【自主論文】

第32回北海道自治研集会
第Ⅳ-②分科会 地域で教育を支える~教育行政・生涯学習・スポーツ・文化~

監視と自由をめぐる一考察
―― 住基ネットの利用拡大を契機にして

北海道本部/北海道地方自治研究所・研究員 正木 浩司

1. 動物的に管理・監視される人間

(1) 住基ネットと牛トレーサビリティ


<資料1> ウシは10ケタ ヒトは11ケタ
え・橋本勝

 資料1は、橋本勝による、住基ネットと牛トレーサビリティの類似性を描いた風刺画である。後掲の資料2のとおり、コンピュータ・ネットワークの技術を基盤に個体を管理する両制度の間には、全国データベースの作成、個体へのシステムの端末(ICタグ内蔵の耳標/住民基本台帳カード)の付与、個体識別ID(個体識別番号/住民票コード)のナンバリングなど、類似性が見られる。住基ネット本格稼働2003年、牛トレーサビリティ稼働同じく2003年。方や「行財政の効率化」と「便益の向上」、方や「BSE対策としての各個体の生産・移動情報の管理」と、それぞれの導入目的は異なるが、日本では2000年代初頭の同時期に、日本国民と日本国内の牛に同様の管理手法を実施したと言える。
 独立行政法人家畜改良センターのウェブサイトを見ると、「牛の個体識別情報検索サービス」のページ(注1)が開設されている。行政機関や家畜農家などアクセス権限を持つ者が所定の位置に「個体識別番号」を入力すると、当該番号を付された個体の「種別」、「雌雄の別」、「出生の年月日」、「出生または耳標の装着地」、「過去の飼養地」、「現在の飼養地」などが瞬時に検索され、画面上に表示される。個体識別番号はいわば各種個体情報にアクセスするための「鍵」としての役割を担っている。
 こうした検索サービスの運用状況を踏まえるならば、住基ネットもその運用のしかたによっては、これと同様の使い方をすることが可能である。実際、国の行政機関等ではすでに、指定情報処理機関(財団法人地方自治情報センター:LASDEC)から本人確認情報が一度でも提供された者については、住民票コードだけを手元に記録しておき、次回からはその住民票コードを提示して、他の本人確認情報をLASDECに書き込んでもらうという手続きをとっているとのことである(注2)。その場合、住民票コードは、国の言う「単なる住民票の記載番号」として他の情報と同価値に並列されるものではなく、市町村が日々最新情報への更新を強いられている他の本人確認情報と一体化しながら、システムへのアクセス権限を持つ人間が、ネットワーク上に流れる当該番号の本人確認情報を画面に引っ張り出すことを可能にする「鍵」として機能している。
 言うまでもなく、両システム稼働直前の2001年は、アメリカで9・11テロが起き、日本国内でBSEを発症した牛が初めて確認された年として記録されている。9・11テロは、先進諸国が「テロ対策」の名目で個人管理を急速に強める契機となった事件であり、これにより、街中への監視カメラの設置のほか、個人に対するIDカード携行の義務化の流れが急加速した。住基ネットも、議論経過や表向きの導入目的はどうあれ、こうした世界的な文脈と無関係ではない(注3)
 中沢新一(多摩美術大学教授、宗教学)は、9・11テロに見る「富んだ世界/貧しい世界」と、BSEに見る「人間/共食いを強いられる草食の牛」との対比から、テロとBSEはともに「今日の文明の同じ病根から生じた、類似した構造を持つ病理」であり、強者の一方的な暴力に晒された弱者の最後の手段であると指摘している(注4)。橋本勝の風刺画は、この指摘を公権力の視点から裏返しに表現したものと言える。

(2) 権力の前に丸裸にされる個人
 住基ネットもその本質を共有するところの、コンピュータ・ネットワークを基盤とする国民総背番号とは、動物の群れを対象とした個体の識別・管理手法を、群衆としての人間の管理にも適用したもの、と言える。
 問題は、どれだけの個人情報が住民票コードにリンクされ、どのような用途に用いられるか、ということである。言うまでもなく、リンク先の増加に比例して、番号の入力で引き出されてくる個人情報の種類も増加する。共通番号をキーとするデータマッチングで結ばれる個人の像は、それだけ具体的かつ詳細に可視化される。
 加えて厄介なのは、電子的個人認証等の技術が発達してきたことで、監視カメラやGPS等とも相俟って、個々人の日常生活の隅々にまで監視の目が入り込み、何を買ったか、何を食べたか、誰と会ったか、電車でどこからどこまで移動したかなど、これまで可視化されなかった部分、可視化する必要のない部分まで捕捉されうる(トレース可能である)ことである。
 現状を顧みれば、住基ネットは、第一次稼働(2002年8月)からすでに6年を経過し、メディアに取り上げられることもほとんどなくなり、世間の関心が低下する一方で、国や自治体等によるその利用が本格化しつつある。
 すでに法定の本人確認情報利用事務は、当初の93から約300まで増加し、このほか政令および都道府県条例に基づく利用事務(県税徴収事務への利用など)を含めれば、その数は600事務程度に上るといわれている。さらに市町村での住民票コードの利用は条例化が必ずしも義務づけられていないため、実態の捕捉は不可能である。
 また、例えば『日本経済新聞』(2008年5月31日)は一面トップで、この間の社会保障カードの導入論議について、住基カードに相乗りする方向で検討されていること、将来的な納税者番号への拡大利用がすでに検討されていることなどを報じた(資料3)。その一方で、住基ネットをモデルとした外国人台帳制度の新たな整備や、非正規労働者の支援を名目に個人の職歴を記録したICカード「ジョブカード」制度なども進められている。
 さらに、「現実の世界のコンピュータによる完全認識」を究極的な目標に掲げるユビキタス・コンピューティングは、認識対象となるあらゆるモノや空間へのナンバリングを前提としており、遅かれ早かれ個人IDの付番やIDカードの携行が議論の遡上に上ってくることが予想される。
 いずれにせよ、これらが全て住基ネットとの連動性をもったシステムとして具現化された場合、そうしたシステムでは、日常生活の些細な行動記録から、健康情報、診療情報、病歴、投薬記録、各種保険情報、年金記録、職歴、所得情報、納税額に至るまで、様々な個人情報がネットワーク上を流れ、国等によって一元管理されることになる。これらの情報の中には、情報倫理の立場から言って、センシティブ度が高いものも含まれる(注5)。そして、住民票コードによってデータマッチングされる個人情報の種類・量が増えるほど、「個々人が行政機関の前に丸裸にされるが如き状態になる」(住基ネット差止訴訟石川訴訟一審判決、2005年5月30日)のであり、それがいま急速に現実化しつつあると言える。
 このように、人間を牛のように扱う道具立ては、技術的にはすでに実現されている。要は運用の仕方次第であり、データベース化されている個人情報の持ち主が憲法で保障された人権を持ち、主権者であるという意識を捨てさえすれば、公権力は個人を瞬時に丸裸にできる。これに対する歯止めは、法律で規制を行うか、あとはシステム運用者の良心と倫理感頼みである。しかし、これは喩えれば、最高時速180kmの自動車を与えられて、法定速度の60kmを自らの良心に従って常に守れ、と言われているような状態である。後述するように、現行では法律の歯止めも決して厳格ではなく、実効性は疑わしいと言わざるを得ない。そして、牛におけるBSE対策のように、権力がリスク管理の観点で個人を管理・監視するような方向へ反転した状況を想像すると、率直に恐ろしさ感じる。

2. 住基ネット差止訴訟の分析

(1) 訴訟の意義と限界
 住基ネット差止訴訟には、こうした社会システムの進展に対する再考を求める意義もある。訴訟は全国でまだ一審、控訴審含め十数カ所で継続中であるが、2008年3月6日、最高裁が4つの事件について初の判断を示し、合憲判決が出された。
 一つの節目を迎え、これまでの住基ネット差止訴訟を振り返るとき、その意義を確認しつつも、悔やまれることがいくつかある。
 第一に、違憲審査基準が「利便性とプライバシー権の比較衡量」―それすらも十分に行われない判決が多かったが―に収斂してしまったことである。共通番号(住民票コード)の付番(個人の番号への還元)による人格権(氏名権)の侵害、個人の国家によって包括的に管理されない自由の侵害といった主張は、憲法13条に基づく個人の人格的自律性を侵害するとの趣旨で、違憲性を問う論点の一つとして提起はされたが、中心的な争点にはならなかった。
 第二に、人権(プライバシー権)の比較衡量の対象が利便性になったことである。全国弁護団事務局長の渡辺千古弁護士は「個の尊重も、生命身体にかかわる他者の権利と比較衡量されれば制限されることもあり得る。だが住基ネットでは『便利さ』と比べられている」と批判している(『朝日新聞』2007年4月28日朝刊「日本国憲法60年②安全に揺れる個の尊重」)。人権の比較衡量は本来的には他者の人権であるはずだが、住基ネット訴訟ではそれが利便性にすり替えられたうえ、しかも多くの判決で原告が敗訴しているということは、利便性が人権に優越していることを意味している。
 第三に、「差止」の意味が、上記の比較衡量のあり方に関係し、「システム全体の停止」から「個人単位のシステムからの離脱」に置き換えられたことである。
 大澤真幸(京都大学教授、社会学)は、「自由」をテーマとする東浩紀(東京工業大学特任教授、哲学)との対談で、自ら住基ネットには反対であるとしつつも、世間に見られる住基ネット反対論は失効すると指摘した。その理由は、「現実の権力が人間の動物性に照準しているのに、それを分析したり、批判する言説が人間性に準拠していることからくるすれ違い」としている。
 私見では、これら争点の矮小化によって、そもそも住基ネット自体がどのような本質を持ったものなのか、すなわち、権力が主権者たる個人を動物のように管理することがそもそも許されるのか、を問う視点が弱められたのではないかと考えている。

(2) 今後想定される3・6最高裁判決の影響
① 個人情報のプライバシー権性の基準の再設定
  最高裁判決では住基ネットの本人確認情報のプライバシー権性が否認されたが、その理由は「個人の内面に関わるような秘匿性の高い情報とはいえない」からである。その正否については異論もあるが、ここで注意が必要なのは、個人の内面、すなわち、思想・信条に関わらない限り、個人情報はプライバシー権性(要保護性、秘匿性)を持たないという基準が新たに提示されたのではないかということである。
  先述したように、住基ネットと連動した社会保障カードや納税者番号制度などが現実化した場合にネットワークでやりとりされることになる、健康情報、診療情報、病歴、所得、などの個人情報は、思想・信条に直接に関わるものではないが、センシティブ度の高いプライバシー情報であるとされている。今回の最高裁判決が基準となれば、それらの情報が不特定多数の目に晒されるようになっても、プライバシー侵害は問われない可能性がある。
② 無制限なデータマッチングの追認
  最高裁判決はまた、「データマッチングは本人確認情報の目的外利用に当たり、(中略)刑罰の対象となっていること」などを理由として、「原審がいうような具体的な危険が生じているとはいえない」と判断している。
  「個人情報の保護に関する法律」を基本法とする現行の個人情報保護法制の制定は、住基ネットの稼働条件として整備されたものである。つまり、住基ネットによる無制限な個人情報の集中管理に対する歯止めとなることが期待されている。しかし、このうち特に、「行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律」は、行政機関等が個人情報の「利用目的の変更」(第3条第3項)、「利用目的以外の利用」(第8条第2項)を行うことを許容しており、当事者の独断による変更が可能である。その意味で、脱法行為には刑罰があるというが、それが無制限なデータマッチングを規制する実効性を持つかどうかは極めて疑わしい。今後データマッチング可能な個人情報が拡大していくならば、このような規定が法文化されていることの危険性はさらに高まる。

3. 再定義が求められる「自由」

 高橋哲哉(東京大学教授・哲学)は、斎藤貴男(ジャーナリスト)との対談で、「新国家主義と新自由主義は、「犠牲」の論理でもつながっている」と発言している(注6)。新「自由」主義に立脚した、今般の「構造改革」や「小さな政府」論などを見てもわかるように、現代社会の「自由」の潮流は、一握りの権力者ないし「強者」が、その他圧倒的多数の弱者を「犠牲」にすることを許容する方向にあり、政治もそれを追認してきた。
 また、斎藤貴男によれば、構造改革とは、企業(特に多国籍企業)の論理である「選択と集中」の普遍化である。この「選択と集中」の考え方が、教育や医療・福祉といった企業的な採算性とは別の論理で動かされるべき部門にまで適用されてしまうと、今日の日本社会の有様を見てもわかるとおり、「採算がとれない」として切り捨てられる人たちを出現させる。具体的には、非エリート層、ワーキングプア、後期高齢者などがそれである。斎藤はその上で、彼ら切り捨てられた層による権力への反乱を防止し、この不平等な構造を維持するために監視社会化が進められていると結論づけている(注7)
 この斎藤による整理を、冒頭で引いた中沢新一の主張に引きつけて言えば、「富んだ世界/貧しい世界」や「人間/牛」のような不平等な構造が、日本社会の内部にも格差という形で拡大・普遍化されていることを意味している。したがって、差別された側からのリアクションが激烈な形で実行されることが懸念される。
 安易な関連づけは避けるべきだが、「高校入学までは順調だったが、その後は思うようにいかなかった」「自分の人生がいやになった」と、東京・秋葉原の歩行者天国で無差別殺傷事件(2008年5月)を起こした20代の若者は派遣労働者であり、いつ解雇されるかわからないという不安が事件の直接のきっかけとなったとの報道もある(『産経新聞』2008年6月15日)。監視を強めても、テロや犯罪の根本的解決にならないことはあらためて言うまでもない。
 格差の拡大と監視の強化が進む日本社会の現状から、2人の哲学者の思想が想起される。近代リベラリズムの祖とされるジョン・スチュアート・ミルは、主著『自由論』(1859年)において、個人の自由の限界を「他者危害の原則」によって画し、個人の自由が制限されるには、他者への危害があるか否かが計測されなければならない、とした。また、『正義論』(1971年)のジョン・ロールズが導き出した社会的公正としての正義の2原則は、「自由への平等な権利」と、「(社会に格差がある場合、)最も弱い立場の者の利益の最大化」を主旨としていた。細かな議論を抜きにすれば、彼らの言葉は現代社会を考える上で強く響くものがあると感じる。
 ミルやロールズの理論に立ち帰るならば、市民的自由の保障と社会的公正の両立には、自由を行使する個人の彼岸に、全く同じ程度に自由を保障されるべき他者が存在すること、これに常に配慮しなければならないということにあらためて導かれる。つまり、自由への権利は平等であり、一部の人間の自由が他者の自由の犠牲(抑圧)に成り立っているならば、それは社会的公正に反する。また、その平等とは、当然のことながら、全ての人々が平等に動物の如く管理・監視される社会を意味しない。監視社会の本質は、格差を維持し、人間を動物のように扱うことにあるからである。求められているのは、自由の暴走を他者への想像力によって救済しつつ、個人が動物的に管理される仕組みが広く行き渡ってしまった今日の社会の現実を受け止めながら、これに対抗しうる市民的自由の内実を新たに構想し鍛え上げていく努力ではないか。

以 上





1 独立行政法人家畜改良センター・牛の個体識別情報検索サービス
   https://www.id.nlbc.go.jp/top.html
2 大阪弁護士会シンポジウム「箕面市の決断から住基ネット問題を考える」(2007年5月26日)における黑田充(箕面市住民基本台帳ネットワークシステム検討専門員)の発言内容を参照した。
3 田島泰彦(上智大学教授、メディア法)の指摘による。『北海道自治研究』2003年8月号所収「住基ネットと監視社会」を参照した。
4 中沢新一著『緑の資本論』(集英社、2002年)所収「圧倒的な非対称―テロと狂牛病について」を参照した。なお、中沢によるBSEに対する考察は、クロード・レヴィ=ストロース「狂牛病の教訓―人類が抱える肉食という病理」(邦訳は『中央公論』2001年4月号所収)があるとしている。
5 『岩波応用倫理学講義③情報』所収の奥野満里子著「現代医療における情報問題」(130頁)を参照した。
6 高橋哲哉・斎藤貴男『平和と平等をあきらめない』252頁。
7 斎藤貴男「今日の監視社会化の本質を考える」(『北海道自治研究』2008年6月号所収)を参照した。

<資料1> ウシは10ケタ ヒトは11ケタ (え・橋本勝)

<資料2> 住基ネットと牛トレーサビリティの比較

<資料3> 『日本経済新聞』2008年5月31日(土)