【自主レポート】

第32回北海道自治研集会
第Ⅳ-④分科会 自治体から発信する平和・共生・連帯のメッセージ

沖縄は、二度三度捨てられた


石川県本部/石川県職員労働組合 中村 照夫

 地方自治を守る、これが私たち自治労の大目標です。なぜなら、中央集権国家は暴走するからです。それは、戦争であり、人権侵害であり、民主主義の否定となるからです。当然、地方自治などという概念も否定されるでしょう。だから、地方自治と平和、人権、環境、憲法は一体のものとして進めなければならないのです。
 そんな平和運動を職場に根付かせるために、「2007おきなわ 平和の旅」を企画しました。



世界遺産ナキジングスク今帰仁城


1. ウチナンチュウになったヤマトンチュウ

 この企画で最も印象的だったのは、沖縄に降り立った夜に聞いた、元琉球新報論説委員長の野里洋(金沢市出身)さんの話でした。野里さんは、沖縄の風土、自然、歴史などに関心を持ち、移り住んだほどの沖縄人(ウチナンチュウ)である。
 「沖縄県民は太平洋戦争末期、敗色濃厚な中で、本土防衛の最前線として日本軍とともに徹底交戦し、14万人あまりの死者を出した。捕虜になることを禁じられ、家族同士で殺し合うなど集団自決に追い込まれた者も多数おり、悲劇の島となった」と熱弁された。そしてそのことは私も知っていた。

2. 怒り、悲しみは深い

 野里さんは、学生時代から沖縄に関心を持ち、何度も沖縄を旅し沖縄に理解を示した。しかし、移り住みやがてどこからみても「ウチナンチュウ」と思っていた矢先、親しい友人から「大和人(ヤマトンチュウ)は沖縄を見捨てた、沖縄戦でも、施政権放棄でも、そして現在も」と真顔で詰め寄られた時、絶句したそうである。この話に私は衝撃を受けた。そんなに怒りは深いのか、悲しみは大きいのか、と。

3. ヤマトンチュウは沖縄を捨てた

 それだけ、沖縄の人々の「悲しみは深く、憤りはつきない」のだろう。親を戦争で失い、子供を自らの手で殺し、死ぬ道しか選べなかった悲劇の島、おきなわ。
 戦後、サンフランシスコ条約で日本政府は沖縄の施政権を放棄し、沖縄は「アメリカの一部」となった。「日本から切り離され、見放された」のである。もちろん地方自治なんてあるわけがない。これが「本土防衛のため戦った沖縄県民」に対する行為だろうか。これが二度目の切り捨てだ。
 その後、日本政府による沖縄への負担強要が何度続いたことでしょうか。日本にある米軍基地の75%を抱える沖縄。沖縄の悲しみ、怒りが頭から離れない。



魂魄の塔(沖縄の人々の手で作られた慰霊碑)


4. 沖縄の全国化

 そして今、アメリカの世界戦略にのっとった「米軍再編」は、沖縄の「負担軽減」の名のもと全国へ拡大されつつある。沖縄の全国化である。それらに反撃するたたかいが、岩国でも横須賀でも北海道でも、そして小松でも、沖縄と連帯しつつ取り組まれている。
 私も沖縄問題は理解しているつもりであった。しかし、この話を聞いた時から、「人の心は深く、真実は語られない」としみじみ思った。野里さんへの友人の真顔の問いかけは、信ずるが故の問いなのであろうか。

5. 県職労運動の飛躍をかけて

 私にとって、このような真実を知ることができたのは、県職労(石川県職員労働組合)が2007年秋に行った「おきなわ 平和の旅」に、実行委員会の立ち上げから企画に関わることができたからであり、現地を「旅」することができたおかげです。
 この事は、平和であるが故に、戦争の悲惨さや無意味さを知るための「旅」を企画できたのであり、自治体に労働組合があるからこそ実現できることだろう、と思う。平和なときこそ平和について語り合わなければならない。

6. 取り組みの若干の経過

(1) 職場の重い現実
 当初、壮年部(50歳以上で構成)で「沖縄の旅(仮称)」に取り組むことを確認しました。特に若い組合員の「平和教育」を目的に、現地へ行って実際に見て聞く体験は、必ずや今後の自治労運動にプラスになるという思いからでした。
 2007年2月から壮年部が中心となって実行委員を募りはじめ、青年部役員や女性部役員との「討論」をはじめました。しかし、いずれの場合も「重い」ものがありました。それは、青年部長の「過去に何回か沖縄を企画したが、参加者が集まらず断念」とか、女性部長の「何日も職場を空けるのが難しい」「平和活動のために実行委員を選出することは難しい」というものでした。それゆえ、若い組合員からの実行委員選出は困難を極めました。4月には、「お昼休みに組合書記局に詰めていますから、都合のいい女性部は参加を」と誘いましたがゼロでした。平和運動の「重さ」を実感した一週間でした。

(2) 方向転換
 壮年部内では、このままでは実行委員も選出できない、まして「おきなわの旅」が実現できないという危機感から、「参加者から募る」ことに方向転換し、個別オルグも併用しながら「参加者」を募り始めました。
 5月から6月にかけてようやく「参加者」を8人募り、その組合員に「実行委員になって共に企画しましょう」と呼びかけました。
 なお、専門部からの実行委員選出の取り組みと並行して、現業協役員、本部役員、金沢支部役員とも平和運動の構築をめぐる論議を重ね、企画への賛同と費用負担などで基本的な合意を得ました。

(3) 実行委員会を立ち上げ
 そして、7月19日にようやく第一回実行委員会を10人の実行委員で開催することができました。日程、名称「おきなわ 平和の旅」などの基本的事項について確認し、8月1日には新たな実行委員1人を加えて第二回実行委員会を開催し、3泊4日の日程が確認されました。参加者を募るニュースも、第1号(8月6日)第2号(8月16日)と発行し、8月22日には第3回実行委員会を本部選出の実行委員も加え開催しました。このなかで、実行委員会推薦の映画「みえない雲」(原発事故を題材としたもの)鑑賞会を企画することも確認しました。
 以降、9月4日第4回実行委員会、9月12日参加者用パンフレット送付、9月25日事前学習教材「癒しの島、おきなわ」(野里洋著)配布など出発準備を整え、参加者は最終的に13人となりました。
 この企画中の8月中旬、沖縄戦における集団自決問題で、来年の高校用教科書から、集団自決に日本軍の関与は認められないため、関係する記述は削除する旨のニュースが話題となり、これに抗議する「沖縄県民大会」が9月23日に開催されることを知りました。しかし、日程はすでに9月28日から10月1日に決定されており、残念な思いが残りました。
 ところが8月末、県民大会の日程が9月29日に変更になったことを知り、なんとか参加できないか第4回実行委員会で論議となりました。が、「できたら参加しよう」との確認にとどまりました。しかし、9月20日の結団式・学習会で、講師の桑原自治研センター室長から、「なんとしても参加しましょう」と呼びかけられ、それに押されて、当日の時間配分を工夫し参加することになったのです。

(4) クライマックス
 沖縄は、高い高い青空と真っ赤な太陽が迎えてくれました。まさに「熱烈歓迎」です。沖縄県職労や平和センターを表敬訪問し、そして、感動の野里氏講演。翌日は、魂魄の塔やひめゆりの塔、平和の礎、平和祈念資料館や南風原野戦病院跡地を見学したあと、いよいよ「ゆるすな 歴史教科書の歪曲を」集会への参加です。



県民大会の直前、インタビューを受ける県職労組合員


 集会がはじまる前は南国特有のスコールに見舞われましたが、それでも会場の暑さは尋常ではなかった。汗が滝のように流れるなか集会は開始された。
 会場の宜野湾市海浜公園は、1995年の米兵4人による「少女強姦事件」抗議を超える人々が結集した。老若男女、人、人、人……、旗、旗、旗……。数万人が入る会場は全県、そして全国から参加した人であふれ、周辺の通路、道路は、参加者と参加を乗せた車で埋まった。参加者を降ろせないバスの列、列、列……。
 「日本軍による自決の強要を教科書から削除するな」「検定意見を撤回させるぞ」の声が響く。そして、高校生による「おじぃ、おばぁの(集団自決の)話は嘘なのでしょうか」の叫び。「私たちは真実を求める、それがたとえ辛く悲しい現実であっても」と家族を自決で失い、自分だけが生き残った体験を語る人。
 沖縄が、そして11万人の参加者が「燃えた」暑い一日でした。このたたかいは、きっときっと政府・文科省を追い詰めるだろう。
 事実、紆余曲折はありながら、2008年の高校教科書には「集団自決と日本軍の関与」がはっきりと掲載されたことになったのです。自民党、文科省を追い詰めたのです。

(5) 軍備増強と負担増がつづく
 しかしいま、「米軍が沖縄に集中し、負担をかけていることを軽減したい」として始まった米軍再編は、沖縄の負担を軽減したのでしょうか。否である。
 市街地のど真ん中にある普天間基地は、ジュゴンが棲む辺野古に、V字滑走路を持つ新たな基地として機能強化して移転しようとしています。嘉手納基地の機能強化(PAC3の配備)も計り知れない。「負担軽減」はまったくの欺瞞と言わなければなりません。だから辺野古では、沿岸建設案を頓挫させた力で「建設完全撤回までたたかうぞ」と1,260日目(訪問当時)の座り込みを続けていた。
 「沖縄県民」の、「労働者」の、そして「漁民」の怒りが爆発していたのです。もういいかげんにしろ と。



辺野古沖に建設が予定されているV字滑走路


(6) 地方自治を守るたたかいが平和への道
 この歴史的な集会を実現できたものは、沖縄でもやはり「自治体に働く労働者」の奮闘であることを知りました。教育に携わる労働者も、マスコミに働く労働者も「平和への道」のために、参加者を募り、創意工夫して集会に参加していたのです。労働者の連帯と平和への願いがあれば、可能性は絶大です。
 今回、「基地の島」沖縄を訪れて、この歴史的な集会に参加・連帯でき、その一翼を担えたことを誇りに思います。「反戦・平和」の思いをさらに強くした瞬間でした。「戦争は、どのような理由があってもやってはいけない」「戦争で死ぬくらいなら戦争反対の運動に生きよう」と決意を新たにしました。ナンクルナイサ(なんとかなるさ)というおおらかな気持ちを持って。