【自主論文】

第32回北海道自治研集会
第Ⅰ-①分科会 市民と公共サービスの協働

公共サービスの現状と民主性の回復のために


兵庫県本部/直属支部 市来 信弥

1. はじめに

 「公」や公務員等へのバッシングが厳しい。小さな政府を目論む新自由主義者や、官公労の解体を目論む保守本流の輩達による画策と、これに乗じ、増え続ける低賃金労働者の不満の矛先を逸らし、その発散効果を悪用して支持(視聴率や購読部数の拡大)を得ようとするマスコミの姿が見取れ、これを批判する議論が、自治労内を満たしている。
 確かに攻撃の内容には理不尽なものが多い。①公共性の確保のために必要不可欠または有効なものを批判し、結果、社会の劣化を招いている、②当然ないし特に突出した事項とも思えないのに批判の的とする、③制度や手続き上の不備に対する指摘を内容まで不適切かのように扱う……等々である。もちろん一部には、閉鎖的機構の中でぬるま湯に甘んじていたケースがない訳でもない。
 しかし、こうした実情をいくら正面から声高に叫び続けても、事態の改善には結び付きそうにない。最後に挙げたような事例には、日々点検をし、気がつけば直ちに改善に取り組むことが望まれる。一方、①から③に挙げたような事例についても、何故そうした攻撃が容易に仕掛けられるのか、私たちの正論が直ちに受け容れられないのか等々、つまり私たちの取り組みに、弱点や隙といったものがないのかを考察する必要性が感じられる。本小論をたたき台に、真の弱点や隙を発見・分析(総括の視点の拡大)し、その弱点を補い、隙を埋めるための活動にむけた討議に発展することを期待したい。
 筆者は32年間、自治労県本部のプロパー職員として自治労運動に携わってきた。前半は従来の自治労運動の中で時々の担当に当たり、後半は主に一般職常勤職員以外の活動に携わってきた。臨職や関連団体、民間の担当である。この担当の中で、現在の自治労運動全体として認識される情勢把握とは、少し異なった見方をするようになった。一般職常勤職員の皆さんには、非正規や民間労働者の組織化やその人達との共闘を呼びかけるが、それ以外に、一般職常勤職の管理職や元一般職常勤職を含めた理事者に、要求や交渉を求めることが多くあり、以下は、そこから実感として得たことからの評価と考察である。
 自治労方針から大きく懸け離れたものではないと考える。自治労本部の提起等からも、同様の視点が読み取られるが、未だ部分的で組織全体への理解が広がった課題や提起ではないと思われ、本寄稿に及んだ。加えて筆者の期待する議論の展開を期待して、1歩踏み込んだ大胆な私案を提起する。
 なお冒頭、攻撃の対象として挙げた表現を「公」としたのは、役所への攻撃はもちろん、その攻撃の対象が、外郭団体等へも広がっているからであり、公務員「等」としたのは、外郭団体等に働く仲間が厳しい攻撃にさらされているからである。

2. 公共の不可解な対応

 先に挙げた①から③についても、政府や財界が誘導しているという見方だけに留めず、その攻撃を許す背景があるのではないか、という検証をしてみる必要がある。ただし筆者は研究者ではない。統計を提示したり、確立された理論を展開した検証をする能力はない。地方の一実務者からの実態報告として受け止めていただかざるを得ない。
 先ず、ここ数年の労働運動の総括が言明しているのは、低位の条件の労働者が増えたことである。ワーキングプアと言われる劣悪な条件の労働者も急増した。おまけに官製ワーキングプアも多数排出している訳だから、その被害者達を加害者たる「公」や公務員等を攻撃しようという気にさせるのは当然である。無責任なマスコミの報道も、それに共感が得られるからこそ、その報道を続けるのであり、悪循環を繰り返されている。
 しかし、少数の社会的弱者からの声だけでは、世論は形成されないと思う。大企業の本工労働者として働く人達やその家族、安定した自営業を営む人達の階級が、「公」や公務員等の仕事をどのように評価しているのか、ということを見ておかなければならない。
 「休まず遅れず働かず」「責任回避」「横並び、前例主義」「事なかれ主義」「形式主義」等々、「公」や公務員等の働きぶりを批判する言葉は多数存在する。1点目に挙げた言葉は事実に反し、近年は残念と言ってよかろう、逆の実情を呈している。しかし、以降はなお胸を張って「否そんなことはない」と言える人がどれだけいようか。
 誰もが皆、自らの仕事に誇りを持ち、多くの人がその組織内で自らに与えられた仕事に懸命に取り組んでいる。さらに自治労運動の活動家の中には、住民の立場に立った仕事を思慮しながら執務に就いている人が多いと思う。しかし、組織全体として住民から良い評価を受けているかと尋ねられると、自信を持ってイエスと答えられる人は少ないはずだし、財政状況等それを許さない状況に追い込む条件も存在する。
 本稿では、これまで語られてきたこれらの課題以外のマイナス評価に触れる。
 1点目、「公」はコンプライアンス意識が低い。「それは逆だろう」の声が起こりそうだが、私の実感はこれだ。団交等で労働法等、法違反を指摘すると、民間経営者は自らが規定したことや考えを改めようとする。しかし、「公」は違う。「自らが法」というような姿勢で、独自の法解釈をしたり、自らの制度や行為が合法であるかのようなコジ付けの屁理屈を並べだす。もちろん法が公務を除外しているような場合は、なぜ除外されているのかや、対象とされなくとも法が何を求めているのか等、その趣旨は一考だにしないままの言動に終始する。
 2点目以降は多分、経営や経営感覚と言えるものだろう。「公」に直ちに経営論を持ち込むのは不適切との指摘もあるかも知れないが、住民や正義のためになら、幾ら金をつぎ込んでも良い……とはならないだろう。より良いサービスを如何に効率的に提供するかが、その公共職場にプロとして雇われた者へ課せられた課題だと考える。その上で、住民の権利や正義にどれだけの金をつぎ込むかは、政治が決着させることであろう。
 2点目。優秀な民間経営者が大切にする人材を、「公」は軽んじ無駄にしている。非正規職員の雇用止めは正にこの象徴。本来、正規職員を当てなければならない職に多くの非正規職員を当ててきた自治体当局は、その露見が著しくなると、雇用止めの手段をとりだした。1点目の辻褄合わせだ。違法や脱法のマイナス同士を掛け合わせればプラスに転じるとでも考えているのか。
 さらに公共サービスのアウトソーシングを求める声が大きくなると、その影響がどうか、中長期的に見て当該自治体のためになるのかどうかなどお構いなしに、そのサービス提供に携わっていた非正規職員を受託会社に提供し、「脱法行為の解消と世論に応える」の両得を得ようとする。許されるはずのない人身売買を売上すら得ないままだから、人権侵害に愚策を加えたような行為だ。当該業務を受託した企業は、その業務を知り尽くした人材ごと仕事が得られる、労務を肩代わりするだけで当該業務の御用達企業の実を得ている。その労働者が、自治体直雇用の場合と同じ労働条件で働き続けられるとしたら、委託費は多くの場合、直雇用の人件費を上回るであろう。受託企業は、元自治体非正規だった人材を資本として、委託費からの利益が得られる仕組みだ。
 このような事態は、住民の目には触れにくいように思われるが、非正規職員の多くは職住が接近しており、当該自治体の住民であり、当該自治体への直接の不信を生んでいる。
 3点目。収支改善を図ろうとする時、「公」の理事者=経営陣は、支出を抑えることしか考えていないような節が覗われる。街が衰退し、税収や生産人口が減るのではないか? と憂慮させられる施策を平然と強行する。職員の志気が下がることは全く念頭にないような人件費削減策を平然と強行する。収入増のための出資は眼中にない。財政状況が厳しいと、サービス低下を住民に認めさせても、住民の税に対する割高感が強まることは間違いない。
 4点目は、2点目に触れたアウトソーシングの問題である。「公」や公務員等が信用されていないから、世間は「民でできることは民で」を求める。この声を素直に受け容れ「公」の理事者達は外注化に奔走する。なぜ「私たちにだってできる」の反発が起こらないのか。自己否定そのものだ。やはり、そんな気概すらない所でやるより民でやった方が良いのか……? アウトソーシングの理由はそれだけではない。先に挙げた臨職の脱法任用の問題もある。同業を担う民の労働者の労働条件が低すぎ、明確にコスト差が出ている場合もある。
 もちろん民でもアウトソーシングはもてはやされている。今日の非正規労働者の増大と、そこで顕著になる労働の二極化の問題に見られるように、企業の体を最低限に保てるだけの企業意識を培った本工労働者を配置する以外は、安上がり労働力の追求に繋がる外注化を進めている。しかし、その様相には「公」とは少し違うものがあるような気がする。民間の場合、税務上の効果もあるのだろう、先ず子会社を設立する。大企業の企業城下町には大企業とは資本関係を持たない純粋の下請け会社も育成される。当然、平時には子会社は、大企業の身内として扱われる。街の下請け会社にも、より良い部品を安定的に供給してもらおうと、平時には共存共栄のポーズが示される。
 ところが自治体は違う。調達や建造物の請負もすべて競争入札が基本。担当者がただ事務的にその作業を進めた場合、過去・現在・将来の契約先企業への礼は示されない。自治体の子会社であるはずの外郭団体に対してすら、指定管理者制度になったからと、そこに働く労働者の存在を知らぬかのように公募にかける。「お上」が公募と言おうと、そこに働く労働者のことを気に掛け、種々工夫を凝らしてこそ、周囲から信頼される存在となりうるのではないか。
 5点目は、従来から言われる形式主義に近いものかも知れない。不可解に感じた2点を紹介する。1つ目は、前のアウトソーシングに見られる事例。委託が進められやすい事業系の職場は、郡部では多くが非正規職員で担われている。その職場の委託計画を検証すると、財政効果がない場合がある。元々低賃金の非正規職員で担われているから、低賃金の委託労働者に置き換えても差益は出ない。とにかく周りからアウトソーシングを進めよと言われ、ポーズ、パフォーマンスとして外注化すると言うのである。
 2つ目は、数年前「役所用語の排除」みたいなことが流行のようになったので、多少は改善されたのかも知れないが、まだまだ残っている課題であろう。ある役所に抗議か陳情の様なことで赴くのを支援する立場で同行した時のことである。応対した管理職は制度を説明する。陳情者は、その趣旨に沿い手続きをしていると抗議する……噛み合わない。結局、役所側が日常生活で使用する言葉の意味とは違う、法律上の言葉の定義により制度説明していることが分かった。そこで陳情者が抗議すると、管理職は「理解してもらうようにしたいが、我々は後の法的対応に耐えうるように言葉を使う」と、しゃぁしゃぁと宣った。
 断片的な経験談や個人的感想の弱点を補うために、この章の総括内容として、定説のように巷で囁かれる次の言葉を記述する。「世間の常識は役所の非常識。役所の常識は世間の非常識」。

3. その生成条件の考察

 政府や財界の側が、いくら小さな政府や「公は悪」と提唱しようとも、住民に直接サービスを提供する自治体等の機関が、住民から信頼されていれば、その提唱は浸透しない。マスコミも何らかの権力からの圧力はあっても、大衆の側が受け容れない報道をいつまでもダラダラと流したりはしない。ところが、まだまだ「公」や公務員等を攻撃する報道は、大衆に受け容れられている。各街々には役所や役場を攻撃することによって議席を確保している議員すらいる。
 こうした構図が改善できない、固定化する理由として、前章に挙げたような事態が見られると、筆者が経験する一部を紹介したが、この事態を構築する背景について考察したい。この考察は、先に挙げた一般職常勤職出身の総務課長や総務部長、職員課長などと、一般職常勤職の職員団体以外から交渉する場合などに経験した以外に、民間の経営者や外郭団体に入ったコンサルタント等々と意見交換するなどの経験から得られた。
 先ず、筆者が感じていることは、公共機関というのはその公共性が強ければ強い程、責任体制がないということである。最も公共性が強い機関は、政府であろう。中央政府と地方政府。地方政府は紛れもない自治体である。この自治体を検証すると、先ず首長は4年任期の選挙で選ばれる。その配下で働く労働者は、各々の自治体に雇用(任用)されながらも、地方公務員法に基づき働く。この行政機関に対するチェック機関でもある議員は、地盤・看板・鞄等を背景に4年任期の選挙を経て、定められた歳費を受けつつ、職責を果たそうとする。
 一方、民間はどうか。社会の劣化が進行し、新自由主義者が台頭しもてはやされる時代にあって、かなりの例外もあるようだが、起業家が起業する場合、起業するからには従業員の生活には責任をもたなければならないことを覚悟する。そして企業の倒産は、従業員(家族を含め)全体の生活破壊を意味することを認識している。そうした起業家の下で働く従業員も当然、会社の倒産回避にむけた取り組みを継続し、社内全体にその意識が構築され、その中から醸成される次期経営者にも、その意識は根付いている。
 そして、この会社を倒産させない方法は何か。会社の商品やサービスを消費者やユーザーに、消費・利用し続けてもらうことであり、そのためには良い商品・サービスを価値ある値段で提供することである。ちなみに民間の方が法令準拠意識が高いのは、違法企業のレッテルを貼られたら企業は生き延びていけないからだと思う。
 この自由主義経済の構図をそのまま行政に持ち込めと言うつもりはないが、行政にこれに代わり得る、トップや従業員の責任感や志気、意欲を律するシステムがないことは確かではないか。公僕として……などと言う精神論だけで組織が持続できる訳はないし、それが通用する世界こそ恐ろしい。
 選挙を経て地方自治の運営に就かれる方々の責任はどこまで果たせるのか、追及できるのか。特に多くがオール与党の候補者として立候補し当選する首長の責任は……。郡部に行けば、議員もほとんどが無所属で立候補しており、似通った状態に置かれている。
 この責任論で言えば、前章3点目で挙げた将来を顧みない縮小型の自治体運営の問題より以上に、既に問題の重さが明らかになっているのが、行き過ぎた公共投資・公共事業・箱物行政である。後年負担を顧みず行われたこれらの事業が、現在・将来にどれだけの負担を強いているか、という現状があるのだが、選挙の洗礼を受ける人達は、これらをより巧みに推し進めた方が有利という現実がある。この誘導をした自民党政府の失政を追及する声は聞こえるが、各自治体で、その自治体財政を圧迫する最大の建造物を提案した首長、その建設に賛成した議員の責任を追及しようという声はあまり聞いたことがない(そういう時期に当事者達は大概他界しているのだろうが)。
 失敗の責任を追及する、やってはならないことをやらせないという、マイナスの事象への制御システムがないことを示したが、前向きの取り組みを誘導するようなシステムもあるようには思えない。しかし、マイナスの方向への制御システムさえシッカリしていれば、後は先に否定した精神論で補うことができるかも知れない。それは不気味な精神論ではなく、現状を教訓にした自治労運動の提起としての実践である。

4. 信頼される公共にむけた改革メニューは

 自由主義経済システムにおける民間企業の経営秩序は持ち得ないし、持ち込むことも疑問視される。その中で、前章に挙げたような制度的弱点をどう克服していくのか。先ずは諸外国の制度を研究してみるのが有効と考える。良い事例があれば是非、紹介・提起していただくことを研究者の皆さんに期待したい。
 筆者には当然、例えたたき台としても、この問題を解決するための処方箋を提起する能力はない。そこで本稿を締めくくる本章においては、現状に対する労働運動上の視点から2点の提起と、公務・公共職場の制度的欠陥の改革への糸口に成り得ないかという私案を提起したい。
 前章に掲げた無責任態勢を醸成する現状には、2元民主代表制の問題としての検討が、研究者らの間で行われたりしているようだが、何と言っても自治労組合員は、そこで働くことを生活の糧とするプロだ。選挙で選ばれる人達に対峙すべきは対峙して、自らの生活の糧となる職場を40年間守り、後輩にそれを受け継いで行くことが個々人の課題でもあるし、住民のためにもなるはずだ。こうした思いから、自治労組合員の一員として、日々の活動から得る、極めて幼稚かとも思える私見・私案を披露して、現状を脱却するための活動にむけた議論が展開されることを期待したい。
 第1点目は、もう自治労内でも定着し出した公共サービス労働者全体の組織化である。公共職場でワーキングプアが作り出されているという矛盾への取り組みと、そこで働く者の労組としては、このまま継続させてはならない、責任としての取り組みでもある。公共職場以外でも低位の労働者が多数生み出される中で、今日のバッシングが起こっている現状からは、その全体の解消にむけた取り組みが必要であるが、自治労としては先ず自らの周辺の労働者を組織して、その労働条件の改善を図らなければならない。
 第2点目は、本題とは少しずれるが、第1点目の運動課題との関わりと、本寄稿を機会とする新たな提起として記述する。
 本稿冒頭から記述した労働の二極化やワーキングプアの醸成の問題への提起をしたい。この問題を語る場合、先ず1995年の日経連の提言「新時代の日本的経営」が取り上げられる。確かに1990年にバブルが崩壊し、グローバリズム到来として景気の低迷期に入り、終身雇用や年功序列賃金を否定するこの提言から、非正規労働者が一挙に増大してきた。しかし、筆者が提起したいのは、この財界の仕掛け、そして従来にない政治手法や個性を利用して現状に仕上げた小泉元首相を原因として語るだけではなく、私たち運動側に弱点はなかったか、という視点である。
 筆者は、この攻撃に対し十分な対抗ができず、現状を許してしまったのは、日本の労働組合が企業別労働組合を基調にしているからだと考えている。だからと言って日本の労組形態の基調を直ちに職種別に変えるべきとも考えない。企業別組合と職種別組合の一長一短をここで論じる必要はないと思う。ただ我々が学んできたことは、産別組織は企業別組合の弱点を補う機能も持っているということである。
 同業種間の交流をはかったり、スケールメリットを追求するだけではなく、産別組織には同業他社とのコスト競争に労働者が巻き込まれないようにしようと言う、企業別組合の弱点を補う狙いがある。この機能を十分発揮させなかったことが、今日の事態を許した。企業別組合、とりわけ本工組合の中では、企業内の、本工労働者内だけの「賃金格差解消」の運動に閉じこもってしまう。さらには前章で記した自由主義経済システムの中での企業内意識としては、雇用形態や外部の雇用主の違う労働者にコスト削減の役割を担ってもらおうという提案すら飲み込ませてしまう。
 この機能を発揮させられるか否かは、企業別組合と産別組織の機能と権限の配分の仕方にかかっていると思う。とりわけ企業別単位組合の連合体の様相の濃い自治労では、そのシフトを産別組織側に移行させるのは至難の業であるようだ。しかし、この間の総括をシッカリとすれば、その必要性は誰もが理解するものと考える。既に連合の評価委員会も同様の提言をしていたと思う。産別組織である自治労は、既に20年も前から現在提起する組織形態への移行を志している。その後、直ちにその運動を前進させていたら現状はあったであろうか。大局のことは大局の産別組織の方が、より正しい判断ができるという証であろう。
 最後に本題の公務・公共職場の制度的欠陥を認識する中で、そこから脱却するための端緒にならないだろうかと考える私見を提起する。考察の基調となるのは、「はじめに」の中で記載した「閉鎖的機構」の認識に基づくもので、「世間の常識は役所の非常識。役所の常識は世間の非常識」を改善するためのものある。2点に分け論じる。
 1つ目は、スト権を回復し労働組合法を適用せよ、ということである。新たな提起ではなく、永らく持ち続けた要求の、新たな視点の追加だ。従来持ち続けてきた要求の根拠は割愛する。この要求が永らく訴え続けられながら実現されていないことにより生じていると考えられる実相の報告である。
 非正規や外郭団体等の労働者が対自治体交渉を取り組む場合、労働者側の下支えとなる基準は何もない。適用除外のパート労働法や、未批准のILO94号条約は、前々章の1点目に記した順法精神の低さにより、何の意味もなさない。いくら職場実態や生活実態を訴えても、無回答を決め込んだら無回答のまま、話のすり替え、責任の転嫁、時には黙秘でやり過ごそうとする。民間労組の場合の労使関係は分かりやすい。使用者回答に労組が納得できなければ、ストを打てば良いのである。
 ここから論理を入り口に戻すと、力関係に決定的な差のある労使関係を対等の関係にするために労働3権が保障されている。労働3権は民主社会の重要なツールなのである。ところが、これが保障されない組織の中では何が起こっているのか。60年前に一斉に民主主義が謳われ、その旗頭、その根幹、その実践の場とされた地方自治の砦である自治体の中では、それが停滞したままか後退しているのである。後退はしていないにしても、情報社会の進展等で、周囲の民主意識はめざましく発展しており、停滞していてはその差は大きくなるばかりで、先の「常識離れ」の様相となる。
 上意下達の組織機構。これでは職場の民主化は図れないと自治労はスト権の回復を求めてきた(筆者は、このことが経営下手にも繋がっていると考えるが、話が拡散するので割愛する)。ところが民主主義の手法が存在しない職場では、あらゆる面で民主主義の精神が育まれず、非正規の職員や関係労働者、社会的弱者に強権的に接する人間を醸成してしまっているのではないか。
 人口の6割もの者が該当し、生産現場の課題を対象にする労組の取り組みは、民主主義の根幹をなし、最もポピュラーな実践だと考える。これを剥ぎ取られた職場で真の民主主義は育つか? いくら座学を重ねたり、精神訓話を重ねるより、実践を繰り返すことの方が大事だ。住民が役所に抱く不信感や違和感とは、個々の諸課題に対して合理的理由に基づく納得のできる対応がないことから発生しているのではないか。正に民主主義が欠如したものと言える。
 2つ目は、1つ目のスト権の課題も含むことになるが、公務・公務員に対する各種例外規定を全廃すべきではないか、ということである。なぜ労組法を適用除外にし、企業別組合しか認めないのか。なぜ下請代金法を適用除外にするのか。全く趣旨が理解できない。人事委員会や公平委員会での審理は、使用責任者でもある首長に指名された先生方に行ってもらう。その首長には、労基法の監督権限まで与えられている。幾つかの制度には、「公務員は善、正」の発想に基づくものがあるようだが、先ずそこで他の社会システムとの乖離がある。清廉潔白を決め付けられることの辛さや迷惑さが偲ばれる。悪への進行を制御したり善の方向への誘導するシステムを構築することが、社会のためであり、当事者をも救う。
 労働法はもとより、商法、経済法……多くの法は、各々その分野における必要性から制定されたものと考える。仕事の繁忙により、仕事や自らに関係しない法にまで心を遣る余裕はない。結局、法に込められた社会の実相や背景に触れる折角の機会を逸してしまっている。冒頭「閉鎖的機構」と記した事態からの脱却こそが必要なのではないか。