【自主レポート】 |
第32回北海道自治研集会 第Ⅴ-①分科会 自然環境保全と循環型社会 |
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農業用水路から生活排水が流れ込み、汚泥が堆積し、水草や雑草が生い茂り、ゴミが散乱している。これが復元前の中野清水の姿でした。 |
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約40年間分もの大量な汚泥とゴミを掘り起こし道路際に寄せる作業は非常に難航しました。そして、1996年7月6日、約60人の有志が集まりついに本格清掃作業が始まりました。かつてこの場所が清水だったとは思えないほどの汚泥・ゴミがすくい上げられ、これまで体験したことのないような悪臭が周辺にたちこめました。清掃後の汚れた服を風呂場に置いておいたところ、家族から「お父さん、トイレに落ちたの?」と聞かれた、という笑い話もあるくらい強い悪臭だったようです。汚泥をショベルカーですくい上げ、ダンプカーに載せ、一方で土砂が崩れないように土嚢を積み上げながら丸一日かかって、やっとのことで大きな水面が顔を出しました。この水面が現れるまでに除去された汚泥やゴミや雑草はなんと2トンダンプ50台分にもなりました。もちろんショベルカーやダンプカーの重機は全て有志が用意しました。この大掛かりな作業への有志の熱意に応えるかのように、数箇所から湧き水が確認され、作業に従事した一同、歓喜したものでした。 1日がかりの大清掃作業を終え、あらためて中野清水を復元させ後世に残していこうという想いが強くなり、1997年3月14日、『中野清水を守る会』が発足しました。100人を超える会員が集まり、発足以降は湧水環境の保全や動植物の生態系の調査を行っています。現在では地区住民の協力もあり、中野清水を守る会としては4月・8月・10月の年3回、地区の奉仕作業として年3回の合計年6回の清掃作業が実施されるようになりました。 こうした湧水地復元への取り組みは、単に清掃奉仕だけにとどまらず、手作りの看板・橋・ベンチ・花壇の設置へと発展し、地域のシンボルとして愛着心が芽生え、環境に対する意識改革につながっていきました。 そしてこれらの取り組みはマスコミにも取り上げられたこともあって、市民の見学する姿や子供たちが遊ぶ姿が見られるようになり、周辺住民だけでなく市民の間でも注目されるようになりました。周辺の児童・生徒による自然観察会が多く開催されるようになった他、開成中学校生が丹精込めて飼育したイトヨを放流し、また中野清水から近い位置にある地元の陽明中学校生においては自主的に清掃奉仕作業を行うなど、中野清水が「人の集まる場所」へと姿を変えていきました。 |
さて、この中野清水復元の道がスタートしたきっかけになった北部第三土地区画整理事業についてですが、市民の力で中野清水がこれほどまでに美しく復元したことにより、行政サイドもこの清水をさらに復元させるべく、中野清水の全面改修事業を計画しました。事業着手までには、市の都市整備課との間で、公園整備計画案や湧水に配慮した工法など、再三にわたり協議を重ねました。 そしていよいよ全面改修事業が始まるわけですが、まずその前に中野清水に生息する多数のイトヨの引っ越し作業を行いました。これらのイトヨは市内にある他の清水やメダカの分校へと一時避難し、中野清水の本格復元を待つこととなりました。 無事引っ越しが済み、行政による改良工事が始まりました。これまでの会員による手作りの復元で、既に清水らしい景観となっていたため、工事にとりかかる時は少し寂しい気持ちになりました。しかしこれも今後の中野清水本格復元に必要なことと理解し、工事の完成に期待に胸を膨らませました。 改良工事の最初に湧水地の大半が土砂で覆われると、会員からは湧水を心配する声も聞かれましたが、整備が進み大量の湧水が見え始めると、その不安は次第に解消されました。 完成間近には多くの市民が見学に訪れました。そしてついに中野清水は完成、完全復元し、2002年5月19日には盛大な落成記念イベントが開催されました。 |
中野清水の復元作業開始から完成、そして現在に至るまでに数多くの方にご支援ご協力いただき感謝申し上げます。完全復元は成しえたものの、まだいくつか課題は残されています。その中でも特に重要課題となる、『いかにして後世に中野清水を守ることを伝えていくか』ということについて、今後会員で知恵を絞り解決していきたいと考えています。 「生命の源である水を介して自然を失うことの愚かさと守ることの大切さを学んだ今、この清水が美しい姿で後世に引き継がれていくことを願ってやみません。」 |