【自主レポート】

第32回北海道自治研集会
第Ⅳ-④分科会 自治体から発信する平和・共生・連帯のメッセージ

青森空襲を風化させず、語り継いだ28年間
空襲展開催や次代への証言を発行し続ける

青森県/青森空襲を記録する会・会長 今村  修

1. はじめに

 青森市は、1945年7月28日夜半、B29爆撃機の空襲を受け、市街地の約90%を焼失し、北東北最大の被害を受けました。この青森空襲を風化させず、語り継ぎ、再び悲惨で残虐な戦争を繰り返させない目的で、青森空襲を記録する会をつくり、活動を始めてから28年を経過しました。
 小さな市民グループとして産声を上げ、会員と市民の賛助金で様々な活動を続けてきた結果、青森空襲については、青森空襲を記録する会に聞いてくださいと言われるようになり、市民権を得ることが出来るまでになりました。
 その活動の経過を振り返り、空襲体験者が高齢となり、体験を語り継ぐことが困難となりつつある中、青森空襲を風化させず、語り継ぐ活動を続けるために、何が必要か提起したいと思います。

2. 青森空襲を記録する会の発足

 平和憲法と地方自治法施行25周年にあたる1972年に、青森市(当時、革新市長会に所属していた、奈良岡末造市長)は地元新聞社「東奥日報」などの協力をえて、400ページもの「青森空襲の記録」(A5判)を発行するとともに、「青森空襲展」を開催した。
 しかし、青森市の取り組みは、この一回で終わってしまいました。そこで、「青森空襲の記録」の編集委員をされた故成田繁七氏(元小学校校長)、故淡谷悠蔵氏(元代議士、著述業)にお願いし、1980年7月28日に青森空襲を記録する会を発足させ、翌月の8月28日から、毎月一回の定例会を始めました。
 初代会長は故成田繁七氏、顧問が故淡谷悠蔵氏、事務局が今村修で、会員は9人で出発しました。
 二代目会長は、福島常作氏(元青森県立図書館副館長)で、現在は、三代目で、会員は40人です。

3. 次代への証言(空襲体験集)の発行

 1980年8月28日から始まった定例会は現在も続いていますが、最初の定例会で空襲体験集を発行すること、空襲に関する資料を集めて「空襲展」を開催することを決め、体験者の証言原稿と資料を集め始めました。
 青森市が発行した「青森空襲の記録」には、87人もの証言が記載されていましたが、空襲当時の人口は、疎開した人を除き約7万人と言われており、これらの人々から証言を得ようとの気持ちで証言原稿を集め、1981年7月28日に、43人の方々の協力を得て、「次代への証言(空襲体験集)第1号」(B4判、62ページ)を発行することが出来ました。この第1集には、アメリカから取り寄せた5枚の写真を載せたため、反響も大きく同時期に開催した青森空襲展で販売し、印刷費を捻出できました。
 以来、今日まで第17集にわたり証言集を発行し続けることができ、今年度中には第18集の発行を予定しています。

4. 写真集「青森大空襲の記録」の発行

 目で見ることのできる「次代への証言」として、1995年7月14日に、地元新聞社東奥日報の協力を得て、空襲による焼け跡やアメリカから入手した写真や資料を載せた、写真集「青森大空襲の記録」を1,500部限定で発行しました。反響は大きく、市内書店のベストセラーになりました。
 また、2002年7月28日には、新たにアメリカなどで見つかった写真を追加して、改訂版の写真集「青森大空襲の記録」を発行しました。
 青森空襲を目で見ることできる資料として、現在でも各方面で活用されています。

5. 青函連絡船戦災誌「白い航跡」の発行

 青森と函館を結ぶ青函連絡船は、海底トンネルの開通により、80年の歴史に幕を下ろしましたが、この歴史の中で、戦災と洞爺丸台風の悲劇は忘れることが出来ません。
 しかし、戦災の正確な記録は残されておらず、アメリカから写真と資料を入手したこともあり、当時の乗組員を訪ね歩き証言を頂き、1995年7月14日に青函連絡船戦災誌「白い航跡」を発行することが出来ました。
 青函連絡船戦災を語る証言集としては唯一のものであり、資料と写真のすごさには多くの方々から賞賛をいただき、現在でも全国から問い合わせがあります。調査と編集にあたったN君の努力には感謝申し上げます。

6. 青森空襲展の開催と資料の収集

 第1回の青森空襲展は、1981年7月28日に青森市の51番館で開催しました。展示写真の中心は、アメリカ大使館にお願いし取り寄せることが出来た5枚の写真でしたが、青森市が8年前に作成した焼け跡の写真パネルとともに展示し、市民の大きな反響を呼び起こしました。
 この「アメリカの5枚の写真」は、アメリカに多くの資料が眠っていることの証となり、アメリカの資料探しの始まりとなりました。
 第1回の青森空襲展開催に対する市民の反響は、マスコミの協力もあり大きく、以来、会の中心的活動となり、今日まで続いています。
 今年は、常設資料展示室がある青森市中央市民センターで、7月25日から28日まで開催されました。
 青森空襲展の開催など、私たちの活動がマスコミで報道されることにより、市民からの資料提供が増え、展示内容も充実してきました。

7. アメリカからの資料入手

 アメリカからの5枚の写真を入手したことにより、手探りでの資料収集が始まりました。
 この間、ワシントンの日本大使館勤務の女性が個人的に写真を探し出してくれたこともありましたが、在日アメリカ大使館も日本大使館も一回の対応で終わりました。
 その後、会員のN君が写真に付された番号を頼りに、アメリカ国立公文書館に問い合わせを行い、約15年間で100枚の写真を次々と見つけることが出来ました。
 しかし、これらの写真は、アメリカ国立公文書館が整理し名寄せを着けた分で、まだまだ未整理の写真が残っていると言われ、今後の課題として残っています。
 一方、米軍の戦闘記録も時効により公開され始め、青森空襲に関する資料をマイクロフイルムで購入しましたが、英文と軍事用語のため必要最低限の活用しか出来ておらず、全てを翻訳し資料として残す作業は今後に残されています。

8. 空襲ビデオの製作

 アメリカから入手した写真に、1945年9月25日、青森に上陸し行進する米兵を動画で撮影している米兵の姿が映っており、動画があることを知り、問い合わせを行った結果、残っていることが明らかになり、購入することを決めました。
 1987年2月に一フィート運動として市民にカンパを呼びかけたところ、1,228人から資金協力があり、アメリカからフィルムを購入し、地元のテレビ局の協力を得て同年7月にビデオを製作しました。
 試写会を行ったところ、500人が入る会場が満杯になりました。このビデオは、各学校などに配布され、貴重な資料として現在も活用されています。また、青森県立郷土館では、このビデオを要約し、来館者に放映しています。

9. 空襲の語り部活動

 次代への証言の発行、空襲展の開催などが続く中、小中学校で体験者による報告会の要請も増え、語り部活動やミニ空襲展の開催が始まりました。
 また、社会科教員の研修会や老人クラブ、労組などの各種会合での報告要請、さらには、常設資料展示室で来館者への説明などの要望もあり、会員が分担して行ってきましたが、会から語り部を積極的に派遣すると言うのではなく、要望や要請に応えるという状況で、今後に課題を残しています。小中学生を対象とする「紙芝居」や人形劇団などと連携した「上演」で語り継ぐなどの方法を模索することも必要と考えています。

10. 青森空襲常設資料展示室の設置

 資料を集め、語り継ぐ活動として、空襲展を開催する中で、常設の展示館が欲しいとの要望が強まり、青森市に「青森空襲展示館」の設置を要請してきました。
 その結果、1995年7月に、青森市は戦後50周年記念事業の一つとして、青森市中央市民センターに「青森空襲常設資料展示室」を開設しました。この開設にあたり、私どもが集めてきた写真や資料は青森市に寄付をし、常時、展示されることになりましたが、寄付の際の条件であった、解説員の配置や資料の収集は、予算不足を理由に実現していません。
 しかし、常設の資料展示室が出来たことは、大きな前進であり、私たちの活動の成果でもありますが、立地場所が戦災区域外にあることや展示室が狭いことなどから、現在も毎年、青森市戦災遺族会とともに、青森市に対して「青森空襲展示館」の設置を要請し続けています。

11. 青森空襲犠牲者名簿の作成

 青森空襲の犠牲者とそのお名前は、不完全なまま経過してきました。青森市が1975年8月5現在で把握していた犠牲者数は731人で、お名前が明らかな方は229人でした。また、(財)青森平和像管理財団の平和観音像に記載されている犠牲者名は、1980年5月現在で416人となっていました。
 その後、私たちの調査の結果、犠牲者数は1945年11月の第一復員省発表の1,018人が正確であり、お名前が明らかとなった方々は、559人となりました。
 しかし、戦災犠牲者の約半数は、いまだお名前が不明であり現在も情報提供を呼びかけています。

12. 空襲・戦災都市青森の碑及び青函連絡船戦災の碑の建立

 青森空襲から60年目の2005年青森市戦災者遺族会及び(財)青森平和像管理財団の三者で、青森戦災・空襲60周年事業実行委員会をつくり、空襲・戦災都市青森の碑及び青函連絡船戦災の碑の建立事業に取り組みました。
 青森市民や企業、団体に呼びかけて約600万円の資金を集め、2005年7月28日には青森市役所前に「空襲・戦災都市青森の碑」、2005年7月14日には係留されている青函連絡船八甲田丸の南側に、「青函連絡船戦災の碑」を建立することが出来ました。
 現在、青森市が戦災都市であることや、目の前の青森湾で青函連絡船が攻撃を受け、131人もの尊い命が奪われたことを語り継いでいます。

13. 戦災犠牲者追悼・平和祈念の集いの開催

 空襲・戦災都市青森の碑及び青函連絡船戦災の碑の建立以来、7月28日及び7月14日には、青森市民に呼びかけて、手作りの戦災犠牲者追悼・平和祈念の集いを開催し続けています。参加者は50人前後ですが定着しつつあり、空襲・戦災を風化させず、語り継ぐ活動として継続し続ける考えです。
 この外、青森空襲の跡をたどる集いを、毎年約40名前後の市民の参加を得て開催していますが、高齢者が多く小中学生が少ないことが課題となっています。

14. 今後の課題と問題点

 青森空襲を記録する会は、28年間の活動の結果、市民権を得る事が出来ましたが、空襲体験者が少なくなる中で、空襲を風化させず、いかに語り継ぐかが大きな課題となっています。
 そのためには、正確な資料を残し、その資料を見ながら空襲を語り継ぐことの出来る人を育てる意外にないと思います。
 かつて、青森空襲の日を7月27日と主張する人がいましたが、残された公文書や米軍資料から、間違いであることが明白となり、7月28日であったことに異論を唱える人はいなくなりました。
 このように、正確な資料とそれを裏付ける証拠を残し、その資料を見ながら語り継ぐことのできる人々を育てることが大きな課題となっています。

15. おわりに

 私たちが活動し続けた28年間の取り組みについて報告しましたが、この活動が戦争の悲惨さと残虐さを語り継ぎ、再び戦争への道に逆戻りすることへの警告となり、平和憲法の大切さを訴える一助になることを心から期待するものです。
 今後とも、平和の大切さを訴える活動として、継続し続ける決意ですので、皆さまのご支援をお願い致します。