【自主論文】

第32回北海道自治研集会
第Ⅰ統合分科会 地域の公共の力を探求する

時代を洞察する


福岡県本部/岡垣町役場 藤井 和保

1. わたしたちはどこへ向かっているのか

 一日が過ぎるのが本当に速い、一年もあっという間に過ぎ去っていく。でも一日が心身とも疲れきってしまう。
 勤務時間も延長され、正規の勤務時間は一杯に働き、期限を切られた業務が増え、夜の会議も急速に増えてきている。
 土曜・日曜の会議や催しも多く、自分の時間・家族との時間は本当に少なくなっている。
 仕事は次から次へと与えられ、正規職員は年々減らされ臨時・嘱託職員に替えられて行く。
 それも正規職員が減った数に対応する代替はない。
 業務の量は膨らむばかりである。
 住民の生活や要求に対しては、財政を理由に水準は切り下げられて行っている。
 国は、親子のふれあいとか、家庭・家族・地域ということを言い始めているが、日本文化のおおもとを崩壊させてきたのだから枝葉末節のところでいくら声だかに叫んでも彌縫でしかない。
 わたしたちが社会人になった当時には、きょうを頑張れば明日は今日よりきっとよくなる。来年は今年よりきっと生活はよくなると皆んなが信じていた。
 家族や職場の仲間たちとも、明日のこと来年のこと将来の夢を語り合った。
 2001年4月、小泉政権の発足によって市場主義、競争主義があおられ小泉改革以降一気に、わたしたちのくらしは疲弊と閉塞感に覆われてしまった。
 職場や地域で明日を語り10年後、20年後の希望と夢を語り合う姿を目にすることはなくなってしまった。
 蝶々や赤とんぼが舞う田舎の空地の広場にも、子どもたちがはしゃぎながら遊びに興じる光景はない。
 一人の人間が、一日一日をまっとうに働いて、夕ご飯のときには家族がそろって食卓を囲むという、ごく当たり前の家庭がどのくらいあるだろうか。
 一体、私たちはどこへ向かっているのか。
 自民党による一党支配の政治は1993年から1996年の、3年余りの間、連立政権によって総理大臣の座こそ自民党以外に渡したが、半世紀に亘って政権を担っている自民党政治は今なお続いている。
 政治の責任は極めて重い。

2. わたしたちは何を得て、何を失ったのか

失われた風景と情念

 わたしたちは、より便利で、より豊かな生活を求めて営々と勤勉に努力してきた。
 わが国は有史以来、千五百秋瑞穂(ちいほあきみずほ)の国として水と緑の美しい国土が築き上げられてきた。
 地域(集落)共同体として人の生き死に、食料をはじめ、生活に必要なものの生産から消費、くらしの喜怒哀楽をつなぐお祭り等まで完結したものが形成されてきた。
 このような生活の中には、経済や効率のみを尺度とすれば無駄といわれるものがあるだろう。
 しかし、人間として本当に心豊かな生活とは、何なのかと自分自身に問うたとき、ものが大量にあって、無駄といわれるようなものを極限まで省いた人間のくらしとはどういうものなのか、そういう毎日の生活が本当に豊かなものなのか。
 めだかや鮒が泳ぐ川は、コンクリート三面張りとなり、川ではなく水が流れる構築物と化し、どじょうやタニシがいたたんぼにまでコンクリートの畦が続き秋の陽に映えて咲く真っ赤な彼岸花や夏の朝露にきらきらと光る可憐なツユクサなどの野に咲く沢山の草花がたんぼの風景の中から消えてしまった。
 耕して天にいたると言われるほどの、天まで届くような段々畑を人の手によって鍬を入れてきた。
 仕事の合間には畦に腰をおろして、山野を渡る風と光の中に体を委ねるとき自分自身の在り処を感じる。
 このとき、何も生産しない、何も消費しない、自然のなかの沈黙の時間が流れる。
 社会は今、自然との沈黙の時間を共有するということが省かれてしまっている。
 暮らしの中にこのような時間を取り戻す社会にしなければならない。
 水を張った段々畑に月の光が映る風景は、経済とか効率という概念を超えたところで営まれる人々の生命の投影である。
 このような地域に生きる人々は、決して金持ちになろうとして働いているのではないだろう。
 効率の悪いことこの上ない仕事によって生命をつないでいるのである。
 しかしこのような生業に一日を一杯に生きる人達が貧しいのだろうか。
 私たちが得たものは、あり余る「もの」と極限まで削りとられたくらしの時間である。
 ものが大量にあって、時間に隙間がない生活が本当に豊かなのだろうか。

3. 崩壊する人・地域の紐帯

 季節の野菜や山菜が採れたときにはそれを使ったものを、これ作ったよと隣近所の人におすそ分けしたり、もらったりのことは、くらしのなかのなにげない会話である。
 人の生き死にや家の修理など人手がいるときには、お互い様といって助け合うことは普通のことだった。
 家族も親子が同じ屋根の下で暮らすのは当たり前であり、じいちゃん、ばあちゃんの三世代が家族として暮らすのも自然であった。
 若・壮・老が一緒に日々の暮らしを紡いでいく中で、それぞれの年代における命の姿や生き方について理屈ではないところで覚え学んでいく。
 命とは、年をとるとはどういうことか、家族の中で親や祖父母が生きてきた足跡の話をしながら人間の情愛・情念・道理・厳しさ・楽しさなど肌身をもって感じ、学んだ社会であった。
 このような生活の中から感性豊かな文化が育まれてきた。
 そういう社会をつくるための政治のありようと政策が必要である。
 最近、地域とかコミュニティ・地域ボランティア・行政と住民による協働・延いては食育などという言葉が急速に拡がっている。
 これらはどれも当て字や浮薄な造語であり、このような言葉を使う人の思いつきによって使われている言葉に過ぎない。正しい日本語ではない。
 言葉は長い年月をかけた人間の営みのなかにおいて叡智を絞った苦しみのなかから生み出されてきたものである。
 言葉は生命と文化を代弁しているものであり安易に軽薄な言葉を使うと文化、伝統まで崩壊する。
 言葉が薄っぺらになれば社会もまた薄いものになる。

4. 21世紀は人権が核となった社会に

 人類は過去二度の大きな戦争をした。
 人権が最大限抹殺されるのが戦争である。
 今日、過去のような世界規模の戦争は起こっていないが、局地的には多数の戦争状態のところがある。
 子ども・年寄り・女性・障害を持っている人など社会的に弱い立場の人達が最も犠牲となる。
 大きな戦争を経て、国連において世界人権宣言が採択されたのは、1948年である。
 日本では、国連の宣言より34年も早い1914年に水平社宣言が数千人が結集した京都市の岡崎公会堂において、緊迫と熱気に包まれたなかで高らかに発せられた。
 日本における人権宣言である。
 このときから、人権ということに対する日本の歴史が動いた。
 部落解放同盟による生命を賭してのたたかいによって、1960年の同和対策審議会答申を出させ、1969年には同和対策事業特別措置法の制定となった。
 部落解放同盟による人権確立のたたかいは全国に燎原の火のごとく拡がった。
 解放同盟のたたかいと運動によって人権に対する意識が啓発され引き上げられたことは歴史的なことである。
 政府は、解放同盟の人権確立のたたかいや要求に対し、道路を造ったり住宅を建てたりといった、いわゆるハード事業の施策に矮小化して集中してきた。
 人権確立の本質に迫る政策はなされてこなかった。
 法律に根拠をおいて行われてきた事業中心の同和対策は2002年3月末法律の失効によって、33年間の施策が終了した。
 この法律の終了によって、政府・自治体においても同和問題は完了し差別もなくなったとの認識にたち、人権に対する施策は急速に萎んでいった。
 運動団体による運動も同心円的に小さくなってしまった。
 部落差別や人権侵害は姿、形を変えながら日進月歩する情報技術によるものや、急速に進む市場を最大価値とする社会潮流のなかにおいて陰湿に拡大潜行している。
 毎年3万人を超える人が自ら命を断っている。その内の多くは働き盛りである。
 縦型社会における職場の様々なハラスメントや際限ない競争によって鬱を病む人は数万人といわれ、いつ発症してもよい状態の人を含めると夥しい数となる。
 このような状況が続くと国民は疲れきってしまい国民総病人社会となり国の未来はない。
 今、解放同盟をはじめ、労働組合・人権関係団体は人権の旗幟を再び高く掲げて世論を喚起し、政府に迫る運動とたたかいに起つ(たつ)ときである。
 それは使命ではないか。使命に覚醒すべきときだ。
 国の形は、2000年の地方分権一括法案によって、130年続いてきた機関委任事務という行政手法による中央集権型の政治が地方分権型へとの流れが緒についた。
 地方分権から地域主権へと進展して行くことによって、自立した自治体として発展していくためには、自治体は、自分のまちの確固とした理念と価値観を確立しなければ生き残っていけないだろう。
 誰もが疲れきって閉塞した層雲状況の社会から、一筋の光が射す未来を切り開くためには、人権が核となる社会の形成が明日の地平を開いていくことは間違いがない。
 今年6月6日には、衆・参本会議でアイヌ民族を「先住民」として認め、政府に総合的な施策を促す決議が全会一致で採択された。
 民族・人権ということが本気で国民全体に投げかけられた。
 さあどうする。

5. 何をしている、今こそ労働組合の出番だ

 日本における労働に対する概念は、1925年に発表された、ああ野麦峠という作品によって、信州の紡績工場で働く12、13歳の少女たちの苛酷な労働条件を女工哀史として伝えたところからと言っていいだろう。
 1890年頃から日本で、資本主義が本格的に発展し始めた。
 このころから劣悪で苛酷な労働条件の改善を求める要求は、労働運動として広がっていった。
 労働組合が結成され、労働争議もいたるところの労働現場から発生し、労働運動として拡がりと高まりを見せ1960年には、総資本対総労働のたたかいといわれた三池闘争が国全体を揺さぶった。
 労働組合が確固として社会的に存在した。
 労働組合は、労働条件の改善と生活の向上を目指して、使用者や経営者・国に対して激しく渡り合って来た。
 世論を喚起し、社会に発信してきた。
 組織は、大きくなれば強くなると、1989年に総評・同盟などに分かれていた労働組合が大同団結して、800万人を擁する連合が発足した。
 その後の運動やたたかいを見ると、図体が大きいことの弱点のみが現れ、組織が大きくなったことによる強さは殆ど発揮されていない。
 今や、労働組合は、歌を忘れたカナリアになってしまっている。
 リストラ・サービス残業・ワーキングプアーというような、耳障りの軽いよく意味のわからないカタカナ言葉による解雇・ただ働きが蔓延している。
 公務労働職場では、構造改革・民間企業では、国際競争力をつけるといって、正規職員を大幅削減して、臨時、派遣による安上がりの労働力への転換が怒涛のように進んでいる。
 かって、小泉総理が言った、民間に出来るものは民間にと、つまり、市場にまかせて解決していこうということである。
 このことは現在の福田政権も同じだ。
 「市場に評価されることが価値」とすることの本質は、結局のところ単純な拝金主義に過ぎない。
 あらゆる職場において、努力と経験を重ねながら、労働に全人格的喜びを感じるというようなことを排除して、効率追及型の誰にでも代替可能な働き手になってしまっている。
 経営者ばかりではなく、労働者さえマニュアル労働を競い合っている。
 熟達した先輩に厳しく、ときには優しく指導されながら、仕事のわざや要領を五感で学びながら自分のものにしていった。
 人を育てる、人が育つということは、年月を要するものだ。
 今は、即戦力を経営者が求めるため、マニュアル労働者となる。
 マニュアル労働では、仕事に深みと働く喜びが出てこない。
 先輩たちに鍛えられ、同僚たちと切磋琢磨し、規律や人との接し方などを学び、自分自身と格闘しながら熟練度を上げていく時間のなかで文化を育んでいくのである。
 市場を至上とする社会は、文化も消滅の瀬戸際に立っている。
 社会の一隅で自分の仕事と黙々と向き合って働くことは辛抱がいる。
 一日一日を生真面目に働く人が報われる社会がまともな社会である。
 そういう社会を実現するために共に奮闘しようではないか。
 連合は、パートや派遣など非正規雇用者の組織化・政策制度に重点を置く、と言っているが組合員が次々に崩れて行っている現実をどう捉えているのか。
 働く現場の人たちに手を差し伸べられないでは、政策も制度もないだろう。
 指導的立場にいる人達は、組合員・組合費の上にじっと座っているのではないのか。
 年間3万人を超える人が自ら命を断っている状況が9年も続いている。
 その内の多くは、働き盛りの人たちであり、仕事や生活に苦しみ、悩んでのことに起因している。
 働く現場は本当に深刻な状況になっている。
 労働組合にとって非常事態である。
 働く現場や職場には、連合をはじめ労働組合の姿は見えない。
 労働とは・人間が働くということである。
 成果主義・競争主義という思想によって際限なく、業務とその達成目標が与えられ、地球の一員として存在する生き物としての人間の心と体は、潰れかかっている。
 人は心をもっている生き物である。
 生き物は、手間と時間を省いたら成立しない。
 今こそ労働組合の旗を高く翻らせて、声を挙げないと労働組合は日本から消滅する日は近い。

 森は美しく、暗くて深い、だが私には約束の仕事がある
 眠るまでには、まだ幾里か行かねばならない