【自主論文】 |
第32回北海道自治研集会 第Ⅲ-①分科会 都市生活とまちづくり |
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1. 大分市の地勢 海岸部は、東部エリアは豊予海峡に面したリアス式海岸で天然の良港となっており、変化に富んだ海岸線は沖合にある高島とともに自然公園区域に指定されています。 このような海、山、川の環境に育まれ、高崎山に生息する野生のニホンザル、オオイタサンショウウオ、キムラグモなどの貴重な希少種をはじめ、多くの野生生物が生息しています。 『大分市環境基本計画』より |
2. 大分市の特徴~歴史的側面から~
大分市は、古代以降、豊後国の政治、経済、文化の中心であり、古代~近世、現代へと、「まち」が移動しながらつくられ発展してきた。現在の上野から府内城界隈にかけての市街地は、古代・中世・近世の三つの歴史・文化遺産の上に形成されており、全国的にも稀有な「まち」であるといえる。 そうした中で、中世には相模国より大友氏が豊後国に下向し、以来約400年の間、第22代大友義統まで豊後国を一元的に治めるようになる。しかしながら、近世江戸時代には再び小藩分立と呼ばれる分断政策が徹底して実施され、現在の大分市域は6藩域(府内藩・熊本藩・岡藩・臼杵藩・延岡藩・幕府領)へと分割されることとなる。こうした歴史背景は小地域毎の文化形成にさらに拍車をかけ、現在にいたっており、「大分は比較的特徴を一言で言い表しにくいまち」といわれるが、これはこうした歴史背景によるところが大きいと思われる。しかし、このことは換言すると、小地域内に多彩な文化要素を内包していることを意味しているといえる。 |
3. 戦国時代の府内のまち
鎌倉時代になると、相模国を本拠とする大友氏が豊後国守護となる。初代の大友能直、2代の親秀は豊後には下向せず、豊後に下り直接的に統治したのは3代大友頼泰以降からだといわれている。頼泰は、当時の都市計画法ともいえる「新御成敗状」28ヶ条を定めており、その中には「道祖神社の事」「府中墓所の事」等、府中のまちづくりを行ううえでの、様々な規定を記している。 守護所を中心とした大分の地は「府中」と呼ばれるが、戦国時代になると「府内」と呼ばれるようになる。この府内の町を描いた絵図は、現在10枚ほど発見されているが、その所在がはっきりしているのは4枚程度です。 古絵図に描かれる範囲は、錦町・元町・顕徳町の一帯であり、現在の大分市街地の基盤となっている江戸時代の城下町である、府内城と城下と一部重複するように広がっています。 中世府内町の特徴は、南北筋に4本、東西筋に5本の街路があり、基本的に方形に区画された街区割となっている。方形に区画された街区の中に細長い短冊のような形の地割りがなされ、それぞれの街路を挟んで住宅地が展開していたと思われる。府内の町の中心に、方2町(1辺約200mの方形区画 4万m2)規模の大友氏の館が有り、その南東には、大友氏館よりも広大な敷地を有す万寿寺が配置される。 また、古絵図にはダイウス堂やコレジオ(高等神学校)などのキリスト教関連施設の記載も確認することができる。周辺には祐向寺、妙厳寺、大智寺などの寺院が建ち並んでおり、西洋の宣教師達や武士、僧侶などが行き交う、当時としては極めて稀な、国際色豊な景観を呈すストリートであったと考えられる。 府内のまちは、大友宗麟の時代に最盛期を迎えることとなる。織田信長とも深い親交があった宣教師ルイス・フロイスは、府内のまちには「8,000戸の家があり、……このまちは豊後の中心的まちである」と伝え、『イエスズ会通信』には、京(京都)・堺・博多の商人が府内に来住して商取引を行う場所であったとの記録も散見できる。発掘調査からも、国産はもちろん、中国や東南アジア産の陶磁器が多く見つかっており、「豊後府内」は、アジアや西洋の人々が行き交う国際貿易都市として世界に知られていた。 4. 大友氏館跡と旧万寿寺跡 過去実施された調査は、主に大友氏館の範囲確認を目的としており、その結果、ほぼ四囲の確定をすることができた。2005年度以降からは、主殿等があったとされる中心部分の確認調査を開始し、その結果、大型建造物を想起させる建物の基礎跡やカワラケと呼ばれる土器の大量廃棄跡、大規模な地均しの痕跡が見つかるなど、館中心施設の存在を思わせる発見が続いている。 旧万寿寺跡の調査は、堀等の外郭施設と寺域内の調査が行われている。国道10号線拡幅工事により発見された堀跡は、当時、九州一の禅寺の名に相応しく、幅約8m、深さ2~3mと非常に大規模であったことが判明している。寺内部の状況は、現在のところ境内の様子などを示す跡は明確には分かっていないことから、継続した調査による解明が待たれる。 |
5. 国指定史跡「大友氏遺跡」までの流れ (1) ステップ1 (2) ステップ2 |
1999年度 庭園跡の範囲確定 2000年度 大友氏館跡の中央部で大型礎石建物跡及び北限推定ラインの発見 2001年度 国道10号線拡幅工事による館東限推定ラインの確認 |
(3) ステップ3
6. 都市計画からみた大友氏遺跡等の活用方針 (1) 2010大分市総合計画第2次基本計画 (2) 都市計画マスタープラン(2005年) (3) 大分市景観計画 (4) 大分市環境基本計画 (5) 大分市観光基本計画 7. 大友氏遺跡を活かしたまちづくり (1) 目 標 ―「地域の歴史と文化を知り、愛着と誇りを育む資産づくり」 (2) 活用指針 (3) 新たな観光拠点として周知 ―<学習・情報発信と調査研究の拠点づくり> |
① 史跡指定地隣接地に学習施設を創設する ② 大分駅隣接地に情報発信基地(大分駅付近エントランス施設)を創設 ③ ①現地ガイダンスと②駅付近のエントランスを結ぶルート史跡整備にあわせた整備 |
長期にわたる事業が想像されるため、その間の周知・普及のため、旧万寿寺地区に仮ガイダンス施設(大友氏遺跡体験学習館)を設け、大友氏遺跡の紹介や体験学習、まちづくりイベント等の交流の場を提供する。 (4) 景観コントロール (5) 整備対象ゾーン分け |
Aゾーン 大友氏館跡・旧万寿寺地区などの史跡指定地及び指定予定地 Bゾーン 唐人町と推定される範囲 Cゾーン キリスト教関連施設があったとされる地区と御蔵場と推定される範囲 Dゾーン 大友氏館跡及び旧万寿寺地区周辺の町屋地区 |
② 史跡整備に関するスケジュール……「史跡大友氏遺跡保存整備事業工程(案)」 2006年度から10ヶ年度―基盤整備・短期整備期間 |
中・長期整備基本計画は短期整備期間終盤の2ヶ年度(2014・2015年度)に策定を目指す |
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ア 大友氏館跡の保存整備 短期整備計画―【~2015年】 ・庭園復元を優先して実施、館内部の整備は中・長期整備計画で実行に移す計画。 ・館東辺の整備は国道10号線拡幅をまって行う。 ・築地塀、門の立体復元整備→境界を視覚的に明示 →国道10号が中世府内町のメーンストリートと重なる歴史的事実を表現 中・長期整備計画【2016年~】 ・大友館の区画を明確化 ・中期―館の復元計画 長期―復元工事、館運営計画立てる *唐人町区域については、町屋の立体復元も想定した整備方針・計画 イ 旧万寿寺地区の保存整備 短期整備計画―【~2015年】 ・基盤整備―遺構の確認調査 ・仮ガイダンス(大友氏遺跡体験学習館)の設置 ・体験学習(河川環境、遺跡発掘) ・河川と史跡地をつなぐ空間的な整備 ・自転車ネットワークの基地 中・長期整備計画【2016年】 ・全体的な立体復元は避け、大友館跡との機能分化を図る *これらの施策も住民の理解・協力が大切である。住民の理解等を得るためには
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8. 歴史・文化財を活かしたまちづくり
大分市には、元町石仏や岩屋寺石仏をはじめとする石仏群や風致地区・景観重要エリアとして指定される上野台地には、もう一つの大友氏の館である上原館、中世寺院、古墳等の史蹟が数多く残る。 |
・鶴崎・稙田・大南・佐賀関・野津原etc地区 地元郷土誌の発行、史跡散策マップ作成等の内容で構成される 史跡案内ボランティアの育成 ・戸次地区―戸次本町街づくり推進事業 日向街道筋の市場のある在町として発展し、江戸時代のまちなみ・景観が残る地区 酒造り蔵であった帆足家を整備し、展示館として整備 |
市内中心部には府内城が存在するが、戦災後の区画整理等で城下町としの景観・建物・雰囲気は失われてしまっている。 |
<まちづくりの役割>―結びにかえて 遺産を崩さず、うまく活用・運営する方法を模索しなければならない。ただ、経済性、良い環境、快適な、便利な生活を追い求める「まちづくり」だけで良いのか? それらは、ただの「かたち(器)」であって、その中身が問題ではないだろうか。 歴史・文化財というのは、生活している人たちに対し直接利益を与えるものではない。存在の影響についても目に見えたかたちで分かるものでない。しかし、かたち無いものの中に大切さがあるのではないか? 自分が住んでいる場所に対する親しみ・愛着、これが小さな地元愛になり、その小さな地元愛の集まったものが郷土愛となる。これらの気持ちが持てれば、それが自分の居場所になり、支えになる。街づくりというのは、そのような空気・空間をつくり出すものではないか? →地元・郷土愛が育まれれば、明るい世の中が待っているのでは…… |
「まちづくり」は、これからの未来にたいする分岐点の鍵になるであろう |