【自主レポート】

第32回北海道自治研集会
第Ⅰ-②分科会 立ちあがれ自治体職員 ― 地方自治の可能性を探る ―

キーワードは市民感覚


福岡県本部/福岡県職員労働組合 井上  健

1. はじめに

 20世紀後半に地方自治体に就職した小生にとって、90年代に制定された「行政手続法」と「情報公開法」は、それまでの行政のあり方に画期的な展開を要請するものであった。21世紀になって就職した若い職員も、先輩職員から仕事のやり方等を教えられたであろうから、その意義を理解していない方も多いのではないだろうか。
 自治労の組合員、とりわけ「自治研屋」にとっては自明の理である「住民自治」も、小生の諸先輩を見ると、単なるプログラム規定あるいはスローガン的なものとしてとらえている向きも多いように思われる。一般市民感覚を忘れて「役所の論理」を至上命題のごとく崇め奉っている輩は、この21世紀を生き延びることはできない。時代は確実に流れ、世相は変わってきているのである。官から民へという一概には善悪を語れない流れもあるが、行政の透明性確保や市民への説明責任といった概念は、住民を統治の対象から自治の主体へととらえ直す際に、従来の行政のあり方を問い、将来を思考するものといえる。

2. 住民は統治の対象か、自治の主体か

 自治体労働者は、憲法に「全体の奉仕者」と規定され、その憲法擁護を謳いながらも、「公務員」という立場にあることを特別なことのように錯覚し、あるいは無意識のうちに誤解し、住民を統治の客体としてのみ考えて、自治の主体として考えることをしてこなかったのではないだろうか。あたかも、「知らしむべからず、よらしむべし」という江戸時代の愚民思想、「住民は何も知らない方が、自分たちの仕事はやりやすい」という意識が、自治体当局のみならず、自治体労働者にもあったのではないだろうか。
 「それはあなたの思い違いだよ。私たちの意識の中では、住民は常に自治の主体者だったし、今後も同様だ。」と大いに反論して欲しいと念じながら、以下の考察を試みるものである。

3. 積極的情報公開

 住民は自治の主体だ、と唱えるだけで住民が自治の主体たりうるわけではない。主体として判断し、決定し、行動するためには、必要な情報が提供されて然るべきであろう。現在の制度の是非、他の選択肢の有無、各々の選択肢のそれぞれに、どのようなメリットがありどのようなデメリットがあるのか。十分な情報が与えられなければ、適切な判断を下すことができないことは、賢明な読者には説明の要もないだろう。
 我々は、経験から様々なことを学ぶ。経験からだけでなく、過去の歴史から学ぶことも多いし、現在に生きる多くの人たちの考えを聞くことから学ぶことも多い。価値観の多様性が言われてから久しい今日においては、可能な限り多くの人の意見を聞くことは特に重要である。
 であるとするならば、今日、情報公開法等に基づいて情報公開請求を受けてやおら情報を公開することで十分なのだろうか? スローガンとしてではなく、住民を真に自治の主体としてとらえるならば、請求を待たずに行政として住民に知らせるべき情報を積極的に公開する姿勢が望まれる。私たちの仕事のあり方を振り返れば、そもそもどのような情報が行政に蓄積されているのか、どのような情報が公開可能なのか、最も知るのは我々公務員であることは明らかであろう。また、国会が成立させた諸法、国の官僚が創り上げた諸制度、それらのどこに問題があるのか、どのような課題が生じるのか、最も見えるのは私たち公務員である。制度を作った国から真っ先に説明を受けるのは自治体職員だ。住民は、インターネット等で速やかに情報にアクセスすることも可能であるが、それが末端行政でどのように運用されるかを見通すことは、自治体職員程には長けていない。
 個人情報保護との兼ね合い等に十分に配慮しながら、住民主体の自治確立のために十分な判断材料となる情報を提供するのは、自治体労働者の役割だと考える所以である。

4. 生活保護制度を例に

 私は、希望して生活保護行政に関わって丸6年が経過した。大学の法学部を卒業した私は、就職する以前から生活保護制度の存在は当然知っていたし、社会的弱者のために働きたいと考えて公務員の道を選んだのである。就職して10年以上を経て生活保護行政の中に身を置いてみると、想像もしなかった制度の実態を知ることとなった。
 生活保護制度は、承知のとおり憲法二五条の定める「生存権」保障のための具体的な法律である。最後のセーフティネットとして機能することが期待されている。ところが、この数年新聞を賑わした「水際作戦」などの運用の実態の他に、無差別平等の原則というものがあることに驚いた。現に生活に困窮していれば、要保護状態となるに到った原因を問わず(無差別)、等しく保護基準に照らして保護法を適用する(平等)というものである。これなどは、市民感覚からすれば、多少なりとも疑問無しとはしないところであろう。
 保護を受けるに到った原因を問わないというのは、昨今はやりの「自己責任」という概念から考えれば、到底あり得ない原則ではないだろうか。一般市民といわず、良識ある市民から見ても、誰もが生活保護を受けないで済むようにその時々に判断して行動すべきであり、生活保護制度による救済を期待して資産を浪費するような者も平等に取り扱うことはいかにも不合理ではないか。自らがなし得る最大限の努力をなしても、なお要保護状態にある者こそ救われるべきではないか。
 一方で、「生活保護を受けるくらいなら、飢え死にした方がましだ」と考える人たちも、現代においても多くはないが存在する。私は、そのような人たちにこそ、生活保護法の適用を受けて欲しいと思うが、彼(女)らは、何故そのように思考するのだろうか? 彼(女)らの立場に身を置いて考えてみたときに、真っ先に考えるのは、「不埒な生活保護受給者と同列に見られたくない」ということである。生活保護の業界でよく例に出されることだが、宝くじに当選して巨万の富を手にしても、世界一周旅行などに浪費したとして稼働が期待されない高齢者が生活保護を申請すれば受理せざるを得ず、他に資産もなければ同法の適用を開始することこそが求められるのである。また、日頃不合理に思うことだが、老後の生活保障の一助たる老齢年金も、例外的に認められた貸付の担保となり、その給付を受けられないならば、それを収入として考慮することなく基準生活費との差額が生活保護で支給されるというのである。
 生活保護の業界で育った職員にとっては、それらは当然のことととらえられても、新参者の私は、大いに違和感を覚えるのである。このような法制度、運用の実態にあることを、積極的に市民に情報提供し、その是非を問うべきではないかと考えるのである。

5. 説明責任

 特に行政手続法の制定後、NPM(New Public Management)等の概念とともに語られる言葉である。NPMの善し悪しは別にしても、住民を自治の主体としてとらえるならば、行政の住民に対する説明責任は、常に問われるべきであろう。行政の現在時点での有りようの適切さを判断することは、行政の説明責任が果たされてこそ可能となる。
 行政が説明責任を果たそうとするならば、一般(良識ある)市民感覚を常に念頭に置いて職務に従事することが不可欠である。これを忘れて行政運営に携わっていれば、市民に対して説明するなど不可能であることは論を待たない。
 とはいえ、行政は法に基づいて執行されなければならないため、条例等の上位規範である法令に違背することは許されない。時には法令に従った結果、市民感覚からずれていると感じることもある。このようなときにこそ、積極的な情報公開を行うべきだと思う。この法令は不合理だと考えるが、上位規範たる法令には従わざるを得ないので、このような結論に到るのだが、住民の皆さんはこれを容認できますか?と。市民感覚からずれているが故に説明責任を果たさないとすれば、そのような結果を導く法令の不合理性も市民には理解できないのである。

6. 市民感覚と一般組合員の感覚、組合幹部の感覚

 単組における当局との交渉における執行委員の発言について、私は、「ちょっと違うんじゃないか?」と思うことがある。一昔前の労働組合の感覚からすれば当然のことかも知れないが、情報公開や行政の市民・住民に対する説明責任が当然の如く語られる今日においては、一般組合員の感覚からもずれていると感じるのである。
 第二次大戦後の労働組合は、戦後日本の民主化の牽引車としての役割を果たしたことは間違いないと思う。しかし、ある時期まで日本の民主化の牽引車であったとしても、時代はさらに進んでいたことに気付かず、いつまでも牽引車であると錯覚した結果が国鉄の民営化問題であったし、大阪市における職員の厚遇問題ではなかったのだろうか? 今日、構成員への説明責任や、財政等の透明性を行政以上に確保しようと努めている労働組合が、どれほどあるのだろうか? 行政は、その透明性確保のために法令を整備し、情報の開示請求を行う際の手続や手数料をきちんと定めている。これに対して、労働組合の会計書類や機関会議の議事録について、何ら定めていない組合が多いのではないだろうか。民主的な組合だから、当然構成員からのアクセス請求には応じるべきだとの理念はあっても、いざ開示請求があった際に、開示請求を行った組合員に罹るコピー代を、請求しなかった組合員の組合費で賄うことが適当なのか、真摯に考えている組合幹部がどれほどいるのだろうか?
 私の所属する単組で、このようなことがあった。全ての組合員に要請署名を求めたのだが、少なからざる組合員が署名を拒否した。最も反発を買ったのが、「誰もが定年退職までに、係長クラスまでは昇任できる制度をつくれ」という要求項目であった。平職員で終わるのではなく、管理職とは言わないまでもせめて係長という役付職員にならねば、子の結婚式等で格好が付かない、というのが年輩の組合員の願いであった。しかし、若い組合員からすれば、能力のない、或いは役付職員としての適性に欠ける職員が、単に年齢や経験年数のみで昇任することはいかがなものかと、異議申し立てを行ったのである。従前の労働組合の感覚からいえば当然の要求であったかも知れないが、21世紀の今日においては、一般市民に対して、職員組合がこのような要求を掲げていると声高らかに訴えることもできなければ、若い組合員の共感をも得られないものである。戦後日本の民主化に果たした役割の大きさを誇る労働組合ならば、行政当局に対して、市民(住民)への説明責任や透明性確保を要求して然るべきであり、当局に対してそのように要求するならば、まず自らの、組合員のみならず市民に対する説明責任についても留意すべきだろう。

7. 公務員バッシングと自治労(自治研)運動

 特に小泉内閣時代に、公務員バッシングが激しくなった。公務員を特権階級の如く市民・国民に思わせ、そのねたみ意識を煽って公務にかかる人件費削減を狙ったものであることは、自治労組合員の共通認識であろう。その策動が国民のためにならないことを説くことはできても、それに成功することはなく、2005年夏の郵政総選挙では、小泉劇場が衆目を集め、与党圧勝を許してしまった。
 今、我々が取り組むべきことは、既得権益の上にあぐらをかくことなく、自らの襟を正し、改めるべきは改めたうえで、今一度「(良識ある)市民感覚」を取り戻し、行政に身を置く市井の生活者として、市民に理解可能な、市民も望むような対行政要求を掲げ、誇りと確信をもって運動を展開することだと思う。
 我々公務員は、他の多くの労働者と同様に、給料をもらって日夜仕事に励んでいる。公務員が他の労働者と異なるのは、その給料が、労務の提供によって生産された製品やサービスの売り上げから支払われるのではなく、基本的には税として受益の多寡とは無関係に徴収された公費から支払われている点である。一方で、公務員自身もその給料から所得税や住民税が天引きされている。言うまでもなく自治体職員は、公務員であると同時に納税者(一般市民)でもある。その納税者の立場に立って考えてみると、当然ながら公務員の給料が徒に高いというのは、いかにもまずい。納めた税金は、有効に使われるべきだと考えるのは当然のことだ。しかし、公務員の給料は低ければ低いほどよいと、単純に考えることもできない。税金を有効に使ってくれる人材確保という問題もあるし、公務員の勤労意欲の問題もあるからだ。納めている税金に見合うだけの役割を行政が果たしているか、ということと同程度に、税金から支払われている給料の額に見合う働きを公務員がしているかということは、納税者にとっての大きな関心事であることは、納税者の一人として想像に難くない。
 公務員バッシングと公務員の総人件費抑制策の推進の流れに鑑みて、住民を見方にしなければ、と気付いた中間が多すぎたことが、今日の状況を導いたといえるのではないだろうか。「地方自治を住民の手に」をスローガンとしてだけでなく、日々の実践として取り組まれていたならば、あるいは「質の高い公共サービスキャンペーン」がもっと早い時期から取り組まれ、「公務員は、給料額に見合うだけの(或いは以上の)仕事をしている」という見方が市民の間に広がっていたならば、集中改革プランなどは或いは日の目を見なかったかも知れないと思うととても残念だ。

8. 公と民の境界

 公共サービスの民間開放が進んでいる。公務員組合からは、公共サービスは公務員の手で担うべきだ、といった主張が聞かれる。私自身は、市場原理に委ねることの是非は別にして、何を行政に委ね何を住民自らが行うかという点については、その時点での、あるいはその地域の民意によるべきだと考えている。この点、行政改革推進法で国が一律に地方自治体に対して公務員定数削減を求めていることに反対だ。地方分権一括法の理念は、国と地方自治体を対等な関係に位置付け、地方自治体の独自性を認めることにあったはずである。であるならば、住民の総意によって、自分たちのことはなるべく自分たちで行うから、公務員の人数は少なくて済むはずだし、その分税金も安くなるはずだ、と考える地域もあって良いし、住民自ら処理する範囲を狭くしてその分行政に委ねる範囲を広くし、従って公務員の定数は多めになり、結果税金は高くなることもやむを得ないと考える地域もあり得る。集中改革プランで一律に公務員定数削減を求める国の姿勢は、地方分権の理念に反するものと言わざるを得ない。
 一方で、住民の総意で行政に委ねることとした分野については、直営はもちろんだが、仮に委託であろうが、或いは指定管理制度であろうが、その運営方式を行政自らが選んだ点に於いて、あくまでも行政が責任を持つべきであろう。そして、行政の責任において委託や指定管理を選択したことから、賠償責任を負うこととなるのである。耐震偽装問題に見られるように、責任を曖昧にしたまま被害者救済の必要性のみで公費を投入することは、同様の問題の再発防止の観点からも、厳に慎むべきである。

9. 市場原理は政策に活かせ

 特に小泉内閣以降、公共サービスの民間開放が進められている。「神の見えざる手」が万能ではなかったことは把握されていたからこその修正資本主義であったはずである。格差と貧困が問題視されるなか,格差容認論者もあるという。格差があるから競争がなされ、社会・経済に活気が生まれる、といった論理だろう。競争原理に委ねるだけでは不十分だから、公正な競争を確保するために義務教育の保障や公正取引確保を図る諸施策がなされていることを否定されるのだろうか?
 公正・公平性、平等取扱いの確保等が民間開放の歳には十分検討されなければならない。先述の過失・怠慢、故意・過失といったことに起因する賠償問題の発生可能性も重要なことだ。
 自由にさせることが最も合理的、というのが市場原理だとするならば、それを活かした政策をこそ実施すべきだと思う。法律・諸制度の多くは考慮されているのだとは思う。殺人や詐欺などは刑法で刑罰を与えることとしてその発生を抑えようとしていることなどが、一例である。生活保護の話に戻るが、年金を受給している場合には、その年金額と基準生活費との差額が生活保護費として給付されることとなる。年金受給可能年齢にあっても年金受給資格がなければ、受給していない年金額は、基準生活費から減額されない。当然といえば当然のようにも思えるのだが、ちょっと立ち止まって考えて欲しい。年金保険料の減免制度もあるなか、払えるのに保険料を払わなかった、減免制度があるのにその申請をしなかった人たちも、生活保護を受給するようになれば皆平等ですよ、という制度なのである。国民皆年金と言いながら、これでは将来生活保護を受けて生きる覚悟を決めれば年金保険料を払うだけ損だと言うことになりはしないか。保険料に充てる代わりに少しでもましな暮らしを維持し、あるいは少しの贅沢をしたいと考える人も多くないだろう。生活保護と年金と両制度を所管する厚生労働省は、本気で年金制度を維持していこうと考えているのか。生活保護を受けながらでも、働ける人は働いて収入を得て下さい、という能力活用を図るため、収入が増える程基礎控除を増やし、使える生活費は同じではない、という制度を設けているのである。年金収入も何らかの措置を執るべきではないだろうか。