【要請レポート】

第32回北海道自治研集会
第Ⅳ-④分科会 自治体から発信する平和・共生・連帯のメッセージ

草の根の協力隊活動から学んだこと


長野県本部/飯田市職員労働組合 小林美智子

1. はじめに

 JICA(独立行政法人 国際協力機構)の事業である青年海外協力隊に、1997年から2年間、保育士として参加した。
 青年海外協力隊事業は、開発途上国において自分達が持つ技術や経験を通して、現地の人々と共にその国づくりを支援する事業である。派遣された国の人々と一緒に生活し、働き、彼らの言葉を話し、相互理解を図りながら、協力活動を行う。まさに、草の根レベルの「人が人に届くボランティア」をめざしている。この事業は、1965年に開始されてから今年で43年目を迎えるが、途上国の為のみならず、異文化生活を通して、日本の青年を育てる人材育成の側面も持つことが大きな特徴である。
 この協力隊事業に関心を持っていた私は、保育士としての経験をある程度積んだ後、協力隊に参加したい旨を上司に相談した。そして、関係者の方々により、退職せずに参加できるようにしてもらった。協力隊経験を直接活かす場がない帰国隊員も多くいるが、このように措置してもらったことを、今でも有り難く思っている。
 帰国後は、保育園へ職場復帰した後、エコツーリズム事業と定住促進事業に携わっている。「現地の人と共に」行う協力隊経験が、地域に係わる今の仕事にどのような視点をもたらしたのか、振り返ってみたい。

2. 派遣国での活動

(1) ニカラグアの概要
 派遣国のニカラグア共和国は、中米のホンジュラスとコスタリカの間に位置し、太平洋とカリブ海に面している。人口約480万人、九州と北海道を足した程の面積を持つ。熱帯雨林気候で、雨季と乾季があり、日本の夏より暑い。主な産業は、バナナやとうもろこし、タバコなどの農業で、1人あたりのGNPは、460ドル(当時)。公用語は、スペイン語。大きな地震と1990年まで続いた約10年にわたる内戦のため、中米一、貧しい国と言われていた。街や人の心の中に、戦争の傷跡がまだ残っていたし、地雷が埋まっている地域もあった。
 首都には高層ビルはなく、ストリートチルドレンがたくさんいた。彼らは、黒く汚れた素足にボロボロの服を着て、車がひっきりなしに通る危険な道路の中に立ち、物を売り、また物乞いをしていた。

(2) 島の暮らし
 2年間暮らした場所は、琵琶湖の約11倍の面積を持つニカラグア湖の中に浮かぶ大きな島。首都からバスで3時間、沈みそうな程揺れる木の船に乗りかえて1時間の場所にある、緑で覆われた美しい島だった。
 バナナ畑やジャングルの中に村が点在し、椰子の葉を葺いた屋根やトタン屋根の簡素な家が建つ。村を結ぶのは、シートも内装も破れ錆びて、途中でパンクするボロボロのバスだ。舗装していない道なので、バスが通ると視界0(ゼロ)の砂埃の中に佇むことになる。
 この島へはJICAとして初派遣、日本人も初めてだった。島の人は、日本が何処にあるのかを知らなかったが、「日本人は働き者でお金持ち、頭も良い」という印象だけは持っていた。
 また、島にはクーラーも掃除機も洗濯機もない。庭の貯め水か、湖で洗濯をする。忙しい時や疲れた時は、電化製品が恋しかったが、スイッチ一つでOKという便利な生活にはない、実体験の多い生活が楽しかった。ただ、常に襲いかかる無数の蚊と、「噛みつきアリ」には閉口し、お風呂に入る生活が恋しかった。

(3) 島での任務
 私の任務は、ニカラグアの家族省が食料を提供している8ヶ所の村の給食所で働くことだった。お昼になると集まってくる母親や子ども達を対象に、「衛生、栄養、遊び、発達、健康などについて指導する」というものだ。給食所と言っても、土の上に丸太棒が立ち、トタン屋根が載っているだけの壁も机もない場所である。
 しかし、一緒に働くはずの現地の人が、組織の事情でいなくなっており、食料も届いておらず、状況は大きく変わっていた。社会的体制が安定していない途上国では、よくあることだ。言葉や環境がわからない中、自分の置かれている状況を把握するのにも時間がかかったが、結局、1人で活動を始めることになった。他の隊員には、朝出かける職場があり、相談できる職場のパートナーがいて、羨ましく思った。
 村へ入ると、最初は見知らぬ中国人が来たと好奇の目でみられ、「チニータ(中国人)」と声が飛んできた。家の陰から覗かれたり、ジーッと見られているのがよくわかったし、時には、石やバナナの皮もとんできた。
 各村では、自分が危険な人物ではないことを伝えるため、道端で遊んでいる子ども達を誘って遊び始めた。スペイン語は、まるで話せなかったが、言葉はなくても子ども達とは一緒に遊べた。また、日本から持っていった3冊の絵本も、初めての村でコミュニケーションをとるのに役立った。訳して読み聞かせをしたが、絵本は今まで見たことのない子どもや大人達だった。
 更に、日常生活の中にあるロープや石、木の棒などを使った新しい遊びを教えた。遊び場は、牛馬の糞がたくさん落ちている村の中の道。子ども達と一緒に裸足になって走り回り、お腹がすけば道端のマンゴー、グァバ、オレンジをもぎ取って食べる生活。こども達はとにかく逞しく、人懐こく、明るかった。何度も訪問するうちに、子ども達や親が待っていてくれるようになった。
 現地の人と同じ物を食べ、同じ暮らし方をし、なんとかコミュニケーションを交わすうち、村の人も安心してきて、だんだんと相談できる人や協力者が出てきた。こうして、やっと活動が始まっていった。

(4) 島での活動
 「何が必要とされているのだろう」といつも村を歩きながら考えた。
 ある日、黒い液体を飲む赤ちゃんに出会った。「これは何?」と尋ねると、コカコーラだった。「コーラはビタミンが豊富だから、値段が高いけれど飲ませている。」と言う。甘いコーラに慣れてしまうと、赤ちゃんは母乳を飲まなくなり、結局栄養不足になる。初歩的な栄養の知識を持っている人がいない。そこで各村の給食所へ行き、協力者と一緒に栄養、健康、発達についての講習会を開いた。言葉が足りない所は、絵や道具でカバーしたり、何度も私の説明を聞いている協力者が補足してくれた。何もなかった給食所にだんだん人が集まるようになってきて、協力者や村の人達と一緒に仕事をするようになった。

(5) 気持ちはどこでも同じ
 小中学校の先生を対象に、教材づくりの講習会も度々頼まれるようになった。
 ある時、学校へ向かうためバスに乗り、たくさんの教材をバスの乗務員に預けた。教材の中のコピー資料は、治安が悪い中、首都から緊張しながら何回にも分けて運んだものだ。この日のためにずっと前から用意していた物なのに、バスから降りる時、荷物は全部なくなっていた。どこかの停留所で誰かが持って行ったようだ。紙すら簡単に手に入らない生活では、日本人の持ち物は宝物のようなものだ。この島の生活に慣れてきて油断した。
 停留所で待っていてくれた校長先生に「やあ、元気だったかい?」と、声をかけられた途端、思わず涙が出てきた。先生達が集まってきて、「ミチコは、一生懸命作ったものが盗まれて、悲しくて泣いているんだよ。」と周りの人に説明する先生もいて、人の気持ちはどこでも同じだと思った。すっかり気落ちして戻りたかったが、「説明する物がないから、黒板を貸して欲しい。」と言うと、「黒板は無いから、この壁を使っていいよ。」と言われ、レンガの壁にチョークで書き、身振り手振りで説明をしてきた。完全な状況でなくてもやってみること、あるものを工夫すればできると感じた時もあった。

(6) 知らなかった幸せ
 島には電気や水道のない村も多い。日が暮れると、湖に浮かぶ小船の縁に大きな蛍がとまり、ネオンのようにきれいだ。真っ暗な闇では、満天の星空になる。ロウソクの灯りを囲んで、家族や近所の人と一緒に語り、笑った。私はこの時間が大好きだった。そして、世の中にはこんな幸せがあるのだと初めて知った。
 ニカラグアは、社会資本も整わず保険や年金制度もない。彼らは、未来の不安に向かって生きるのではなく、いつも「今」を生きていた。家族や近所の絆が強く、屈託のない笑顔で、分かち合い、逞しく、心豊かに暮らしていた。幸せは自分の心が決めるものだと、つくづく思った。

(7) 違う価値観
 ニカラグアで生活を始めて思ったことは、日本での考え方や均一的な価値観が通用しないということだ。
 貧富の差が激しい社会では、様々なモラルや人が混在し、生活にも違いがあり、その違いを受け入れざるを得ない。違っていて当たり前。人と違っていても自信をもって自分の考えを主張し、「違い」としてそのまま受け止める。そして、自分を見失うことなく屈託なく生きている。一方、日本社会では、違いがあると肩身の狭い思いをしたり、自信をなくすこともある。
 更に、時間や約束を守る、勤勉である、仕事が速く正確である、効率的で成果があるなど、日本では良しとされることが、文化や価値観が違うと同じ評価にはならず、日本の常識が通じない。
 だめなことも、視方を変えると良いことにすらなる。自分の中で創り上げてしまう限界、自他への評価、悩みは、視野を広げた時に違う視方ができたり、小さなことだと気づいたりもする。
 行き詰った時には見方を変えるため、日本の常識を一度手放してみることが必要だと感じた。日本の概念を手放す作業は、現地での生活に適応し、活動を進めていく上で必要なことだった。

(8) 保育や社会への疑問
 日本の保育現場では、保育士が危機感を募らせる中、年々問題を抱える子ども達が増えている。
 一方、ニカラグアの子ども達は外でよく遊び、水汲みや湖での洗濯、家畜の世話など生活の中に子どもの役割がある。4歳くらいの子どもでも、鞍のない馬や牛に上手に乗ってお使いに出かけ、裸足で藪の道でも平気で歩いた。こうした日常生活の中では、「怪我や失敗」といつも隣り合わせだったが、大人が用意した安全で意図的な環境を超えた「本物の体験」をいつも持っていた。それが、子ども達の逞しさや豊かさ、自立や自律を育てていた。
 また、雨季の半年間は、毎日土砂降りの雨がトタン屋根に落ちる。叩かれているドラム缶の中にいるようなものだが、それでも赤ちゃんはスヤスヤと眠る。静かで清潔な環境はなく、子ども達が環境に合わせて生きている。常に快適で、転ばぬ先の杖がある日本とは違い、生活体験の豊富なニカラグアの子ども達は、実に伸び伸びとした表情をしていた。
 日本の子ども達が近年弱めている力、人間関係構築能力や自己コントロール能力、環境に左右されない逞しさや自律性を、ニカラグアの子ども達は、大家族の中で生活の中で、十分培っていた。そして、お年寄りや障害者が坂道に来た時は、抱き上げて坂の上まで運ぶような人間になっている。
 文明の発達と裏腹に、人間が本来持っている身体と心の力は衰退している。「日本の社会環境や保育環境は、人間に内在する力を発揮させているのだろうか?」という疑問が強くなった。

3. 帰国して

(1) 現場からのエコツーリズム
 懐かしい日本に2年ぶりに戻ってきて驚いたのは、日本人のつまらなそうな表情、社会の変化の速さ、物が溢れ出ている日常、そして、幸福度の低い暮らしだった。日本にいた時は、気づかなかった。
 異文化の中で、「私は日本人」と初めて意識したが、それは同時に、日本の魅力を再発見し、失われつつある日本らしさを大切にしたいと感じることになった。農村にまだ残っている暮らしの知恵や、人や自然との関係性の中に、「不幸せな日本」に対する新しいヒントがあるのではないかと思った。
 保育園から観光課へ異動となり、エコツーリズム推進事業を担当した。豊かさを問い直し、農村の価値を、そこに住む人や訪問者が再確認し、経済を融合させていくツーリズム事業である。「主役は住民、自ら動き楽しみながら、地元を誇りに」を合言葉にした事業だった。
 外部者が描いたシナリオの上を住民が歩くのではなく、紆余曲折を経ながらのプロセスを住民自らが創りだすことを支援した。プロセスを共有し協働していくことで、住民自身の動く力が少しずつ生まれることを草の根の協力隊活動で感じた。
 そして、ニカラグアで村人に受け入れてもらうまでの試行錯誤は、現場で人間関係を築く力を育てたし、目の前にいる人から考えていく視点が培われた。それは、関係者のコーディネートを求められた業務の中で役立った。
 更に、外部者の在り方について考えるようになった。地域には個性がある。種が同じでも、土が違えば育ち方が変わるように、同じルールを当てはめることはできない。その地域らしさを壊さない支援を、現場で考えていくことが必要だと感じるようになった。
 これらの視点は、行政という立場での現場主義に役立った。

(2) 農村の魅力 ~関係性と多様性、そして可能性~
 現在は、世代を超えた人の循環を創るため、若い世代を主な対象にした定住促進事業を行っている。
 企業へ就職する方の他にも、環境や食料問題に疑問を感じて、「自分でできることから始めよう。」と農業や林業に従事する方、「子育てするなら、自然の中で。」と希望する方々も多い。UIターン希望者は皆それぞれの夢を持ってくるが、緑や土が身近にある暮らし、自分らしいライフスタイルなどを求めて定住する。
 特に農村地域を希望する方々は、農村が持つ力「農村力」を求めて来ている。楽しみ方や生活の質を変え、「いつも何かが満たされない生活」から、「足るを知る暮らし」にシフトし、自分らしい豊かさを味わっている。こうした彼らの小さな意識や行動が、各地に散らばる多くの共感者と繋がっており、それが結果的には「静かなる改革」として、次の理解者を呼ぶことにつながっている。
 農村には、競争市場主義の経済システム、物質的な豊かさ、画一的な価値観以外の、多様な「モノサシ(価値観)」がある。それは、家族やコミュニティーとのつながりであったり、自然と共生する暮らし方であったり、人間らしい時間の流れであったりする。
 こうした関係性や多様性の中に、新たな可能性がある。農村の魅力に共感できるのも、協力隊の経験と重なるからだと思う。

4. 終わりに

 先進国から途上国へは、多くの援助がなされている。私がいた島にも、食料や薬品などの援助物資がたくさん届けられていた。しかし、一部の権力ある人がそれを奪い、貧しい村人達に売りつける光景を度々目にした。
 その中で、村人に合った支援方法を見つけていくには、村人に信頼してもらい、言葉や想いを引き出し、耳を傾け、気持ちを寄り添わす必要があった。それは、日本でも同じだと思う。
 日本の農村の仕事では、地域に根を張って暮らしている方に、たくさん出会って話をしてきた。初めて地域に係る仕事をする私には、その方々が教師だった。決して表には出ないけれど、もくもくと地域の役割を担い、住み続けて支えている方々の話には深いものがある。地域に何が必要か、どうしたらよいのかは、その話の中にいつもヒントや答えがあるように思った。
 また、地域が存続していくには、そこに住んでいる方自らが主役となって動くことが必要だ。何かのきっかけさえあれば、また、少し環境が整えば、自分の力で歩んでいかれる人や地域はたくさんある。多額な資金や制度がなくても、相手に近いところで、一緒に考える姿勢だけでも、相手の中で何かが動きだし、次の展開につながることがあった。それは、個人でも組織でも同じだ。
 行政は、地域の方々にとって批判や依存の対象ではなく、如何に同じ仲間として信頼され、よきパートナーとして共に歩めるかが求められていると思う。