【自主レポート】 |
第34回兵庫自治研集会 第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~ |
2011年は全国的に大災害に見舞われた1年となりました。3月11日に東日本大震災が発生し、7月には新潟・福島豪雨、9月には台風12号の集中豪雨による災害。これらの災害で、全国で多くの方々が犠牲になりました。紀伊半島大水害と言われている台風12号の集中豪雨により大きな災害に見舞われた時、自治体職員として、また組合員として何ができたか。少しでも皆様の今後の参考になればと思い、レポートを提出します。 |
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1. 台風12号の集中豪雨による那智勝浦町の被害状況 和歌山県那智勝浦町は、和歌山県の南東部に位置し、2012年3月末の人口が17,160人、高齢化率が34.3%と高く、少子高齢化の進む典型的な過疎の町です。町の面積の87.8%を森林が占めており、残りの土地に住宅が集まっている状況であり、しかもその大半は海岸沿いに集中しています。 那智勝浦町には北部に那智川、南部に太田川と二つの河川があり、今回の災害は、この二つの河川の氾濫により大きな被害を受けたものです。 町の南部にある太田地区、下里地区を流れる太田川は、上流にあるダムの緊急放流もあり、川が大きく氾濫し、500世帯以上の家屋が床上浸水以上の被害を受けました。ひどいところでは、2階の天井まで浸水した家屋もあったそうです。ただ、幸いなことにこの地区で亡くなられた方はいらっしゃいませんでした。 一方、北部の那智山、市野々、井関、川関、天満の各地区を流れる那智川は、記録的な豪雨により河川が氾濫、また9ヵ所で土石流が発生し、多くの家屋や道路を飲み込みながら流れ出て、元の地形が全くわからなくなるほどすさまじいものでした。被災後の現地には、車より大きな石が至る所に転がっていました。土石流の大きさ、強さを物語るものでした。 この災害で、那智川沿いの各区で27人の方が亡くなり、今なお1人の方が行方不明となっています。 また、大きな被害を受けた井関区には、町指定の避難場所の井関保育所があり、当日は14人の避難者と、3人の職員がいました。この地区の自主防災組織の方が、那智川の氾濫の危険性を察知し、別の避難所に避難するよう進言し、この進言により午前1時45分すぎに職員と避難者は別の避難所へ避難しました。避難後約1時間後に、井関保育所は土石流に飲み込まれました。後日井関保育所を確認すると、床上1.5mほど浸水し、壁はなくなり、鉄骨も曲がってしまうような状況でした。もし自主防災組織からの進言がなければ、この避難所でも犠牲者が発生し、さらに被害が拡大していたかもしれません。 今回の災害では、色川地区の1人の死亡を含めて那智勝浦町では死者28人(災害関連死3人含)、行方不明者1人の大災害となりました。和歌山県全体でも、死者55人、行方不明者5人と多くの方が犠牲になっています。 |
2. 被災直後からの職員の災害対応 災害が発生したのは9月4日未明ですが、9月2日未明に大雨洪水警報が発令され、町の災害対策応急計画に基づき、9月2日から警戒態勢に入っていました。一部避難所も開設していました。台風がそれて四国地方を北上したため、3日午前には一度避難所を閉鎖しています。その後、再度雨が激しくなり、3日夕方には太田川上流のダムの水位がだんだんと上昇してきたため、18時に災害対策本部に切り替え、警戒していました。このころはダムの放流による太田川の氾濫を警戒しており、正直なところ、那智川流域で土砂崩れ、土石流等でここまで大きな被害が発生するとは想像もしませんでした。その後の被害の概要は上記のとおりです。 また、台風12号のあと、2011年12月までに計7回の警戒態勢をとっています。表1のとおり避難指示、避難勧告、避難準備情報等を発令しました。特に9月19日から21日の台風15号では、那智勝浦町で初めて「警戒区域」の指定を行いました。避難準備情報→避難勧告→避難指示の順に強くなっていくのですが、いずれも強制力はありません。強制的に避難させることはできません。しかし、警戒区域に指定されると、その区域から必ず退去しなければなりません。最後まで避難を拒否した方がおられましたが、最後は町長が説得に出向き、一緒に退去したことがありました。 今回の災害に関して、大変だったことを言いだせばきりがないです。被災された住民のために、ひたすら自分に与えられた業務をこなしていました。 |
3. 被災後の組合活動 (1) 和歌山県本部、県内各単組、全国の単組の仲間からの支援 そのような状況の中、自治労和歌山県本部を始めとした県内の各単組の仲間が、我々の支援に動き始めてくれました。9月8日から各単組からの支援者が集まり、災害対応の応援をしていただきました。和歌山県本部の方には9月7日から那智勝浦町に常駐していただき、各単組からの応援職員の人数のとりまとめ、派遣日の割り振り等応援職員に関するすべてのコーディネートをしていただきました。3人から12人を1グループとして、3日間活動をしていただいて次のグループに引き継ぐシステムで、10月1日まで10グループと、スポット的にごみ収集の支援をいただいた現業職の方々と併せて167人に応援職員として支援をいただきました。延べ人数にすると、300人を超えます。9月4日の災害発生から休む間もなく作業にあたっていた我々にとって、同じ仲間の支援はとてもありがたかったです。厳しい状況におかれていた我々にとって、仲間の大切さ、ありがたさを身にしみて感じた本当にありがたい支援でした。 また、人的支援以外にも、自治労近畿地連を中心に、全国の仲間から見舞金をいただきました。和歌山県本部から分配された見舞金と直接那智勝浦町職員組合にいただいたお金と併せて200万円もの見舞金をいただきました。いただいた見舞金は、被災した職員へ罹災度に応じて支給させていただきました。 (2) 組合活動の再開 4. まとめ 今回の災害を体験し、私が課題と思われること、感じたことを述べたいと思います。 |