【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~

 東北地域に甚大な被害をもたらした東日本大震災から1年が経過した。被害を受けた地域では、復興の足音が聞こえる今だからこそ、わたしたち奥尻島が1993年7月12日に発生した北海道南西沖地震から復興までを振り返り、そして、ここから得た教訓を提言します。



災害時における行政職員と住民の役割について


北海道本部/自治労奥尻町職員組合 安藤  寛・久保 克博

1. はじめに

 奥尻町は、1993年7月12日発生の北海道南西沖地震により地震、津波、火災の3つの災害が重なり、甚大な被害を受けました。
 地震の震源は、北海道南西沖(北緯42度47分、東経139度12分)で震源の深さは34km、マグニチュード7.8とされ、奥尻島はもとより、北海道や東北地方の各地で震度5の強震から震度4の中震を記録しました。
 震源域は奥尻島を含むと推測され、奥尻島は地震計が設置されていないため震度6の烈震と推定されています。
 この地震から19年が経過し、住民の記憶の中も過去の震災としての位置づけがなされていたところですが、昨年の東日本大震災による津波被害により、奥尻町が災害後の防災対策及びまちづくりの先進地として、被災地の宮城県・岩手県を中心に多くの視察が訪れました。
 私たちが震災当時全国からの皆さんの多大な支援により現在の生活がある中で震災からの住民それぞれの復興のあり方を再認識するような部分もあり、また今後に伝えていかなければならない使命もあると感じています。
 改めて、北海道南西沖地震における奥尻町行政及び職員の役割を検証することにより、今後の災害における行政の役割を考察してみたいと思います。


2. 地震時における行政及び職員の役割として

 災害時において行政の使命として住民の安全・安心を守ることは、行政に携わる職員にとって、誰もが感じ、義務感に思うところかと思います。
 しかしながら、北海道南西沖地震における災害は、あらゆる面において奥尻町の職員がこれまでに経験したことのないものであり、職員のいままでの経験等で対応できる規模を遙かに超えたものとなりました。
 地震自体は、奥尻町にとっても地域の特性上、決して珍しいものではありません。
 先般の津波堆積物調査においては、過去約3千年間に少なくとも5回、約600~1000年間隔でほぼ同規模の大津波に襲われた可能性があることが発表されています。
 奥尻町は、北海道南西沖地震以前にも1983年発生の日本海中部沖地震による津波被害や台風による被害があり、災害発生時においては職員も過去の経験に基づいた対応を行ってきました。
 ただ、北海道南西沖地震は、日本海中部沖地震とは比べものにならない地震の揺れにより、町全体が瞬時に停電となり、暗闇の中での避難に時間を要し、被害者が増える要因となりました。
 一方で、住民も日本海中部沖地震での経験を生かし、地震イコール「津波が来る」という認識により、すぐ避難の行動につなげることができた部分もありました。
 反面、津波を一度経験したことにより、津波の規模を自己解釈し、避難の緊急性の解釈が分かれたところもありました。
 午後10時17分に発生した地震時において、役場本庁舎は警備員が常駐しているものの、最大の被災地となった青苗地区にある支所は無人の状態でした。
 青苗地区に居住し、自ら被災しながらも、支所に集まった職員達は、停電の状況下で情報収集をするも、漠然とした情報が錯綜し、まともな対応ができる状況ではありませんでしたが、警察や消防との連携により緊急性の高いことから対応することとなりました。
 本庁舎においては地震発生後30分ほどで町長の指揮により災害対策本部を立ち上げ情報収集を図りました。
 この夜、各地区に居住している職員は自らが被災、また余震などの被害が継続する状況においても人命救助や各避難所の確保に奔走しました。
 日常業務の分掌によらず、職員個々が自ら瞬時の判断を求められるような状況もありましたが、一つの目的の下、疲労が重なる日々を乗り越え、この後全国からの義援金や救援物資等の支援、国・道の関係機関・道内外各自治体、全国各地からのボランティアの尽力により、震災発生から5年後の1998年3月に「完全復興宣言」をすることができました。
 行政は災害時において、国や関係機関との連絡調整等住民が元の生活に戻れるように尽力する必要があります。
 しかし、大規模な災害であるほど地域住民との協力なしに復興の道筋は見えてきません。
 東日本大震災においては避難所において、住民のリーダーが自発的に活動する姿が紹介されていました。
 避難所の支援についても、行政の手が届く範囲を超えていたことは確かですが、行政に頼らない自発的な行動が住民間の連帯感を生み、このような状況下においても自分たちで何とかしようとする姿勢が表れていたと思います。


3. 過去の教訓を生かすために

 続いて、3・11を含む過去の災害から私たちは何を学んだのか、そして、再度大規模の災害が発生した場合において取るべき行動や用意すべきことについて考えてみます。
 南西沖地震発生当時と現代を比較してみると、明らかに情報化が進んでおり、携帯電話という、今や一人一台のコミュニケーションツールがあるという点で、万一の時には心強いものです。
 しかしながら、肉親の安否確認が殺到し、固定電話が回線パンクした当時を思い起こしてみると、いかに携帯電話でも震災直後しばらくは通信不可能であることが想定されるため、伝言メッセージや緊急エリアメールの使い方について住民に周知するといった、日頃からの広報活動が重要となります。
 また、奥尻町は離島であるがゆえに、外部からの救援には時間を要するということを念頭において、備蓄品の整備も怠ることは出来ません。
 北海道南西沖地震当時においても、まず食料は自衛隊から空輸により供給されました。
 けが人などの命を救うためには当然医療は欠かせませんが、それ以前にまず、水・食料の確保が必要です。
 町内の指定避難所は20箇所存在しますが、食料を備蓄している施設は皆無です。
 これは、食料の備蓄には、物資の期限到来後の入れ替えなどに要する経費や、管理の面での労力がネックとなっているからです。
 また、災害時には自助・共助を前提とし、普段から各個人ごとに、ある程度の蓄えは持っていると考えられるものの、大津波で家財が流失した場合を想定して避難所にも最低限の水・食料・寒さ対策の物資は確保するべきです。
 この問題を単なる財政難を理由に片付けてはいけないし、なにより計画的備蓄を検討するのが行政本来の役割のはずです。
 物質面のほか忘れてはいけないのが地域の人間同士の繋がりではないでしょうか。
 奥尻町では現在、高齢化率が30%を超えており、老人世帯・独居老人世帯も相当数となっています。
 さらに限界集落と呼ばれる地域も少なからず存在する中で、行政が出来ることは災害弱者、いわゆる災害時要援護者の把握とそのバックアップ体制作りです。
 現在、町では包括支援センターが中心となってそのシステム作りを完成させつつあり、今年度の防災訓練では、その集積したデータを避難誘導訓練に活用する計画です。
 近い将来には、行政だけでなく、各地域においても情報を共有し、救援活動に生かせるよう、官民のコミュニケーションをしっかりと図らなければなりません。
 仕組みをつくったあと、維持し続けることはこれから先においてますます難しくなるとは思いますが、小規模自治体だからこそ可能なことではないでしょうか。
 そのほかにも、奥尻町ならではの災害対応として、航空自衛隊分屯基地が存在することが挙げられます。
 常日頃より連携を深めることはもちろんですが、万が一の時は迅速に行動がとれるよう、防災訓練だけにとどまらず、役場職員と基地隊員との信頼関係を構築しておくことも大切です。
 災害を想定したシミュレーションは際限なく広がり深まるところですが、島の動脈である道道奥尻島線(海岸線)が寸断され集落が孤立する事態、さらに最悪の場合は避難所等が壊滅し住民を島外避難させざるを得ない場合を想定することも行政の立場からは考え過ぎではないでしょう。
 住民の側から、大地震が発生した時とるべき行動としては、第一に身を守ることです。災害発生時の状況においても、想定される危険から身を守るのは言うまでもなく、最低でも致命傷になりうる頭部への怪我などを防止するため、日頃から机の下に隠れる・倒れやすい家具などはしっかりと固定する、といった基本的事項について意識の徹底を図るべきです。
 第二に、揺れが収まった後の避難行動です。これは当然大津波発生の恐れがあるからです。奥尻町はほとんどの集落が島の海岸線に点在しており、海抜10メートル未満の地域も少なくありません。北海道南西沖地震後は、津波被害の大きかった地区に最大高さ11メートルの防潮堤を築くなどして津波への備えをしたものの、それは当時被害があった地区に対してであって、津波の来なかった地域には施されていません。その高さの防潮堤で防ぎきれる津波しか発生するという保障はどこにもないし、これまで津波が襲ってこなかった地域も、次も必ず無事とは言えないのです。
 東日本大震災では、ハード面で守られているという安心感により避難行動が遅れたという点を指摘されているように、自分の命は自分で守るという責任感こそがこれから私たちに求められる最大のものではないでしょうか。
 奥尻島で大きな地震の揺れを感じたら、住民個人は津波から避難し自分の命を守ること、そして行政は、その避難行動が迅速に取れるよう、避難の呼びかけが確実に伝わるようにその機能を維持することが求められます。
 現在、奥尻町では各集落に防災行政無線の屋外拡声器、および全世帯に家庭用受信機が設置されています。この防災行政無線は、1980年から運用していますが、1995年に全面改修し、震度4以上の地震で自動的に緊急放送を行うシステムになっています。幸い、北海道南西沖地震後そうした事例がないため、実際の作動状況は不明ですが、せっかく整備した施設を宝の持ち腐れにしないためにも、日頃から機器の点検や運用方法の習得などの機会を充実させなければなりません。
 また、既に他の市町村で導入事例があるように、避難時の目安となるよう海抜表示板の設置も検討するべきです。


4. 結論~課題とその克服について

 ここまでは、行政と住民が過去に学んだ経験を生かすという視点でしたが、ここからは災害時にクリアしなければならない課題について検討していきます。
 仮に、19年前のように、震度6クラスの地震に加え、大津波で家屋が倒壊・流失したとしたら……。そして最大の被災地が、役場所在地の奥尻地区だったとしたら、果たして行政機能は機能するのでしょうか。
 無事に住民全員が避難行動を終えたと仮定し、その後を考えてみます。
 避難した高台から帰ると、海岸沿いに建っていた住宅は津波で流されており、それ以外の住宅においても倒壊もしくは家具が散乱しており、すぐには住むことなど到底出来そうもない。さらに電気は電柱・電線が数箇所にわたり切断されて不通。水道も水源地において土砂が堆積して取水できずに断水状態。このような状況下では、救援物資などが届くまでの1~2日ですら危機的な状態と考えられます。
 まず、ライフラインの確保が急務ですが、電気・水道・道路の復旧には重機が欠かせません。またそれら重機が町の安全な場所に確保されていることと、同じく燃料も確保されていなければなりません。そしてライフラインが復旧するまでの間、多くの人々が避難所での生活を余儀なくされるわけですから、そこでの生活を支える備蓄品がなければなりません。
 北海道南西沖地震の時の様に、被害の多くが北海道道南・奥尻島を中心として発生したものならば、救助も迅速に、かつ手厚い物資の提供を受けることができましたが、東日本大震災の様に広範囲に渡る大規模災害だとしたら(北海道全域に及ぶような)、医療や水・食料なども数日経たなければ届かないかもしれません。
 その数日間、町は自前の戦力のみで避難所の設営に、国や道などの関係機関、更には報道関係との連絡調整にあたらなければならず、それはとても容易なことではないでしょう。
 さらに、行政データの損失も非常に危惧される点です。さまざまな分野で電子化された情報が存在しますが、それらも同じ庁舎内にバックアップデータを取っているに過ぎず、庁舎自体の津波・火災による被害までを想定して対策をとっていないのです。
 このことは、避難所における備蓄品の問題と同等か、それ以上に重要な課題と言えます。
 昨年の3・11以来、防災行政が大きくクローズアップされています。
 宮城県南三陸町では、防災行政無線の発信場所であり、防災の拠点であった防災庁舎が津波による被害で多くの方が犠牲となりました。
 津波に対する意識が高かった地域でさえ、想定を遙かに超えた災害には為す術もないということがありました。
 設備等による備えについいては、ありすぎて余ることはないのでしょうが、物事には限りがあります。
 有事の際、人が真っ先に望むものは、愛する家族の安全でしょう。
 だからこそ、平常時には、万が一に備えての情報提供を継続して行うことこそが行政に求められているものだと考えます。
 奥尻町では、あの忌まわしい震災から来年で20年の節目を迎えます。
 20年という月日は、当時の生々しい状況を知る人間の中でも記憶が薄れていきます。
 行政に携わる職員においても、その当時の激務の記憶が遠ざかりつつある中、大地震が襲ってきたら果たして何人が適切な行動をとれるのでしょうか?
 災害に対する対応は、過去の固定概念にとらわれることなく、常に置かれた状況の中で適切な判断が求められます。
 地震を経験したことのない若い世代の人達は仕方ないかもしれませんが、私たち大人は決してパニックを起こさず、冷静にかつ的確に現状に対処できるよう、日々の想定訓練を積み重ねることが最大の武器になるものと考えます。
 そのためにも、防災先進地としての意識のもとに、防災セクションの人員を充実させ、行政側の機能向上を図るとともに、地域自主防災組織の実行力強化など、個人の取り組みにとどまらず町全体として防災・減災についての理解を深める活動を広げて行きたいと思います。