1. はじめに「昆虫」ありき
(1) 出前昆虫展 私は10歳の頃から昆虫を採集し、夏休みの自由研究課題として数々のコンクールにも出品し、それなりの成果を上げてきた。昆虫学者になる夢は中学3年の時に捨て、残った標本をどうしようかとあれこれ考えていたが、足利にお住まいだった勅使川原敏一氏との出会いが、その後の私のライフワークに繋がっていった。
氏はロータリークラブに所属し、保護司も務めるという生粋の奉仕者であった。同じ昆虫蒐集の趣味を持っていることから年齢差を越えた関係が続き、彼がライフワークとしていた「昆虫の展示会」を幾度となく共同開催した。つまり、氏との出会いが自分のコレクションの活用法を教えてくれたわけである。『標本とは、自分で楽しむ「私益」に始まり、皆で研究し合う「共益」となり、最後はその成果を披露し「公益」とするものである』。
(2) マロニエ昆虫館
栃木県県民の森に1982年の全国植樹祭の際に建てられた森林展示館があった。1996年の全国育樹祭の時に建てられた新しい展示施設に取って代わられ、その役目を終えて遊休施設となって5年。施設の有効利用を考えるプロジェクトチームが結成されては、1回切りの引き継ぎ事項の確認だけで終わっていた。「金がない、人がいない、再生案がない」お決まりの愚痴のこぼし合いで何も出来ずにいたようだ。
しかし、できない理由を考えるよりは、どうすれば出来るのかを考えるのが我々職員の仕事である。当時、県民の森の所長をしていた人物が、私と同じく昆虫の蒐集を趣味としていたことで、所属外の私に声が掛かった。
「自由にやらせてくれるのならやります」。私は前年に「蝶の美術館」を旧栗山村にオープンさせていた。
当時の県民の森職員の献身的な手造り展示用具の提供もあり、計画も予算も何もないまま、たったの6カ月で「マロニエ昆虫館」は出来あがった。地元紙・地元TV局はもちろん、主要新聞の地方版にも載り、国営放送局からも2度取材があった。初年度の集客数は25,000人。県の公式HPや県民だより、県発行の子ども向けガイドブックの表紙にも掲載され人気スポットとなった。この年、行財政改革室から「ひとり一改善事業」の模範例として、県民の森管理事務所は個人賞ではない、初めての団体賞に輝いた。
(3) 展示品の無償貸出
展示用の標本箱は約100箱近くもあり、また、自分の標本が管理しきれないからと、コレクションを寄贈してくれる人びとが数人現れ、マロニエ昆虫館の展示物は益々充実していった。年4回入れ替えるにしても、まだもったいない。私は県内の公共施設あてに、標本箱や写真パネル類を貸し出す事業を思いつき、管理事務所で貸し出し要領を作っていただいた。これはなかなか好評で、今も県内の四つの県民都市公園では、毎夏巡回昆虫展が行われている。通常、リース業者から借りれば1箱2万円が相場である。規模も相当大きく、時には100箱以上の標本箱が並び、公園の展示会運営予算は毎年100から150万円は浮く仕掛けである。これをここ10年ほど実施している。
また、5年前の新潟中越沖地震の際には、花火大会等夏のイベントがすべて中止となった新潟県柏崎市へ120箱を出前し、たった5日間ではあったが、約600人の市民の皆さまに楽しんでいただくことができた。ちょうど新潟市では大規模の有料昆虫展をやっている最中であったが、こちらの方が面白いという観覧者が何人もおられた。それは私が考案した「自然科学的展示法」ではない、「人文的昆虫展示法」が歓迎されたからである。
2. 人文的展示法の確立
(1) どくとるマンボウ昆虫展
北杜夫のマンボウシリーズの中でも、外の作品とは一線を画す『どくとるマンボウ昆虫記』を徹底的に具現化したもので、「一つの文学作品の素材が、これほど集められた例は未だかつてない」と、或る文学者に言わしめた昆虫展である。私が中学の時に心に決めたことが、40年の時を掛けて現実のものとなった時、25の標本箱の中には、北杜夫氏が実際に採集し、自分の文芸作品に登場させた「その時の正にそのもの」という歴史的な標本たちが並んだ。1都10県23会場で行われた展示会では、内4会場にて北杜夫氏本人のトークショーが行われ盛況であった。4年前の岩手・宮城内陸地震へも出前した。この時から、文庫本にオリジナルのブックカバーを付けて文庫本を販売し、原価も込みで各地震災害へ義援金を寄付するというキャンペーンが実施された。送り主を「どくとるマンボウ昆虫展」とした義援金は25万円を超えた。そのような面でも最も成功した出前昆虫展であった。新聞・テレビ等、各メディアに紹介された回数は、NHK-TV全国ネットで3回を含め、100回を軽く超えるだろう。そして、この昆虫展こそが、各公共機関への企画展示品の共有化を実践する絶好の展覧会となって行ったのである。 |