自由主義の理念がその背景にあるといえる。“階層社会”という新たな社会構造の固定化を指摘する声も強まっている。

 最終答申が目指すところの『新しい時代』とはかくのごとくあると思われる。その実現のためには、一人ひとりの各人別様な個性的な“人格の形成”という教育基本法の目標をそのままにしておいたならば「教育の悪平等」になる。そのため教育目的規定である第1条の改定が必要とされたのである。
 第1条とともにいやそれ以上に今回の改定の最重要課題に挙げられるのは、第10条の見直し改定である。戦前「教育勅語」「治安維持法」に象徴される天皇主権の軍国主義国家体制の下、国家権力の教育への不当介入・統制が行われ、国策遂行のための人材を育成した“死に向かう教育”が貫徹されたことにより、我が国は侵略戦争の道を歩み加害者としてアジア近隣諸国の人々に甚大なる災禍をもたらし、自国の民衆にも大いなる被災を与えた。このことを深く反省した結果、教育基本法に国家権力が教育を不当に統制、支配することを抑える10条が盛り込まれているのである。第10条はまず、第1項で教育が不当な支配を受けることなく国民全体に直接に責任を負って行われなければならないとしたうえで、第2項で行政の責務を教育の目的を達成するための条件整備に限定している。つまり、教育は、国民の意思を反映して国民の利益のために自主的に行われるべきものであることを明確にしたうえで、教育行政に対し、このことを自覚して教育の目的を達成するための条件整備に専念するよう求めているところにこの第10条の意義がある。

 教育の内容などについて介入すべき手立てを失った国は、「学習指導要領」に法的強制力があるように指導を強化したり、教科書検定制度を通して教育へのかかわりを法的に認めさせてきたが、地方分権の流れの中、99年には地方に対する国の権限を大幅に削減する改正が行われた。教育における地方分権化が圧倒的に推進された場合、これまで以上に国の教育への関与権は縮小されるのは火を見るよりも明らかである。「地方分権だけを限りなく推し進めれば、その行き着く先は国家の解体である。地方分権という論理は、そうした危険を本質的に孕むものであり、これに対しては明確な法的・制度的歯止めが必要である。」(西澤潤一編著『新教育基本法6つの提言』小学館)そのため、公教育の水準向上は、国家の重要な事業であるという前提のもとに教育施策を総合的・計画的に推進する必要があるとの大義名分が掲げられ、「国は教育振興のための基本計画を策定する」ための文言が第2項見直しの中に盛り込まれたのである。第10条の改正の可能性により、教育目的における国家意識の強調と、教育行政における国家の責務拡大・権限の強化との結合は、状況しだいで教育に対する国家支配を強め、人間の尊厳を損なう恐れがある。

 「教育は国家百年の計。」権力の逆襲がまさに始まった!!!!!
権利としての教育からの大転換!!!!