【自主レポート】

第32回北海道自治研集会
第Ⅲ-②分科会 地方再生とまちづくり

人吉市鍛冶屋町通りのまちづくり報告
職人町の再生から伝統文化の継承へ――地区の仲間との協働

熊本県本部/人吉市役所職員組合 志岐  晃

1. はじめに

 私は、現在熊本県人吉市福祉事務所で生活保護のケースワーカーの業務を担当しておりますが、その前は都市計画課において街なみ環境整備事業を担当しておりました。
 このレポートは行政からの投げかけによるハード面の整備に始まり、地域の皆さんが地区に残る伝統文化の維持・継承に目覚め、活発な活動に繋がった実践報告です。

2. 街なみ環境整備事業による通りの修景整備

 人吉市は、熊本県の南部、人吉盆地の最西端に位置し、南は鹿児島、宮崎両県に接しており、熊本、鹿児島、宮崎の各都市へ高速道を利用し約一時間でアクセスできます。市の中央部を日本三大急流のひとつ、球磨川が東西に貫流し、さらに南北から多くの支流が本流である球磨川に注ぎ込んでいます。
 鍛冶屋町通りは、市内中心部の九日町通りから約100m北側に位置し、その名の通りかつては鍛冶職人の街として栄えた通りでした。
 鎌倉時代初期に遠州から地頭として入国した相良氏が一貫して統治していた相良藩700年の城下町であるため、町家としての区画割りは昔のまま残っており、住環境、観光の場としても魅力的な要素を残している地区です。
 近年鍛冶屋が減少し、現存する鍛冶屋は2軒となり独特な構造を持つ昔ながらの鍛冶屋は既にほとんど残っていない状況でした。
 2001年に市企画課・都市計画課から地元住民の方々へ、国土交通省所管の補助事業「街なみ環境整備事業」により職人街の再生を図っていこうという投げかけを行ったところ、有志により2001年9月、「鍛冶屋町通りの街並み保存と活性化を計る会」が結成され、まちづくりに関する勉強会や事例研究が行われてきました。
※街なみ環境整備事業とは
 生活道路等の地区施設が未整備であったり、住宅等が良好な美観を有していないなど、住環境の整備改善を必要とする区域において、住宅、地区施設等の整備改善を行うことにより、地区住民の発意と創意を尊重してゆとりとうるおいのある住宅市街地の形成を図る。
 具体的な内容として、
① 地区内の協議会組織による良好な街なみ形成のための活動に対する助成
② 街なみ環境整備方針及び街なみ環境整備事業計画の策定、生活道路や小公園などの地区施設整備
③ 地区住民の行う門、塀等の移設や住宅等の修景に対する助成を行います。



鍛冶屋の修景例


案内板の設置

 左側の写真は現在も営業している鍛冶屋さんのファザード(建築物の正面の外観)を補助事業によって修景したものです。修景にかかる費用の1/3ずつを国、市、申請者が負担する間接補助となっています。

3. ウンスンカルタのまちへ

 ハード面で徐々に整備を進めていく中、街なみ保存会の集まり中(主に飲み会)、全国でこの地区にだけ伝承された遊び「ウンスンカルタ」を復興し、街づくりに繋げていけないものか、との機運が高まってきました。
※「ウンスンカルタ」とは
 16世紀半ば、日本に渡来したポルトガルの船員たちが使っていたカード遊びが日本人に伝えられました。これが南蛮カルタと呼ばれるものです。その後、日本人の手で一部修正したものが現れました。これが天正カルタです。そして、元禄の終わりか宝永の始め頃に、さらにこれを改良したウンスンカルタが生まれました。ウンとかスンというのは札の名前です。
 寛政の改革のとき、一切の遊興が禁止され、この遊びも全国的に禁止されたのですが、不思議なことに日本でただ一ヶ所、九州の一隅……人吉・球磨地方にだけ今日まで残されてきました。
 といってもこの遊びを知っている人はわずかなお年寄りだけですし、8人揃わないとゲームができないことから、熊本県指定重要無形文化財に指定されてはいるものの、実演する機会もめったになく、次第に廃れて滅亡寸前のところにきていたのです。
 1979年、若い者でこの遊びを引き継いでいこうと保存会の方々の指導を受け実演を試みたのですがカルタ自体が製造されていなかったので人吉市教育委員会所蔵のカルタ(京都の天狗堂製)を手本にして復元しました。(別紙ウンスンカルタ強弱表参照
 保存会では2003年に人吉・球磨地方で開催された県民文化祭での実演を契機に、ウンスンカルタ遊びの復興に力を入れていましたが、通りの整備の進捗と合わせて何かできないものか、との声が上がり2004年10月に第一回ウンスンカルタ大会を開催する運びとなりました。
 開催にあたり保存会の会長が「せっかくだから日本・ポルトガル友好親善ウンスンカルタ大会と銘打ってみよう」と言い出し(これも飲み会の中)、7月に在日ポルトガル大使館に対し、大会での同国国歌の演奏と国旗掲揚の許可、大使からのメッセージをいただくよう要請したところ快諾を得ました。さらにダメ元で大使に大会の案内状を出したところ出席したい、との返事が来ました。
(このあたりからだんだん引っ込みがつかなくなってきた気がします…)



本当に来られた駐日ポルトガル大使


看板

 大使のコイントスで始まり、多数の参加者を得て大成功裏に終わった大会ですが、一過性に終わらせず、ウンスンカルタをどんどん広げようとの方針から次に何をやろうか、という議論が当日の反省会で沸きあがりました。さらに、いつかはポルトガルまで出向いてウンスンカルタを逆輸出しよう、との夢まで語りあったところです。
 人吉市では毎年2~3月に「人吉球磨はひなまつり」というイベントを観光サイドで行っております。これは市内中心部の九日町通りを中心にしたイベントですが、鍛冶屋町通りも2003年からこのイベントに参加していました。
 第1回ウンスンカルタ大会の成功に気を良くした保存会では、このひなまつり期間中の土日に「お内裏様組」と「おひな様組」に分かれて2ヶ月間に及ぶペナントレースを行うこととなりました。
 これは小中学生を中心に、大人もゲームを楽しみながら地元の人や観光客にもウンスンカルタを実演しながら教えていこうという欲張りな考えから始まったものです。
 そのイベントに関連し、2005.1.15にグランメッセ(熊本県益城町にある屋内展示場)で開催された「ひなの国九州フェスタ2005」においてカルタの実演を行いました。






物珍しさも手伝って、ゲームをしている間は常に覗き込む人が絶えませんでした。


 ひなまつり期間中は毎土曜日のペナントレースに5~8チームが参加し、大いに盛り上がりました。この年の第2回ウンスンカルタ大会も県内はもとより福岡県からの参加もあり、徐々にウンスンカルタの輪が広がっていくのが実感できました。
 この頃とても嬉しいニュースが飛び込んできました。地域文化の復興に寄与したことで、「くまもと県民文化賞」の受賞が決まったことです。
 翌2006年の1月5日と6日には太宰府市の九州国立博物館からのカルタ実演を行いました。
 これは博物館のエントランスホールにて実演、ワークショップ(事前に予約した参加者への実技指導)、ウンスンカルタの歴史や遊び方の講演を行うものです。



 一日目、テレビ取材は来るし講演も大盛況でしたが、二日目は会場に到着寸前に大雪となり、人吉へ帰ることができなくなるのを恐れて、実演なしでとんぼ返りしました……。



初めてチェーンをはめて運転……


 2006年10月の第3回ウンスンカルタ大会にはなんと作家の京極夏彦氏がお忍びで参加されました。実はカルタなどのゲーム遊びが大好きとのことで、青森の知人の方まで誘って東京からチームを作って参加されました。京極氏のブログにこのことを書いていただいています。
 その翌月には長崎市の長崎歴史文化博物館に招待され、一泊二日での実演の旅に行きました。
 ここでも地元の小学生とゲームを楽しんできました。

4. 地区の皆さんとの協働についての考察

 これまで「鍛冶屋町通りの街並み保存と活性化を計る会」及び「ウンスンカルタ保存会」の活動の一端を紹介しましたが、その活動に会の一員として参加して感じた点を述べてみます。

(1) 補助事業担当者としての関わり
 当初私がこの会に関わったのは、2003年の4月に都市計画課の職員として前任者から引き継いだ国土交通省補助事業の担当者としての立場からでした。
 それまで役所の中で予算を持って建設関係の事業を担当するという経験が無かった私は、補助要望から補助申請、地元との連絡調整など初めてのことばかりで戸惑う毎日でした。が、何か会合があるたびに終わった後、通りの中にある飲食店で飲み会をやった関係で、皆さんとすぐに溶け込むことができたように思います。その結果地元の要望を県・さらには九州地方整備局へと繋ぐ際には十分理解ができた上で話ができたように思います。

(2) 福祉課へ異動して
 2005年4月にわずか2年の在籍で都市計画課を出て福祉課へ異動しました。
 理由は上に聞いてくれ 状態で結構カリカリしましたが、保存会会長始め会の皆さんは、「福祉課に行ってもカルタには来るんやろ。」との暖かい言葉を頂き、「あ、参加してもいいんですね。」と答えたら「当たり前たい。」と怒られました。
 市役所に勤めていると、担当を変ると、それまでどおりにこういった会に参加するのは、後任者のことを考えるとなかなか難しいものがあります。しかし先のお誘いがあったため娘と共に遠慮なく参加を続けることとしました。実はこの会には県の観光サイド、市の企画課サイドからの地域づくりの補助金が出ていました(2008年現在無し)。様々な遠征やイベントに使ったようです。
 県の方は何でもないのですが、市の担当課のある人物が、福祉課に異動したのが(私です)、なんで保存会に顔を出してるんだ、といった内容のことを保存会の人に言ったという話が耳に入ってきました。
 常々「市民との協働」と言いながら、補助金を出しているだけで、共に輪の中に入って楽しんだり、イベントの準備をしたり、という姿勢が全く無いのが市の当時の担当課のスタンスでした。また、「この団体には補助金を出しすぎている」との発言もあり、保存会会長が激怒されたこともありました。
 確かに地元の方とドップリ同じ土俵で行動すると、自分の時間が無くなる、他にも仕事は山ほどある、等の考え方も理解できないではありません。しかし、地域住民の人たちは、それこそ自分の商売を横に置いて保存会活動を行っています(会長はお茶店の代表かつ日本茶インストラクターとして食育にも熱心。副会長はみそ・しょうゆ製造販売業の社長。)。それを間近に見ていると、できる限り協力していくのが本当ではないか、と考えた上での参加です。

協働=一つの目的を達成するために、各部分やメンバーが補完・協力し合うこと
と辞書には書いてあります。
 このような活動に限らず様々な場面で住民と"協働"することがたくさんあると思います。
 今後益々公務員を取り巻く状況は厳しさを増すばかりですが、地域の中に自ら飛び込んで地域の皆さんと共に動くということが肝要ではないかと思います。

5. 結び

 当市は昨年就任した現市長が偶然にも駐ポルトガル大使と同級生という関係から、「アブランテス市」と姉妹都市締結や青少年の国際交流を目指すこととなりました。
 この保存会のメンバーが実際に行けるかはわかりませんが、第一回ウンスンカルタ大会で語ったカルタを逆輸出するという夢が実現する可能性が大きくなったのも事実です。
 また本年6月9日、当地の青井阿蘇神社の社殿群が、熊本県に現存するものとしては初めて、神社としては47年ぶりに国宝指定を受けました。
 これを受けて、ともすれば高齢化、疲弊化して元気がなくなっている地方都市「ひとよし」にも「何か出来るぞ」という機運が高まっていると思います。
 また、地域に残された文化や文化財を再度見直す絶好の機会であるとも言えます。

まだまだカルタはやめられません!!

ウンスンカルタの札