1. 阪神・淡路大震災の時
(1) 当時の私と阪神間の障害者の動き
17年前に起きた阪神・淡路大震災、当時私は大阪に住んでいて、実家は淡路島の旧北淡町でした。発生直後、私は実家に電話をかけ、偶然にも父が電話に出て、これから周りの状況をつかむところだと言うことでした。それから数日電話は不通、神戸や淡路島の凄惨な状況がテレビから伝わり、早くに電話が通じてなかったらどうだったろうと身の震える思いでした。また、私は大阪や阪神間のいくつかの障害者の当事者グループの人たちと知り合いで、すぐに「淡路はどうなの?」と連絡をもらいました。そして、その人たちが多くの団体といち早く大阪で障害者救援本部を立ち上げ、神戸から大阪へ避難してきた障害者の避難場所の確保・運営、人・物・金を含めた後方支援などを行い、また、神戸でも被災地障害者センターができたことを知りました。私は障害者救援本部を通じて震災の翌月に西宮へ行くことができ、以後10年ほど、神戸の被災地障害者センターに身を置くことになりました。
(2) 阪神・淡路の障害者たちの活動から
西宮では、直後に地域で暮らす重度の障害者が避難所の一部でボランティアを集め、自分たちの介護者探しとあわせて他の避難所の人たちのニーズ把握で必要な支援を行ったり、炊き出しで多くの被災者に食べ物を振る舞うなどの活動をしていました。活動の中心は、現在の障害者問題を考える兵庫県連絡会議の代表であり、被災地障害者センター(現在「NPO法人拓人・こうべ」)の代表などでもある福永年久さんと西宮に住む自立生活をしている障害当事者の人たちでした。その活動の背景には、学校の体育館など避難所では車いすでは使えないバリアだらけのトイレや段差などのため、結局は障害者の仲間だけで一室にならざるを得なかったこと、彼らの自前の力や全国の障害者のネットワークによってボランティアなど人材確保を行ったことや救援物資が届けられたことなどによります。しかし、障害者だけ特別扱いのようになっていていいのかという疑問があり、福永さんはこうも言いました。「震災でみんな障害者になったんや」と。彼をはじめ何人かの障害者は身近な人を震災で亡くしたり、自宅を失った状況があったにもかかわらずです。彼らの支援活動は、避難所の都合でやむなく追い出されも、他の場所でも続けられました。
神戸など他の被災した障害者はどうなったか、自立した障害者や地域拠点と日常的につながりのあった障害者の一部の人は、大阪の障害者救援本部が用意した避難所に行きました。また、障害児の普通学校生活を実現し、長年にわたって実践されてきた先生らが、卒業生の在宅の障害者の連絡先をもとに安否確認を行い、その活動が被災地障害者センターにつながっていきました。そして、地域拠点の中心であった小規模作業所が大きな役割を果たしました。以前から日常的にイベントなど企画を通して地域との関係を築くノウハウを自ずともっていた所が多くあったからです。震災当時、障害者の多くの作業所は、法的な位置づけでなく無認可で、関係者など多くが被災したにも関わらず、障害者の地域生活の拠り所となり、地域と支えあう関係が築かれていたのです。
(3) 残された課題・教訓
介護が必要な障害者にとって日々介護者確保は死活問題で、震災がその追い打ちをかけました。介護者自身も被災して身動きがとれませんでした。今でこそまだまだ不十分ながらヘルパー制度があります。阪神・淡路当時と比べ、当事者仲間の生活を大切にする地域拠点も作業所だけでなく、居宅系サービスを行うとことが多く出てきました。しかし、地方ではなお社会資源が不足し、十分なサービスがなく孤立している障害者が多くいます。都市部でさえ、高齢の家族とだけで暮らし、正直どちらが介護しているかわからないという状況や、地域や障害者グループとの関係もなく、精神的に悶々としながら孤立している障害者も少なくないでしょう。阪神・淡路大震災以後は、地域コミュニティの多くの取り組みや復興住宅での高齢者の孤独死が大きな問題となりましたが、その地域コミュニティから外れた障害者の場合、震災以前からあったこうした問題が震災で浮き彫りになっただけだとよく言われました。今なお、この問題は残っているように思います。人的資源が十分かどうか以前に、家族以外で地域の中で個々の障害者が住んでいることさえ知られていない状況がまだまだ残されているように思います。地域の中での個々の障害者の存在をどう知っていくか、すぐに無理であれば、地域拠点なり行政が関係者のネットワークで点から線へ、線から面へと広げていく取り組みがさらに必要不可欠になっています。
他方、作業所など障害者の地域拠点は、無認可ながらもフットワークの軽い所は、様々なネットワークを築いてこられました。しかし、近年、法的な事業移行を求められ、身動きが制限されてきました。そういった作業所の地域などに対する取り組みへの評価が十分なされずに、法的な縛りだけを強いる流れになってきたように思います。そんな中でも地域との結び付きをどう保っていくのか、それぞれの事業所の限られた力量の中で自主的な取り組みがより求められます。
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音声付点字案内板・音声ガイドシステム等が設置されているほか、21人用と15人用の大型エレベーターが2機並べて設置されている。プラットホーム・バス・タクシー乗り場もフラット化されている。(阪急伊丹駅エレベーター前) |
また、例えば、交通バリアフリーでは、震災で大きな被害を受けた阪急伊丹駅の再建で、誰もが使いやすい福祉駅として設計段階から地元の障害者を含む検討委員会を行い、当事者参画の「伊丹方式」として注目され、実現されました。兵庫県では既に1992年に全国に先駆けての「福祉のまちづくり条例」が制定されていましたが、県内にエレベーター設置駅が全くなく、1998年の伊丹駅の完成は画期的でした。現在、阪神間のほとんどの駅、地方の主要駅にもエレベーターなどバリアフリー駅になりましたが、乗降客の少ない駅、バス・船などを含めて地方の公共交通機関の利用しづらさは残っています。伊丹駅再建実現以降、私たち障害者グループも集まって、県の所管や「福祉のまちづくり研究所」と議論や実際に様々な施設への調査を重ねてきました。しかし、現在は「広く県民からの意見を聞きながら……」という理由で、私たちの「特定の団体」との話し合いに応じないという県の姿勢になっています。復興計画や自治体の様々な計画も含め、様々な立場の意見を大切にしながらといいますが、本当にその計画を直に必要としている当事者の参画にはまだ壁が厚い状況が続いています。災害時に公共交通機関・施設が麻痺した場合の移動困難者の危険から守る問題意識なども不十分な気がします。地域社会を作り、維持していくシステムの中に、障害当事者の参画していく場がまだ限りなく残されている気がします。
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