【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第1分科会 「新しい公共」と自治体職員の働き方

 2011年1月に新燃岳噴火災害が宮崎県で発生し、また、2011年3月11日に未曾有の大災害である東日本大震災が発生しました。奇しくも雲仙普賢岳噴火災害から20年を迎えた島原から全国の労働組合に対し「絆……つなごう 島原の教訓」~自治体労働組合としてできること~を発信しました。



雲仙普賢岳噴火災害20周年事業
“絆”つなごう 島原の教訓
~自治体労働組合としてできること~

長崎県本部/島原市役所職員組合・執行委員長 森  宏伸

1. はじめに

(1) 雲仙普賢岳噴火災害について
 1990年11月17日、198年ぶりに雲仙普賢岳が噴火しました。私は当時、市役所入庁1年目の出来事でした。
 噴火の次の日、島原市主催のテニス大会があり、198年ぶりの普賢岳の噴煙を見ながらプレーしたことを思い出します。
 この時はまだ、この噴火が引き起こす大災害が島原で起こるとは夢にも思っていませんでした。翌年、6月3日、大規模な火砕流が発生し、地元住民、マスコミ関係者を含む死者40人、行方不明3人、負傷者9人、建物被害179棟という、火山災害としては極めて悲惨な災害が
起こりました。
 当時、私は水道課の職員で、水道施設の点検を同僚と2人で行っていました。夕方、中木場簡易水道施設(火砕流で被災した)へ行こうとしましたが、内業があった為、帰庁致しました。市役所に帰るとすぐ、大規模な火砕流が発生したと聞き、また、現地へ向かいました。大量の灰で車のワイパーも利かず、やっとの思いで、近くまでたどり着きました。しかし、警察、消防団に制止され、別の道を通り施設へ向かいましたが、火砕流の熱い灰に阻まれ引き返しました。あの時、高台の水道施設へ向かっていたら私たちも火砕流に巻き込まれていたことでしょう。今でも2人で当時のことを話すことがあります。
 その後、たび重なる土石流で安中地区は、家、畑は土石で埋め尽くされ壊滅的な被害を受け、1996年の5月の噴火活動終息宣言が出されるまで続くことになりました。

(2) 島原市職員組合の取り組み
 島原市役所では、噴火が始まる3年前に、5年3ヶ月にわたる市職組の粘り強い運動が功を奏して、市職員の業務中の急性死が過労死として労災認定されるという事例を経験しましたが、その労災認定運動の最中雲仙普賢岳噴火が始まりました。
 噴火災害業務に当たる市職員の時間外労働は、火砕流大惨事の発生で一夜にして4,000人を越す避難住人の避難所生活支援業務が始まった1991年6月には全職員の月平均で約80時間、最前線の防災担当職員は300時間にも及びました。
 一方、避難住民が体育館での集団避難生活から仮設住宅での移行を終えた3ヶ月間に県内各市役所から延べ2,017人もの派遣職員が駆けつけてくれ、島原市職員の労働負担軽減で大いに助けられました。
 健康対策では「過労死を繰り返さない」「休むときは休む」の掛け声の下、全職員を対象とした健康調査アンケートの結果を踏まえ、大火砕流惨事の年から5年間、半年に1回、定期健康診断を実施しました。
 また、危険業務に関し、火砕流が及ぶ可能性の高い「警戒区域」内での市職員や消防団員、自衛隊員による土嚢積み作業は装甲車で現地に入り、自衛隊による厳重な監視と避難計画の下に行う、などの対策を講じました。
 1993年6月3日に雲仙普賢岳噴火災害記録集Vol.1を発行いたしました。この記録集は当時の松下委員長を中心に執行部、組合員一丸となり編集され災害の記録を後生に残す活動を続けてきました。
 噴火当時の組合員の先の見えない不安な気持ちや、避難所生活での住民の皆さんのいらだちなども、赤裸々に書かれております。この災害記録集はVol.8まで発行し、阪神淡路大震災や、新燃岳噴火災害、東日本大震災時にも救援活動の際に、「災害復興の一助となれば」との思いで持参、送付しているところです。


2. 雲仙普賢岳噴火災害20周年事業について

(1) 想 い
 2011年、雲仙普賢岳噴火災害20周年を迎えるにあたり、2010年長崎県本部の定期大会において、雲仙普賢岳噴火災害義援金カンパ会計の運用の提案がなされました。噴火災害当時、全国の自治労の仲間の皆様から、いただいた義援金を、全国、世界で起こった災害へ義援金として贈り活用していきたいとの提案でありました。2011年、災害から20周年を迎える私たちとっては、なんとか、この義援金を島原半島の復興事業に使わせて欲しいとお話ししたところ、快く承諾を得ることが出来ました。

(2) 不測の事態
 県本部からの支援も内諾を得て、復興した島原半島から全国の皆様へ、お礼と災害を風化させない取り組みは何ができるのか、執行部の中で議論を重ねてまいりました。そういった中、2011年1月宮崎県霧島連山の新燃岳が噴火し、近隣の市町村が降灰の被害をうけました。ニュースで流れる映像を見ると、20年前、私たちが体験した雲仙普賢岳噴火災害と全く同じで、降灰に対し職員の奮闘する姿が重なって見えました。
 私たちは、同じ噴火災害に悩ませられている仲間を見て、いてもたってもいられず、都城市、小林市、高原町の自治労の仲間へ島原の湧水を持参し激励に行きました。街は火山灰で覆われ薄暗く、車が通るたびに灰が舞い上がり、大変な状況でありました。しかし、住民の方とお話しすると、桜島の降灰が来ることもあるそうで、笑顔で話をされていたので、少し安心しました。職員の話を聞くと、「救援物資、義援金、マスコミ対応でバタバタしています。」とのことで、噴火災害を体験した私たちと気持ちが共有でき、職員としての本音の話が出来たと思いました。
 そのようなこともあり、雲仙普賢岳噴火災害20周年事業は新燃岳噴火災害と連帯し、災害復興と復旧事業そして、私たちができることをテーマに取り組んで行きたいと考えておりました。
 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生し、日本で未曾有の大災害「東日本大震災」が起こりました。テレビで流れる映像を見ると、映画のワンシーンのようで、とても現実として受け入れることが出来ませんでした。津波で流される建物、車、そして火災、また現在でも続いている福島第一原発事故、日本が今後どうなっていくのか全く見通しのつかない大災害でした。
 災害直後、執行委員会、代議委員会を開催し、「今、私たちが出来ることは何なのか」を議題とし、話し合いを進めてきました。「義援金を募ろう」、「災害救援派遣するべき」、「20周年事業なんてやっている場合じゃない」、「自粛するべき」という意見があり、執行部としても頭を悩ませていました。
 そういった中、組合執行部のOBの方から、「まず出来ることからやりましょう!!」のアドバイスのもと、雲仙普賢岳噴火災害記録集のHPへの掲載を行いました。
 20年前の事例でありますので、今の状況には合わないかもしれませんが、テレビで避難所、仮設住宅での生活を見ていますと、当時と全く変わりないような印象を受けました。
 私も自治労の支援活動の一環として4月17日から10日間、宮城県石巻市へ避難所の運営に行ってまいりました。門脇中学校の体育館に避難されている方々を見ると、20年前に島原で体験した記憶が蘇り、悲しい気持ちで一杯になりました。その中でも、子ども達は元気よく体育館で過ごしていて、私に話しかけたり一緒に遊んだりして元気をいただきました。
 最終日に「私の形見だから大切にして」と折り紙をもらいました。
 小学生が形見という言葉を知っている事が悲しく、泣きそうな気持になりました。
 長崎に帰ってから、洋服、お菓子、写真などを送りましたが、すでに、避難所を出て、元気に過ごしている事を聞き安心いたしました。

(3) 発信する
 災害を風化させない、元気になった島原半島を全国の皆さんに発信するという思いで、2011年9月25日雲仙普賢岳噴火災害20周年事業「“絆”つなごう 島原の教訓」~自治体労働組合としてできること~と題し島原復興アリーナでシンポジウムを開催いたしました。当時毎日新聞西部本社報道部デスクで200日間、島原で災害の実情を見、体験され、そして全国へ発信していただいた加藤信夫さんの講演を皮切りに、2部のパネルディスカッションでは、当時の島原市職松下英爾執行委員長、当時、大野木場小学校教諭土手野和広さん、県本部近藤富彦委員長、新燃岳から高原町役場新福小太郎執行委員長、東北より石巻市小野寺伸浩書記長に参加いただき、今、自治体労働組合として私たちが出来ることをテーマに意見を出していただきました。特に現在、災害の復興にあたり昼夜を問わず奮闘されている石巻市、高原町からは「長期的な災害で職員の健康管理、安全確保。また復興計画への関わり方は?」への質問には、「被災経験がある地域から情報を得て学び、被災地同士の横のつながりが大事ではないか」、「島原では官民一体の活動に職員も参加した。不十分な救援対策に対し、情報発信や提言活動なども繰り広げてきた」などアドバイスし活動の一端を報告しました。近藤委員長からは「自治体と国任せではこの災害は乗り越えることはできない。労働組合も責任ある単位として、役割をしっかり果たしていかなければならない」と強調し労組の役割を示されました。最後に加藤氏より「マスコミをうまく使うこと。世論の形成にもつながっていく」ことをアドバイスされ、労組とマスコミとの関係を再考するきっかけができ、大変有意義なシンポジウムになったと思います。
 また、20周年事業の第2部として、「届け、復興への鼓動」~島原から全国へ~と題し、しまばら復興コンサートを開催いたしました。雲仙普賢岳噴火災害当初から、島原のためにご尽力いただいた「泉谷しげる」さんを中心とする伊勢正三さん、イルカさん、尾崎亜美さん、山本潤子さん、浜崎貴司さんの6人のミュージシャンの方々に、災害に苦しむ全国の方へ島原から元気を発信し、義援金を募るという趣旨にご賛同いただき、復興支援コンサートを行いました。野外ステージでの開催でしたので天気が心配でしたが、長崎県自治体職員の日頃の行いの成果で、晴れのち曇りという絶好のコンディションの中、当初予定していた時刻を1時間以上も過ぎましたが大盛況のうちに終わることが出来ました。
 この、ポスターについては、市職組合員発案のキャッチコピーと、組合員が撮影した写真を使用し、手作り感のある作品になったと自負しております。(私は、OKを出しただけですが……)


3. 終わりに

 雲仙普賢岳噴火災害20周年事業を終え1つの区切りがついた感じですが、災害大国日本で自然と共存する生き方、それに係わる自治体職員のあり方、心構えが災害を乗り切る大きな力になると思っています。次々と起こる災害に対して、常に自分の問題として考えていかなければならないと思います。合理化という名の人減らしは続いていきますが自治体職員の必要性を訴えながら、今、出来ることから行動していこうと思っています。
 最後に、この事業を開催するにあたり、全国の仲間の皆さんの温かい心遣いと長崎県本部の多大な御支援、関係組織の皆様の御協力に対し改めてお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。