【自主論文】

第32回北海道自治研集会
第Ⅳ-④分科会 自治体から発信する平和・共生・連帯のメッセージ

マイペンライな人々と飛んでいった車いす


北海道本部/島牧村職員組合 内村 美幸

1. プロローグ

 世界を旅すること。それは私にとって一番の趣味であり、ストレスを発散する貴重な場でもあります。
 私が始めて海外旅行へ行ったのは1996年、21歳の時でした。ちょうど香港が中国へ返還される前年ということもあり、以前から海外旅行に興味があった友人と一緒に韓国・香港を旅しました。日本を出発する前夜は「海の向こうにどんな世界が広がっているのだろう」と考えるだけで興奮し、一睡も出来なかったことを今でも覚えています。
 返還前の香港はとてもエネルギッシュで、見るもの、聞くもの、感じるもの、すべてにおいてカルチャーショックだらけで、今まで、なぜこんなに刺激的な世界を知らないで生きてきたのだろうと、改めて自分の世間の狭さを思い知らされました。
 その後は旅行会社のツアーを中心に数ヵ国を旅しましたが、ある1冊の本との出会いをきっかけに私の旅に対する想いも変わっていき、旅のスタイルもツアーから個人へ、そして先進国から途上国へと大きく変化していきました。
 旅好きな人であれば一度は耳にしたことのある「深夜特急」。いわゆるバックパッカーと呼ばれる自由旅行者のバイブル的な存在であり、私自身もご多分に漏れず夢中になって読んだ本の1冊です。著者の沢木耕太郎がインドのデリーからイギリスのロンドンまで乗り合いバスで旅をするという何とも無謀な旅の記録を綴った本です。しかしながら、行く先々で出会う人々との交流や旅先でのトラブル、そしてそれらを救ってくれる現地の人々の優しさなど、庶民が利用する乗り合いバスだからこそ見えてくるありのままの人間の姿。旅とは決して観光地を巡るだけのものではないと私に教えてくれた1冊でもあります。沢木耕太郎がちょうど26歳の時、今から30年以上も前の旅の記録です。

2. 何か役立ちたい……。

 当時の私は世界とのつながりというものにとても興味を持ち始め、単なる旅を楽しむだけではなく、何か自分に出来ることはないかと考えはじめました。かといって、語学が堪能なわけでもなく、これといって秀でた技能を持っているわけでもなく、自分に出来ることといったら本当に何もないなと諦めるほかありませんでした。
 そんな折、たまたま旅の雑誌に掲載されていた「日中文通クラブ」の記事が目に止まりました。
 その内容は、日本語を勉強したい中国の学生と文通しながら彼らの日本語学習のお手伝いをするというものでした。これなら私にも出来ると思い、すぐさま事務局へ連絡をとり、さっそく学生達と文通を始めました。しかしそれは、単に手紙のやりとりだけをすればいいというものではなく、私の役目は中国の学生が送ってきた日本語の手紙を添削するというものでした。
 幾度となく手紙のやりとりが続けられ、彼らにとってみれば私はささやかながらも日本語の先生という立場でしたが、学生達との文通を通して、中国人の生活習慣や考え方の違いなど、逆に彼らからたくさんのことを教わった、貴重な機会となりました。

3. 「飛んでけ 車いす」の会との出会い

 少しずつボランティアへの興味を持ち始めた時期。札幌市内では色々なボランティア団体が増えていく中で、たまたまどこかの待合室で手にしたチラシの中にこんな記事が載っていました。

「車いすを海外へ
 世界の発展途上国では医療設備の不備などにより、障がいを持った人々は日々の生活を続けていくことも困難な場合があります。一方、日本では車いすや医療器具などがあまりリサイクルされていません。そこで私たち「飛んでけ 車いす」の会では、日本で使われなくなった車いすなどを集めて、発展途上国の信頼できる病院や福祉団体に送っています。個人旅行者が手荷物として途上国に運ぶために、コストはあまりかかりません。日本国内で使われなくなった車いすの提供や、途上国に行かれる方で車いすを運んでくれる方を募っています。

 これはまさしく私のためにあるような活動。旅が好きで、しかも行き先は途上国、おまけに荷物もリュック1つだけ。さらには個人旅行者の手荷物として車いすを運ぶという発想は、とても効率的で、且つ自分のペースで、趣味のついでに出来てしまう。何と合理的な活動なのでしょうか。私は何のためらいもなく、会の事務局へ連絡を入れることにしました。

4. NPO法人「飛んでけ 車いす」の会とは?

 NPO法人「飛んでけ 車いす」の会は、1998年5月に発足した市民団体で、日本で使われなくなった車いすを集め、修理をし、海外旅行をする旅行者の手荷物として、発展途上国の病院や施設に直接送り届ける活動を行っています。日本では車いすはあまり再利用されていませんが、発展途上国では戦争や内戦などによって、福祉政策が十分に進められておらず、障がいを持った人が車いすを持ち、社会に進出していく基盤が整えられていません。
 そこで、旅行者が直接使用者などに車いすを手渡すことにより、人と人との交流を築き、世界中で起こっている様々な現状やその国の福祉事情も知ることができるため「顔の見える国際交流」として大きな役割を果たしています。
 発展途上国では、本当に車いすを必要としている人がたくさんいます。車いすがないために小学生なのにベビーカーに乗せられている子ども、10年以上寝たきりで外に出たことのない子ども、少女なのに大人用の松葉杖しか与えられていない子ども……途上国では、貧困がとても問題であり、さらに障がいを持つということは自立できないことを意味しています。車いすのおかげで、物乞いをやめ、学校に通い、手に職を持った子どももいます。
 車いすは、整備も含めて本当にたくさんのボランティアの手から手へと渡り、みんなの小さな親切がやがて大きな力となり、たくさんの人々の「思い」とともに65ヵ国、1,600台が今までに運ばれています。

5. 車いすはこうやって運ばれます~運び屋初体験インド編~

 1999年1月、インド旅行の機会に初めて車いすを運んでみることにしました。会の人からの連絡では、新千歳空港で車いすを引渡すとのことで、正午に車いす配送担当の札幌通運の方と待ち合わせをしていましたが、何か行き違いがあったのか20分経過しても車いすらしきものを持ってくる人は現れません……。徐々に不安になり始めたその時に、「インド行き内村様」と書かれたダンボールと車いすが登場。ほっと一安心もつかの間、車いすを預けようと手荷物お預けカウンターで手続きをするも「いったい誰が車いすを使うんですか?」と係員に質問され、「今日車いすを使う人なんていません。私はこれをインドに運ぶんです」そのようなやりとりが続き、係員も不思議そうな表情をしていましたが、なんとか車いすを預かってもらうことができました。
 乗り換えの羽田空港では、私の鞄と車いすが一緒に出てくるものと思いターンテーブルの前でひたすら荷物を待っていましたが、いっこうに車いすが出てきません。そんな時、ふと到着出口付近を見てみると私の預けた車いすが。車いすは大切な手荷物として扱われ、鞄よりも先に空港へと到着していたようです。
 その後、インド行きは翌日ということもあり、都内の宿泊先へ移動することになりますが、ここからも車いすの大変さを痛感することに。空港や電車の駅ではエレベーターが完備され、とくに苦労することはありませんでしたが、小さい地下鉄の駅の場合エレベーターなどありません。仕方がないので私は15kgほどある車いすを抱きかかえながら階段を上り、地上へと出ましたが、実際に車いすを利用されている方であれば本当に不便だろうなと感じました。
 翌日は9時間のフライトを終え、インドの首都であるデリーに到着。車いすを押したまま空港の外に出てみると、「UCHIMURA」と大きく書かれた紙を掲げるNCPLDPの職員が出迎えてくれました。
 北海道から遥か遠く第2の人生を送ることになった車いすは、こうして無事に職員の方へ手渡され、市内の施設へと運ばれていきました。その後、車が見えなくなるまでずっと見送っていた私。心の中で車いすにガンバレ と、エールを送ってみたりもして。
 このように運び屋初体験は、無事に任務を終えることができました。

6. 手から手へ。笑顔と笑顔。~2台目フィリピン編

 2000年2月、友人と一緒にフィリピンの首都マニラを旅することにしました。
 出発日が決まったので、さっそく「飛んでけ 車いす」の会へ日程を連絡。今回は2人で旅をするということもあり、どうせ運ぶなら1人よりも2人、1台よりも2台ということで、友人にも協力を得ながらフィリピンの施設へ2台運ぶことにしました。
 今回はマニラから車で約1時間、ケソン市にあるKAMPIという障がい者施設へ子ども用の車いすを届ける役割でした。空港へ到着後、現地のスタッフと合流し、さっそく車いすとともに施設へ向かいました。そこでは実際に車いすを利用する子ども達とそのお母さんが私達の到着を心待ちにしていた様子で、強い日差しが照りつける中、わざわざ外に出て出迎えをしてくれていました。
 私達はすぐに持参した車いす2台を渡し、施設のスタッフの手を借りながら新しい車いすに子ども達を乗せてあげると、2人とも飛び切りの笑顔を見せ、その横で様子を見ていたお母さん達の目にも涙が溢れ、何度も何度も私達にお礼の言葉を繰り返していました。
 確かに子ども用の車いすとは言え10kg以上の重さがあり、フィリピンの酷暑の中でそれを運ぶのは容易なことではありません。しかし、子ども達の満面の笑顔を目の前にした時、一瞬にしてその苦労が報われ、車いすを運び終えた達成感と喜びで、いつの間にか私達の表情にも自然に笑顔が浮かんでいました。
 その後は、施設の子ども達から歌や踊りで盛大なもてなしを受け、楽しい時間を一緒に過ごしました。
 車いすを運び終えてみて、改めて「顔の見える交流」の素晴らしさと、手から手へ直接届けることの必要性を実感させられました。

7. どんなときにもマイペンライ~3台目ラオス編

 タイの人々が良く使う言葉の一つに「マイペンライ」という言葉があります。
 大丈夫、問題ない、気にしない、何とかなるさ、心配ないなど、複数の意味合いを持つ言葉で、おおらかなタイ人の性格を象徴する言葉であるとも言われています。
 時に便利で、時に曖昧な意味を持つこの言葉は、タイを旅していると色々な場面で遭遇することがあります。
 2001年の年末、タイから陸路を利用してラオスへ行くことにしました。
 今回は首都のビエンチャンにあるDPAという施設に車いすを届けます。運び屋体験も今回で3度目。だいぶ要領も掴んできました。
 タイのドンムアン空港に到着し、まずはバスでバンコク市内まで向かうことにしました。
 いつもであれば現地スタッフが空港まで迎えにきていますが、今回はすべて自力で車いすを運ばなければなりません。なんとか宿泊先に到着し、その日はバンコク市内に1泊。翌日は寝台列車でラオスとの国境の街ノンカーイへ向かおうと駅で切符の購入を試みますが、その日はあいにく12月30日。お正月の帰省ラッシュはタイにおいても例外ではなく、寝台列車を始め、地方に向かう列車はすべて満席状態でした。仕方がないので列車での移動は諦めることにして、別の方法がないものか調べてもらうため駅構内にある旅行会社へ向かいました。
 旅行会社の人が言うには、「鉄道がダメなら、バスがある。今日の夜バンコクを出たら、翌朝には国境を越えてビエンチャンに着いているよ。」とのこと。乗り継ぎもなしでダイレクトにラオスへ行けるなんてこれに越したことはない。すぐにそのツーリストバスを予約することにしました。
 バスの出発時刻は夜7時。バンコク北側にある長距離バスターミナルから出発するとのことで、そこまでは旅行会社の車で送るという説明でした。夕方5時までに旅行会社のオフィスへ集合ということになったので、私は車いすとリュック1つ荷物がある旨その人へ話し、時間までバンコクの街をブラブラすることにしました。
 その後、約束の時間となり、集合場所へ行ってみると既に運転手が迎えにきていました。旅行会社の人に案内され、運転手と一緒に外に出てみると、そこには1台のバイクが停まっているだけ……。(あれ?)
 「私、荷物2つあること言いましたよね?」しかし返ってきた言葉は「マイペンライ(問題ない)。」
 今度は運転手に尋ねてみます。「どうやってこの荷物を運ぶのか?」しかしこちらも「マイペンライ(問題ない)。」まったくもってマイペンライな話ではないのです。しばらくそんなやりとりが続きましたが、結局はバイクでバスターミナルへ向かうことに。問題の荷物はと言えば、リュックはバイク前方にある給油タンクの上に乗せ、運転手が両手で挟みこむような形、そして車いすは、バイクの後ろに乗る私が片手で持ち、空いたほうの手でドライバーの腰に掴まるという何とも恐ろしいスタイル。しかもバンコク市内は世界的にも有名な大渋滞の街。そんな中、私を乗せたバイクは何のおかまいもなしに猛スピードで車と車の間をすり抜けていきます。正に生きた心地がしないと言うのはこのことを言うのでしょう。
 バイクは運転手の言葉どおり、とりあえず無事にバスターミナルに到着しましたが、帰省する人々でごった返すターミナルの中はほぼすし詰め状態。人とすれ違うのもやっとという状況の中で、私は車いすを押し、乗り場まで移動しなければなりません。何度も自分の手から車いすが離れ紛失しそうになりましたが、予約していたバスへとたどり着き、無事に車いすをトランクに積み込むことができました。
 大混雑するバスターミナルを後にし、出発予定時刻から3時間遅れでバスは動き出しましたが、10分も経たないうちに今度は帰省の大渋滞に巻き込まれます。
 結局タイを抜けてラオスのビエンチャンに到着したのは翌日の午後3時過ぎ。もうくたくたです。このままここに車いすを放置していこうか……そんなことも頭に浮かんできました。
 しかし、この車いすを必要としている人が待ってくれていると思えば、そんなことが出来るはずもなく、すぐにタクシーを捕まえ、メモに書かれてある住所へと急ぎました。
 迷いながらもなんとかその住所へ到着。建物の中に入り、車いすを届けてみましたが何故か反応が今一つ……。それもそのはずです。数ヶ月前にDPAの施設は移転し、現在この建物は義足のリハビリ施設として使用されているとのことでした。
 せっかくここまで来たのに……。一気に振り出しに戻ってしまいました。
 しかし、こんな時こそ「マイペンライ(大丈夫)。」リハビリ施設で働く人々の協力などもあり、なんとかDPAの事務所に連絡を取ることができました。そして、事の成り行きを心配そうに眺めていたタクシーの運転手も「その場所まで案内するよ」と言ってくれ、色々な人々の助けを借りながら今回も無事に車いすを届けることができました。
 帰国後、この出来事を会の事務局長である吉田さんに報告してみました。すると吉田さんからは、「それは大変でしたね~」と笑顔でたった一言。どうやら「マイペンライ」な人はここにもいたようです。

8. この活動を通じて

 この活動は、海外旅行のついでに車いすを持っていってもらうという、言わば「エコロジーでエコノミーなボランティア」なのです。
 この事業を始めた吉田さんは、「ボランティアの北大生が手荷物で車いすを海外に運んでいる。」という言葉をきっかけに思いついたアイデアで、例えば、普通に船便で車いすを送ろうとすれば、コンテナ1台50万円という途方もないお金が必要になりますが、手荷物の範囲であればなんとかお金をかけずに運ぶことができます。
 このようにして始めた活動が今年で10年を向かえ、これからも車いすは必要とする人の元へと世界各国飛び続けることでしょう。
 いまや、CSR(企業の社会的責任)といった企業が社会に貢献するという理念は大企業には少しずつ浸透してきてはいますが、この活動の企業協働パートナーとして、札幌通運(株)さんが、これらの協力を通常業務の一環として無償で引き受けてくださっています。(「飛んでけ 車いす」と札通の協働事業は、2002年6月、「第1回パートナーシップ大賞」に選ばれました。「パートナーシップ大賞」とはNPOと企業が協働を通じて、社会にインパクトを与える特色ある事業を表彰するものです。)もともとは札幌通運の一組合員の方による活動でしたが、労働組合や、そして企業を巻き込んだ取り組みにするには相当の苦労と努力があったと思います。その仕組みと理念がきちんと組み立てられていれば、限られたヒト・モノ・カネ・情報を最大限に活用することができ、目的を効果的に達成することができるのだと感じました。

9. 世界の働く女性と労働運動を考える

 世界で1日1ドル以下で生活する12億人の多くは、女性だそうです。国際労働機関(ILO)によると、女性は世界の財産の1%を所有し、その一方で、世界の労働時間の2/3の時間を働いているにもかかわらず、世界の収入のたった1/10しか収入を得ていません。したがって、女性は、自らとその子どもたちにとって弱い立場にいます。
 バングラディッシュも貧困に苦しむ国の一つです。バングラディッシュの障がいを持つ女性は二重の差別を受けているといわれています。「女性としての差別」と「障がい者としての差別」。私が尊敬する人の一人に、ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスさんがいます。彼はマイクロクレジットという、失業者や十分な資金のない起業家、または貧困のために融資を受けることのできない人々を対象とする非常に小額の融資サービスの創始者です。世界中でマイクロクレジットを実施する多くの団体では女性が主な対象となっています。これは、女性への貸し付けは男性への貸し付けよりも家族全体に恩恵をもたらすことが多く、また女性に小額貸付の管理をさせ、責任を持たせると社会経済上の地位が向上するという考え方に基づいています。そして、女性は世界の子ども達を育てる責任があることが多く、女性の貧困は子ども達の肉体的および社会的発達が遅れることにつながるとされています。
 私達日本人が一般的に豊かであることは、途上国で貧困に苦しむ人達とは無縁ではありません。「私達が100円ショップであらゆる雑貨を買えるのはなぜか?」その背景にはコストを抑えるために、工場からの排水を垂れ流しにしているのかもしれません。または、学校に行かずに工場で働かされている子どもがいるのかもしれません。あるいは、森林伐採により住む場所を失った民族が紛争に巻き込まれ、絶滅してしまったのかもしれません。これは推測ではなく事実です。途上国を旅していて、私が今一番懸念していることは、こういう貧困に苦しむ層の人たちの存在を認めようとしない雰囲気が漂い始めていることです。
 マザー・テレサの言葉に「愛の反対は憎しみではなく、無関心」という言葉がありますが、子どもたちが兵士となって戦場に行かされている、地雷の埋まった土地を歩かされているという事実に無関心でいるということは、その戦争に加担しているのも同じことなのではないでしょうか。
 私が様々な活動を通して日々感じることは、問題意識を持って考え行動することの重要性だと思います。その事実を知ったときに、果たして自分には何が出来るのか、何をしてあげれば良いのか、なぜこんなことになったのか。世界中で起こる出来事も、自分の地域で起こる出来事もそれは同じであると思います。
 まずは自分に出来ることから、出来る時に取り組んでみる。それが「無関心」から「関心」へと変わっていく第一歩であると考えます。
 また、労働組合を考える時にもそれは同様であり、単組だけ、自治労だけ、日本だけという単位ではなく、世界全体の幸せとは何かということを考えなければなりません。
 確かに「自分だけがよければいい」という考え方は少なからず私の中にもありますが、とくに今の労働組合の中では残念なことによく見られる光景です。組合員だけの利益を考えることだけが労働運動なのでしょうか? 私の考える組合運動とは、隣の人の働き方を考える、そして隣の、そのまた隣の国で働く人のことを考えることだと提案します。