1. はじめに
猪土手という言葉を聞いたことがあるだろうか? 猪土手とは、先人がイノシシなど野生動物から農作物を守るため、土を掘って溝を造り、掘った土を盛土して築いた土手のことである(図-1)。猪土手は、かつて人と野生動物の生活圏を棲み分けるための壁であり、サト(里)とヤマ(山)の境界線であったと解釈できる。猪土手の存在は、近年の人と野生動物の軋轢が昔から生じていたことを示している。猪土手(その背景を含めて)を学ぶことは、現代にも有用であると考えられることから、以下の活動を実施した。
① 文献調査(市町村誌に記載されている県内の猪土手についてとりまとめた)
② 猪土手遺構調査(現状の猪土手を把握するために記録した)
③ 猪土手の復元と公開(労務を推測するため猪土手を復元し、これを公開した)
2. 活動結果
(1) 文献調査……県内の広い地域で築造されていた猪土手
猪土手は、その存在を推測した記述を含めると、現在の高崎市、太田市、沼田市、渋川市、藤岡市、みどり市、榛東村、吉岡町、南牧村、片品村、みなかみ町の11市町村で県内の広い地域に築造されていた(図-2、市町村8誌に記載)。
一般的な猪土手の高さは2m前後であった。もっとも機能した時期は江戸時代と考えられるが、一部は明治時代まで機能していた地域も認められる。ムラの共有施設であった猪土手の築造・維持管理は、ムラのもっとも重要な共同作業のひとつであった。猪土手の出入り口に設置された小屋には交替で見張り番がいた。イノシシの出没が多い時期にはムラ人総出で猪追いや、銃や罠により駆除を行っていた。築造された猪土手よりも山側に位置した集落は、獣害が甚だしく廃れてしまったところもあった。
これらのことから、昔も野生動物被害は甚大であり、先人は多大な労力を費やして野生動物から人々の暮らしを守っていたことがわかる。
(2) 猪土手遺構調査
① 榛名山東麓に築造された猪土手……県内最大規模
県内に築造された最も大規模な猪土手は、榛名山東麓に築造された猪土手であり、北は渋川市祖母島から南は高崎市箕郷町まで延長は約20kmと長大である。この猪土手については、渋川市誌、吉岡村誌、榛東村誌ほかに記載されている。
遺構調査の結果、殆どの猪土手は土地開発による造成工事のため壊されたり、放置された年月の長さから盛土部分の土砂の流亡、溝部分への土砂の堆積等により消失していた。しかし、あきらかに猪土手であると判別できる遺構が森林内に残存していた。多くは連続したわずかな盛土部分が確認できる程度であったが、なかには猪土手の盛土部分の高さが1mで天端幅が1.5mの形状が延長約20mにわたり良好に残存している箇所も認められた。
榛名山東麓には、榛東村に猪土手に関する説明板が2箇所、渋川市に猪土手跡の標柱、吉岡町では猪土手線という名の町道などがあり、一部ではあるが猪土手が築造されていた場所を一般の方が訪れることが可能である(図-3)。また、"今もなお猪土手残る小倉山"と郷土かるたに登場する吉岡町の猪土手については、群馬県文化財情報システム(WEB版)で検索が可能である。
② みなかみ町南部地域に築造された猪土手……今も明瞭に確認できる猪土手
郷土誌である『月野夜町誌』および『新治村誌』には、猪土手についての記録はないが、『笠懸村誌』に、参考として月夜野町のしし土手について記載されている。また、地元では、旧月夜野町~旧新治村の間(以下、みなかみ町南部地域)には、かつて猪土手が築造されたことが古老から伝えられている。町の文化財保護員で猪土手に興味がある方を中心とした地元有志と合同で遺構調査を実施した。
遺構調査の結果、猪土手は、下津、上津、師田、布施等の標高約600~700mの間に明瞭に残っていた。猪土手は、放置されたままの状態ではあるが、あきらかに猪土手の溝や土盛りであると判断できる構造物が、延長約2kmにわたり連続している箇所もあった(図-4)。築造された規模としては榛名山東麓の猪土手には及ばないが、現在に残る猪土手の遺構(構造や規模)としては、おそらくは県内最大で、貴重な遺産であると考えられる。この地域に築造された猪土手は、下津~入須川(大道峠方面)の間に10km以上連続していたことが推察された(沼田市の子持山北麓から下津の間にもあったという話もある)。
遺構調査や地元の方からの聞き取り調査などから、岩石が多いところは土手でなく石垣であった、猪土手は国有林や共有林などの境界として利用された、戦後開拓で入植した家の近くにあった猪土手は補修して活用された、等が明らかになった。遺構調査では、猪土手の天端に多数の境界杭を確認した。
みなかみ町南部地域の猪土手は、現在は猪土手に関する説明板や標柱などがないため、一般の方が猪土手を訪れることは困難である。しかし、遺構調査を合同で実施した地元有志はその後"しし土手(しし堀)研究会"を発足したので、保護や説明などの活動に今後期待したい。
③ "しし槍"の存在……みなかみ町南部地域の農家が所有する"しし槍"
みなかみ町南部地域の農家が所有する"しし槍"は、先祖代々から"しし槍"だと伝えられ保管されてきたが、作成年代は不明とのことである。地元有志の話では、昔はどこにでも野鍛冶屋があって農具が作られていた。おそらくは"しし槍"も農具の一種で、決して特別な存在ではなかったであろうとのことである。猪土手沿いには落とし穴があって、落とし穴に落ちたイノシシなどの野生動物を"しし槍"で刺したといわれている。この地域の"しし槍"については、先述した『笠懸村誌』にも参考として記載されている。
確認した"しし槍"の構造は以下のとおり。全体の長さは7尺(210cm)で、そのうち柄の長さは6尺3寸(189cm)、槍の長さは7寸(21cm)。槍の刃断面は二等辺三角形で、三辺のうちの長辺の面には、血溝(けっこう)といわれる溝がある(図-5)。これは、野生動物から出血した血を流す溝とのことである。柄の断面は楕円形で、長辺は2.5cm、短辺は2cm、樹種は不明。
水上町南部地域には、このほかにも"しし槍"を所有している農家がある。
(3) 猪土手の復元と公開……延長5mの猪土手築造には、大人6人と小型機械2.5台が必要
県内の猪土手は11市町村で築造されたことが文献調査で明らかになったが、猪土手にかかる労力に関する具体的な記録は見あたらない。このため、林業試験場構内に猪土手を復元して、猪土手築造にかかる労力について推定した(図-6)。作業は、体力的かつ時間的制約から、小型の掘削用機械および運搬車も用いた。
天端延長約5m、高さ約1.5mの猪土手を1日で築造するためには、大人6人と機械2.5台(運転手も必要)を必要とした。延長100mの猪土手を築く場合、大人120人と機械50台が必要となる。猪土手の築造は、溝を造る切土量と土手を築く盛土量が同量で現地内処理できることがのぞましい。また、猪土手の設置箇所は、はね上げや盛土の労働強度が平坦地よりも軽減できる山腹斜面がのぞましい。
かつて猪土手を築造した時代は、今回使用した道具よりも粗末であった。岩盤や急傾斜地など多様で劣悪な地理的条件であっても猪土手を連続して築く必要があった。このように、非常に多大な労力を要して(要せざるを得なかった)築造された猪土手は、先人にとっては防衛手段の絶対的な存在であったと思われる。
復元した猪土手については、11月3日に開催された林業試験場一般公開(「高塚の森 紅葉まつり」)で公開し、猪土手や猪土手が造られた背景について説明した。猪土手の存在を知っている方は少なかった。かつては県内の各地に猪土手が築造されていたこと、今も猪土手を確認することができる場所があること、当時の野生動物による生活の脅威は大きかったこと、今も獣害は発生していることなど、等を説明し、理解していただいた。
3. おわりに
猪土手の存在は、かつて野生動物が人々の暮らしにとって大変な脅威であったことを物語っている。今日、野生動物による農作物への被害が問題となっているが、野生動物と人間の食を巡る問題は、決して新しい問題ではなく、従来から発生していたことを今回の活動で再認識した。猪土手という構造物を築造することによって野生動物と人間の生活空間を住み分ける方法は、今日の電気柵などに受け継がれている。榛名山東麓地域やみなかみ町南部地域のように延々と続く猪土手は、小さな集落単位ではなく広域な地域としての柵設置による獣害対策が有効であり、そのためには多大な労力や予算が必要であることをも示唆している。
猪土手は県内の広い地域に築造されたが、野生動物の生息数が一時的に減少し必要がなくなったことから放置され、殆どが消失しているのが現状である。一部に残存している猪土手についても、その多くは自然地形に還ろうとしているが、良好に残存している箇所については、先人の暮らしに欠かせなかった施設資料として貴重な遺産であると考えられる。長野県塩尻市では、市教育委員会やボランティア団体が猪土手位置図の作成・猪土手の一部を復元するなど、猪土手を郷土学習や環境教育などの材料として活用している。みなかみ町南部地域に残る猪土手は、塩尻市や榛名山東麓地域の猪土手よりも大規模に良好に残っている。猪土手を眺めていると、先人の苦労が偲ばれる。これらの猪土手は、今後、先人の生活関連遺産施設として保存され、郷土学習や環境教育の場として再活用されることを期待したい。 |