【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第1分科会 「新しい公共」と自治体職員の働き方

 地域住民の参加と意思に基づいて処理する行政運営、そして社会情勢を無視することはできない労働組合運動。この基本となる世論について、今話題となっている事柄から考察することにより、今後の組合運動や行政運営への参考とするもの。



世論を考察
~世論から見えてくる行政・組合活動~

愛知県本部/自治労名古屋市連合労働組合・総務財政支部 澤  敏文

1. 世論は正しいか

(1) 地域政党の首長からの考察
① 公務員の削減について
  公務員の削減が全国的に進んでいた昨今、公務員・労働組合を敵対視し、市民との対立軸に仕立て上げることによって人気を得ている地域政党の首長が台頭したことにより、公務員の削減は、さらに世論の声として確立した感がある。しかし、削減目標を達成するための方式として、課単位等に削減数を割り当てる、いわゆる案分方式としたり、削減提案自体も、どこまでが適正な削減か、その到達点を見極めることのない提案であったりと、これはもはや単に市民受けを狙っただけの大衆迎合としかみえてこない。この無計画な削減には、労働組合以外からも改善の要求が出されている。例えば、名古屋市では、2010年10月に起きた虐待死を受けて立ち上がった市の検証委員会から、児童相談所の人員体制が、他の政令市と比べ「劣悪な状況」などと指摘し、現体制の59人から最低でも85人程度への大幅な人員増を求める報告書が名古屋市長に提出された。
  日本全体の公務員数については、経済協力開発機構(OECD)から「労働力人口に占める公務員の割合(2008年)」が報告されている。公務員総人件費を発表している27加盟国の平均が17.9%、一番比率の高いノルウェーが34.5%というのに対し、日本は7.9%でしかない。

  また、財務省の資料(2010年)にある「人口千人当たりの公的部門における職員数の国際比較」では、フランス86.6人、アメリカ77.5人、イギリス77.2人、ドイツ54.3人、日本31.6人となっており、ここでも低い人数である。


② 公務員給与について
  世論には、適正な賃金か否かは別にして、他人の賃金を下げることを喜ぶ傾向がある。とりわけ税金から給与を支給される公務員は、「税金で飯を食っている」という、単純で妬みを増長させやすい言葉でもって賃金引下げを声高に叫ばれている。「税金で飯を食っている」という言い回しは、どのような視点での発言か、また、その根底に何を意図して発言しているのか。すくなくとも公務員は労働の対価として給与が支払われるのであって、生活保護などの制度でもって支給されているものではない。
  次に公務員の人件費については、前述のOECDのデータ(2009年)がある。「国と地方の総支出に占める公務員の人件費」は、27加盟国の平均23.6%に対し、日本は15.0%と最低である。公務員の賃金は、私立学校や民営病院など準拠する企業が多く、影響を受ける労働者は全国で600万人を超えるという試算もある。それにより現況は、際限のない官民の賃下げにつながっており、賃上げによる消費拡大、それに伴う景気回復と税収増に逆行し、日本経済をさらに深刻にするとともに、正に公共サービスの低下につながる図式となっているのではないか。



(2) 原発事故からの考察
① 原発事故発生からの1年間
  福島第一原発事故から1年以上経過し、この国の人々は、様々な視点から原発のあり方を考察し、新たな自分の考えを確立していったのではないか。それは、今まで政治や行政に対して声を発することが少なかった日本人にとっては、青天の霹靂ともいえる、喫緊な課題を突きつけられた感がある。そして2012年5月5日、北海道電力泊原子力発電所3号機が定期検査のため発電を停止した。これで全国の原発50基がすべて止まり、日本から42年ぶりに「原子の火」が消えたことは、原発の再稼動のあり方について、より切実な命題として個人の意見を求められることになった。
  この命題を議論するには、二つの相反する現状をしっかりと認識し、その上で多くの議論を展開することによってその方向性を導き出す必要がある。一つは、個人においても産業においても文明の便利さを享受した生活や経済活動がすでに成り立っており、この物質文化は一時的にも現実論として後退できるのかということ。二つ目は、原発事故は、一度大事故を起こすと現代科学では対処不能な取り返しのつかない事故となるということである。また、この原発を動かすためには、劣悪かつ放射能汚染に対し不可避な作業環境という非人道的な下で働く作業員がいてこそ、原発は成りたっているという事実である。
  以上の見解は、様々なところで見受けられるが、抽象的な言葉による感情論で議論しないよう、この1年間に報道された個々具体的な事柄を参考として列挙してみた。


 <原発再開に否定的な事柄>
 ・今でも毎日、放射能は地下へどんどん流れ出ていると思われる。空気中にも出ているだろう。
 ・事故当時、大量に拡散した放射性物質は消えてなくなったわけではない。
 ・やはり福島第一原発事故は人災である。
 ・セシウム137は、半減期が30年と長い。
 ・地面から放射線を放ち続け、農作物にも取り込まれて、長期汚染の原因になる。
 ・1960年代末までの核実験によるセシウム137は、現在も海水・地表・大気中に残っている。
 ・プルトニウム239の半減期は長く2万4千年もある。これは地球の年齢とくらべれば十分に短いが、人間の時間から見れば半永久的に長い。
 ・チェルノブイリでは放射性セシウムは一年ほどで木から土へと移行し、そして再び吸収されて木へという放射性物質の循環が始まった。
 ・生活圏と森林が密着している地域の住民を帰還させるためには、麓だけの除染では足りない。
 ・除染が本格化すると、土など放射性物質を含んだ廃棄物が大量に発生する。
 ・茨城でも原木シイタケ、タケノコで新基準値超え
 ・原発近隣の人は住む家を追われ、仕事を失い、着の身着のままで逃げてから1年。地域のつながりは分断され、家族はバラバラとなり、多くの人々は新たな仕事も見つけ出せていない。

 <原発再開に肯定的な事柄>
 ・原発ができたころの日本人1人あたりのGDPは1,000円程度、現在は3万数千円にまでなっている現状を昔のところまで戻してもいいということであればどんな政策もできるが、そういった生活環境に戻ることが現実的に出来るのか、また国の将来像として良いのか。
 ・現在の技術水準で決定的な判断をしてはいけない。いま新たな技術開発がアメリカを中心に進んでいる。
 ・エネルギー資源の乏しい日本は、その総供給の約8割を海外に依存し、その約5割を石油に依存している。
 ・エネルギー資源そのものについても、石油の枯渇が問題となっているなか、中国をはじめとするアジア諸国のエネルギー需要の大幅な増加が予想されている。
 ・産業活動に伴って排出された温室効果ガスが主因(主流要因)により地球温暖化が進んでいる。
 ・エネルギーの安定供給の確保、地球環境問題への対応の観点から、資源制約が少なく、環境特性の良いクリーンなエネルギーの必要性の観点から、国策として原子力発電の導入がすすめられてきた。
 ・おおい町には倒産している会社もあって相当不安だ。大阪も滋賀も反原発を唱えているが、それだったらどれだけ雇用を保障してくれるのか。
 ・浜岡を全面停止し、その分を火力発電に切り替えると、発電のコストは1日7億円、月200億円余アップする。さらに原発は停止しても、使用済み燃料を冷却するなど維持費はかかる。
 ・医療・福祉施設においては、体調管理にはかかせない冷房は、電力不足が切実な問題となる。
 ・自家発電装置は非常用として施設全体の日常の電力はまかなえない。人工呼吸器の利用者や障害で体温調節できない人にとって、電力不足は深刻な問題。
 ・原発停止は地元経済に与える影響を懸念したもの。東海地方は自動車産業が集積し、日本経済を先導する「核」の一つ。電力の安定供給に支障が出たり、中電が短期の収益改善のために電力料金の値上げに踏み切ったりすれば、「日本のものづくりの空洞化」につながるとの懸念が中部財界幹部では根強い。


 震災後の1年余、この相容れない二つの事柄を具体的な報道や発言でみたとき、拙速な行動を慎み、深慮ある対応が求められていることを痛感する。原発推進派には、新たな日本の将来のエネルギーのあり方や地球環境問題からの意見として理解はできるが、プルトニウム239の半減期は2万4千年と長く、人類の英知を超えた自然の力に対し、再度事故が発生した場合にどのような責任がとれようか。また、原発再稼動反対派にとっても、地元の雇用問題や国内産業の空洞化などに対する一定の考えを持ち合わせていなければならない。いずれにしろ国民間の十分な議論が重要であることに相違ない。議論とは、お互いが尊敬しあい、相手の意見を尊重してお互いの意見の中から答えを導き出すものであり、決して自分の意見を相手に押し付けるものではない。国民自らが考え、十分な議論を踏まえた上でこれからの将来像を導き出す必要がある。
① リスク&ベネフィット論
  テレビや新聞などの報道では、原発の再稼動やあり方を、リスク(危険)とベネフィット(便利)論で報道されている。科学者のイデオロギーとして、ベネフィットが大きくなればなるほどリスクも比例して大きくなると心得よ、という話もあるそうだ。このリスク&ベネフィット論の「許容リスクと非許容リスクの境界」をグラフ化したものがある。

  このグラフは、縦軸が「頻度(リスクレベル)」で横軸が「重大さ(ベネフィット)」として非許容リスクと許容リスクを説明する図である。この図から私たちの生活は、交通事故の危険を理解しながら車を運転し、火災の危険を知りながらもストーブを利用する。つまりリスクのうえに成り立った文明・文化を享受しており、個人の考え方によって「許容リスク」、「受任限度内リスク」の判断を行っていることになる。原発問題についても、この個人の考え方の違いで論じられているように思われる。しかし、どれほどリスクが小さくベネフィットが大きくあろうとも、このグラフでは論じられないのが原発問題ではなかろうか。それは、リスクの範囲は想定内のものであり、人知を超えた放射能の半減期や想定外の自然の営みは考慮されていないからである。原発問題は、経済や生活などを優先させ(ベネフィット)、ある程度のリスクは止むを得ないとするリスク&ベネフィット論は成り立たず、大きな矛盾を内包した問題であるということを認識することが必要ではないか。

2. 民主主義の弱点

 最初にインターネットに出ていた埼玉県知事の上田清司氏の記事を、そのまま引用させていただきたい。現在の日本国債の膨張やユーロ圏の債務超過など、民主主義国家の財政赤字における弱点を次のように述べている。
 「若い頃に読んだ米国のジェームズ・M・ブキャナンの「赤字財政の政治経済学」が思い出されます。政府、政治家は人気取りのバラマキ政策を取りがちであり、一方、国民もそのバラマキが将来どのような負担となって跳ね返ってくるかをよく意識しない。そのため民主主義国家は結局、財政悪化に陥るとする彼の考えが、今こそ思い起こされるべきだと思います。」
 また、知事の思いとして、現在の経済状況について、こうも付け加えている。
 「正義、公正を叫ぶ民主主義は、その結果として重大な秩序を失う場合もあります。例えばバブル崩壊の初期に住専の処理に必要な6,800億円を出し渋ったため、その後50兆円の処理費用がかかることになりました。これも一企業を救済するために国民の税金を使うのは、正義や公正・公平に反するという国民の声を優先したことで、逆に国民負担が拡大した例です。私たち政治家は正に、この民主主義のワナの中に入りやすく、そうであるがゆえに巨大な赤字が積もり続けています。」
 この引用させていただいた文章は、個人によっては異論があるかもしれないが、ここで伝えたかったのは、民主主義は否定するものではなく、絶対的に守らなくてはいけないものではあるが、それは万能ではなく、国民の声が政治にとって正しい道筋を導き出さず、逆に衆愚ともいうべく個人(政治家)の利益に悪用され得るということである。

3. まとめ

 今回、二つの視点から現在の世論を考察してみた。「(1)地域政党の首長からの考察」では、世間で声高に叫ばれる公務員数及び給与の削減が必ずしも正しいものではなく、それはある意味、情報の少なさや民主主義の弱点などからもたらされていないのか。首長は、市民目線で行政運営すべきだが、それは、将来を見すえた全体の利益のために行うとともに、私利私欲をからませてはいけない。また、組織の長とし、職員の能力を最大限に発揮できるよう民間社長のマネジメント術を学んでほしい。その中には社員を嫌悪した対立はありえない。
 「(2)原発事故からの考察」では、対立軸の主張について、思料を怠ったり政府などへ課題を転嫁したりするのではなく、自らの主張に対する課題として捉え、冷静かつ深慮ある議論の必要性を感じている。ただ、被爆を前提とした非人道的な環境下で働く作業員の存在は無視できないし、日本一国の価値観で論じることなく、地球規模の視点が要求される大きな問題であることは間違いない。この問題を全世界の共通課題として是認されたとき、初めてスタートラインに立てるのであり、そういった視点での運動が必要と考える。
 そして、この二つの考察に共通するキーワードは、「成熟した国民」ではないか。成熟した国民は成熟した世論を生み出す。企業はリスクを軽視し国民の利便性を煽り、利益を追求する。その国民は他者のリスクは対岸の火事として自分の利便・利益を優先させる。そして政治家は、その国民へ迎合することにより保身に走る。この循環を「成熟した国民」が正すことにより、望むべき政治家やマスコミが構築されていくのではないか。ただ、決して日本国民が劣っているという意味ではない。情報の不足などが、例えば「公務員バッシングは自らに跳ね返る問題だ」ということを気付かせないともいえる。人の心理をついた上手な広報手段、それは対立軸であるタレント首長にヒントがあるのかもしれない。我々労働組合は、固い信念の下、様々な広報媒体を駆使するなどして、大きく、かつ継続的な運動を展開して国民世論を変えていく必要がある。またそれは、地方自治の本旨の一つである「地域住民の参加と意思に基づいて処理する」という住民自治をも、成熟した民主主義として根付かせることにつながるのではないか。