1. 禁煙キャンペーンの不思議
環境問題が、CO2悪者の温暖化問題になっている。地球が温暖化しているとしても、その原因が、CO2だけに絞られるというのは変である。エコバッグやマイ箸運動、自分達の都合のいい環境問題対策になっていないか?「要るものは要る」に問題があると私は思うのだが。
禁煙キャンペーンというのが、禁止し、抑制する側に都合が良いようになっている。CO2規制も、経済発展を抑制する気が無いというのも同じではないか。
最近の飲酒運転撲滅キャンペーンは、「撲滅」なんていう言葉に表れているヒステリー症状で、なにやら気持ち悪いものがある。嫌いだからって、ヒステリックにキャンペーンは尋常じゃない。
とりあえず、「煙草は身体に悪い」ということについて反論3点。
(1) 統計データーに疑義
煙草に関する調査報告については、統計調査の嘘について明らかにした書籍が出版されているので、詳細は省く。求める結果を前提に実験すると、無意識に結果を操作してしまう。だから科学実験や数学の証明は、まずそれを証明する方法論が、確立されている。
ところが煙草有害論は、全て「悪い」を前提にしており、科学的なデーターとしての根拠になっていない。根拠がないだけなら良いが、捏造されているもの、サンプリングのトリック、分析結果の判断を全く違うものにすり替えているというものまで、報告側の愛煙家に対する憎悪さえ感じるものばかりである。
(2) 嫌煙論理は、宗教的な背景があるように思える。
USAの禁酒法時代もそうなのだが、魔女狩りの論理といえる。厳しい戒律を科して、それを守れないことを原罪するという設定があり、罪深き者故、神の導きに従わぬものは罰せられると説くのである。
仏教では、戒律は修行僧にしか求めない。庶民はすがればよいのである。悟りを開いた者にしか守れぬ戒律を、人間全般に求め、それを命じるのが、預言者や神官や神父なりの俗人なんだから、変である。命じる側が、宗教権威の俗人だから、国家が背景にあるから、「魔女狩り」になる。
現代では「魔女」はありえないので、「禁煙やダイエットができぬ、理性のかけらもない、神をも恐れぬふとどき者」という訳である。「酒は、人を惑わせ迷わせるから禁止」も同じ。
(3) もともと、身体に良いか悪いかなんて、そう簡単に判断できるものではない。
どんなに良いものでも、量が過ぎれば「悪い」なんだし、鉛や亜鉛なんて「身体に悪い」と思われている物も、全くないと病気になる。クスリなんて全部ある意味毒物なんだから。
煙草がクスリであった時代もあるし、最高級のコミュニケーショングッズだったこともある。とにかく、何千年の歴史がある物が、突然「悪者」のシンボルになるってのは変だろう。
2. 「疑い」が物語になって「事実」になってしまう
疑念が、推理となり物語となる。推測の物語は、脳の中の「現実」として確定し、疑念は推理の発端でしかなくなる。「タバコは肺癌になる」という疑い、脳にイメージされたことは、「在る」と固定化される。脳が「現実」を作り出す。「在る」と断定された根拠が、「疑い」でしかない。三浦疑惑なんてのもあった。
状況証拠は、採用されないのが裁判の鉄則、推定に基づくことになりやすいから。「タバコは肺癌になる」は状況証拠しかない。「副流煙も肺癌になる」はそれに基づく。さまざまな調査は統計資料になりえていない。癌の発生メカニズムは解明されていない。
「煙草は身体に良い」の統計資料だって簡単につくれる。「身体に良い」という基準が元々ありうるのかが冷静な判断、分析だろう。
根拠が「疑念」。「疑い」があれば、それで物語はできる。その物語が、生まれる「疑い」の根拠は問われぬまま、「タバコは肺癌になる」は確定する。「浮気」は、「疑い」があれば、「女の勘」という根拠になるみたいな。
「疑い」が、「推測・推理」で物語(ドラマ)が動き出す。「肺癌」は、「肺」と「煙草の煙」を結び付け、「浮気」は「夫」に潜在化している。
いじめの悪者探しみたいに、「疑い」を抱くことで、「疑い」の相手の非のみを問う。「疑い」を持つ側が、何かを問われることはない。「疑い」は物語になって、「事実」になる。否定する相手の言葉は弁解でしかない。科学的な厳密ではないかもしれないが、とりあえず調査結果は出ているのだから。
「火のない所に煙は出ない」、「疑い」があるのだから、「浮気」は完全否定できないはず、煙草はそうやって「肺癌の要因」として確定する。
「嫉妬・野心」が、「愛情・向上心」にすり替えられる。「自分」の脳に物語ができている。「愛情・向上心」だから、「自分」を肯定できる。「嫉妬・妬み」は「好意・尊敬」の行き場が遮られ歪んだもの。「嫉妬・妬み」だから、相手を拒絶している。「好意・尊敬」を拒絶された物語だから、「嫉妬・妬み」に反転する。
自分の長所はわからないが、欠点はわかる。「好意・尊敬」の相手を理解できないが、欠点は見つけ出せる。自分の欠点を張り付ければいい。「嫉妬」は他者との関係の拒絶なのだが、自分と相手の関係で、拒絶される「自分」ではなく、「自分」が拒絶する物語になる。
「嫉妬」は愛情だから、自分の愛情を拒絶する他者にすり替わる。拒絶される「自分」は拒絶する主体になる物語。相手は極悪非道の他者になっている。
「妬み」は、自分に無いものを持っている他者に向けられる。「自分に無い」のだから「尊敬」になってもいいはずだが、個人の脳に「現実」があって、「自分に無いもの」は、理解できないものになってしまう。
煙草を止めた人の嫌煙は、「止めたこと」の正当化。「煙草が身体に悪い」が確定しているから、「止める」強い意志の持ち主になれる。身体に合わなかっただけでは? そんな疑問は起こらない。
今では、「煙草を吸う」意思を持続させる方がよほど強靭といえる。金はかかる、身体には悪いみたい、他者に嫌がられる、ただの嗜好では続けられる人は稀だろう。
何千年の歴史がわずか数十年で抹消する物語、「疑い」が「推測・推理」でつくられた物語が罷り通る。CO2の温暖化問題や石油枯渇、戦争・紛争・テロ……情報操作の常套手段として定着している。
「ああすればこうなる」、「人間どうあるべき」の言論には、眉に唾をつけた方がいい。根拠のない「私は正しい」という基準で、「嫉妬」が「愛情」に、「野心」が「向上心」にすり替えられる。善悪・真偽が、明確でわかりやすいものになっている。「私は正しい」が蔓延し、息苦しい社会になっていないか?
自己肯定、現状肯定は「現実」を歪める。「現実」も、「自分」もなんだかわからないもの。
3. 「わがまま」であっても「自分勝手」ではないポストモダン
個人が欲するままに受け取れる社会、個人が個人のままで他者と衝突しない社会、唯物論で理想とされた社会がそういうものみたい。
個人が無かった前近代(江戸)に、神楽や歌舞伎や祭りという娯楽が、山奥の村にもあった。近代(明治)にそれらは都会で切り捨てられ、昭和の終わりに、山奥からも姿を消してゆく。「娯楽」が切り捨てられていくという歴史。「わがまま」が、許されないということでもある。「娯楽」ということ、個人の楽しみという「豊かさ」を排除すれば、「余分」や「余裕」が無くなる。
豊かでないから、配分基準が必要で、「自分勝手」が許されない。豊かであっても、「要るものは要る」で、際限なければ制限は要る。際限が無い消費欲望を掻き立てるのが資本主義。
「要るものは要る」では、際限が無くなる。なにが「要る」のかがわかっていない。それが「自分勝手」ということでは。
ポストモダンの時代は、「私のまま」の「私」に他者が含まれている。衣食住で地球の裏側の人にも依存している。「わがまま」であっても、「自分勝手」にはなりえない。理屈ではそうなる。「我儘」の「我」が何だかわからないものではあるが。
環境問題は、「温暖化問題」になって、「CO2排出は悪」になっている。褒めると叱るで、「叱る」は「許し」と同様、「ダメ」という以外は、「許し」になって、CO2以外はOKになるのでは?
温暖化の原因はCO2だけじゃない。環境問題は温暖化問題だけじゃない。それがまるでCO2問題だけになって、CO2以外は問題にならなくなる。それで、原発容認の動きも変だが、排気ガス、化学物質、電磁波などの問題は?
エアコン、車、コンピューター、飛行機などあたりまえになっている、そんな便利さの自然破壊は? 全て人工的なものは、環境には有害という論理だって成り立つ。
それが温暖化問題でCO2だけがダメとなって、他の問題での抑制が緩んでしまう。現状肯定になってしまう。エコバッグやマイ箸の発想、禁煙・禁酒の発想。自分の「要るものは要る」のごまかしにすぎないのでは?
「要るものは要る」で、「自分勝手」だから、自分には必要無い、苦痛は無い、気持ちが豊かになって、他人の行為の禁止・抑制するキャンペーン。「環境問題=温暖化問題=CO2排出問題」はそういう意味で「へん」なんです。
朝日の天声人語(12/31)で、「人類がここ100年ほど好き勝手で招いた自然破壊、温暖化」って、筆者は人類ではないのかね? 自分の「要るものは要る」の発想に、気付いていない「無責任」。そして「娯楽という余分」が無い。
資本主義の「要るものは要る」主義が、自然破壊の元凶では? エアコン、車、飛行機、コンピューターは使い放題で、いまさらエコはないだろう。ブッシュは石油だけど、ゴアだって企業の肩を持った副大統領だったってことも。自分に都合の良い環境問題の提示。戦争が最大の環境破壊だから、ブッシュが環境問題に、目を向けるはずは無い。
イジメで批判すれば、いじめ問題の外部にいられる、みたいなことと同じでは。温暖化問題は、そういうキャンペーンでしかない。禁煙キャンペーンも似たようなもの。禁煙という個人的なことを、病院の薬害や飛行機・車の排ガスなどと同レベル以上に扱っている。煙草は嗜好で、個人の「嗜好=娯楽」でもあるのだが。
健康増進法では、「健康」は国民の責務で、その「健康」は安静時の平均値にすぎない。活動すれば血糖値、血圧は上がる。数値で「健康」の基準を決めるのは、環境問題がCO2になんだか似ている。国民の責務だから、肥満は非国民ということになっている。メタボ基準の健康のためのジョギングで、死んじゃった人だっているんだし、数値で人間を判断するのは如何なものか。
大きな物語が壊れたポストモダンの時代、世間が壊れて「自分勝手」の基準を、まさに自分勝手に個々人が主張する。CO2の垂れ流しの「自分勝手」は規制して、経済発展は必要って、「なにそれ!」でしかない。本気で「要らないものは要らない」という検討が、世界的になされなきゃ、環境問題なんて、何が問題かもわからないのでは?
4. 「娯楽」の見直し
「娯楽」は、欠かせないものだと思っている。「要らないものは要らない」で私の場合は「娯楽」が、自分にとって明確になる。ただの遊びということではない。車のブレーキにも「遊び」がある。
浮世絵、歌舞伎や狂言は、娯楽であって芸術ではない。明治の時代に、そうして切り捨てられた。それが今、見直されている。そういう意味で、「煙草」は私には欠かせない。
天声人語の方が言う「ここ100年での自然破壊」の中身が無い。大量破壊兵器があるからイラク戦争みたいな論理。無かった「大量破壊兵器」だが、その兵器が何かさえよくわからない。
自然破壊の価値観から生まれた、「自分勝手」な価値観としか思えない。近代化、合理化、平等化なんてそんなもの。「自分勝手」な基準での、なにが善・悪かの判断が、大新聞のトップコラムの主張になってしまうポストモダン。社説がどうかは読むまでもない。踊らされているのは、読者なのかコラムニストなのか?
確固とした自分の基準をお持ちの方が、「自分の頭で考えている」かどうかはわからない。安部氏、小沢氏のドタバタ喜劇では、踊ったのが誰かは明白。そういえば小泉さんは一貫して、「要らないものは要らない」だったんじゃないかな。方針は協議して出すが丸投げ、それって、公的な場で、自分の基準を適用しないということでは?「郵政民営化」だけに焦点を当てて、それだけは「わがまま」を貫く。わかりやすい人でした。
吉田茂の「ばかやろー解散」というのもあった。田中角栄のブルトーザーというのもあった。政治家の表立った「わがまま」加減は、捨てたもんじゃないのかも。良否は別にしてわかりやすい。
ポストモダンの基準は「近代」を解体し、「近代」が切り捨てた「前近代」の余分や無意味から、生み出されるのかもしれない。能や狂言、雅楽などが見直され、江戸は、映画「オールウェーズ」に息づいていた。
誰もがアーティストになる必要は無い。アーティストと、感動できる場や状況を共有すれば良い。アートは芸術ではなく、「娯楽」であったっていいんだし、庶民的な感動なら「娯楽」でしかないもの。そんな「娯楽」であれば、「わがまま」であっても「自分勝手」ではないし、ポストモダンの文化にふさわしい。ポストモダンは、個人が在って全体=大勢があるから、表現=言葉になり難いが、それだけに、その文化は「関係」を創り出す。
5. 公務員の能力主義は、現場を切り捨てる
人はちっぽけで、「ああすればこうなる」は独善に陥る。行政の仕事に誤解がある。政治はマニュフェストや改革論ばかりで、新しいシステムを志向する。
システムは、新しいものを作る作業より、それを馴染ませ、定着させる作業の方が膨大。プログラムは、マイナーチェンジが欠かせない。現在のシステムを維持補修し、改良・改修していく、「問題が起こらないように、そして問題が起これば即座に対応する」、そのことがなかなか評価されない、数字には表れない。
公務員が暇である社会が、安定・安心な社会といえるのだが、それを受け入れる社会にはなっていない。決裁はメリットを明確に示さなければ通らない。従来通りが引き継がれ、システムが硬直化する。問題は起こらないことが前提になっている。現場重視がなければ、行政は官僚化する。脳が身体を排除するように、官僚は現場を切り捨てる。
最先端の産業のITでも、新しいプログラムはバグの修正が大変で、それは人力でのこまめな作業。システムの維持、補修も現場の人力での迅速な対応が最も効果的。しかし、合理化・効率化は委託や指定管理者の方向にある民活。
地方行政の問題は、まさにケースバイケースでマニュアル化できない。民間の合理化・効率化の受け皿は公務員しかない。失業問題は公務員の増加で補うことで解決できるが、そんな世論の喚起はありえないのだろうか。行政の現場こそ、最適な職業訓練学校なのに。
温暖化はCO2、煙草は肺癌、メタボ対策……「あああすればこうなる」では、現場が混乱するだけ。現場は適応・対応しかなく推測や思想は必要ない。方程式も設計図も要らない。日本は籠や飛脚、明治の文明開化でも人力車の社会だった。能力評価より能力発揮に目を向ける方向になっていかなくては、引きこもりの社会になるしかない。そして、「娯楽」は、エンジンオイルの役割、人と人との潤滑油。
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