【自主レポート】 |
第34回兵庫自治研集会 第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~ |
強烈な労働組合バッシングを経験した大阪市職が、市民とともに公共サービスのあり方を考えるため、まちに出てまちの真の姿を知る取り組みを始めた。東成区今里地域における防災まちづくり活動への市職組合員の参画は、緒についたばかりではあるが、「役所の人」では見えなかった地域の「感覚」を少しづつ吸収しつつある。本論では、この約3年間の取り組みについて振り返る。 |
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1. 活動にいたる背景と経過
(1) なぜ労働組合が地域の防災まちづくり活動に?
(2) 私たちが“踏み出した”まち |
2. 第1段階 市労連・市職による地域の防災まちづくりへの参画
(1) 地域とともに学ぶ防災まちづくり フォーラムは、大阪人間科学大学の片寄俊秀教授による講演と、住民・コンサルタント・研究者・組合役員など、多彩な顔ぶれによるパネルディスカッションによって構成された。 このフォーラムで確認されたものは、「労働組合が地域の防災まちづくりに今後とも参画していくこと」のみであったが、このフォーラムで講師やパネリストから提起された意見は、今後の活動においてヒントを与え続けていくものとなった。 ② 東京・横浜の防災まちづくり事例に学ぶ 東京都墨田区向島では、「路地尊」という、雨水の貯水機能を持ったストリートファニチャーを設けている。そして、当地の防災まちづくりは「路地尊」の名とともに全国的に知られている。先述の地域フォーラムの講演において片寄教授から、「今里に路地尊をつくってみないか?」と呼びかけがあり、師の人脈をもとに交流が実現した。 一方、横浜市西区西戸部においては、私たちが訪れる1年ほど前から、横浜市の支援制度を活用して町内に雨水の貯水タンクや、せせらぎの設置などを展開している。こちらへの訪問は、今里の活動に参加している市職組合員が、行政マンの人的ネットワークをもとに、横浜市役所の協力を得て実現したものである。 訪問先としてこの2つのまちを選んだのは、防災まちづくり活動に歴史があって全国的に有名な地域と、今まさに活動が本格化しようとしている地域の両方の話を聞くことが、これからの今里での活動を考える上で重要と考えたからである。また、この2つの地域には、防災まちづくりの啓発と、いざというときのための生活用水の確保を目的として、「水」に着目して防災まちづくりにとりくんでいる共通点がある。 この見学行では、いずれの地域も「防災」という堅いテーマを、活動では実に柔らかく表現されていることに感心した。また、活動している人から多くのパワーいただいて帰阪した。 なお、この活動を境に、組合の参画主体が市労連中心から市職中心へと引き継がれた。 ③ 今里での防災まちづくりの展開を考える 私たちには思ってもみない言葉であったが、これがまちで暮らす人の「感覚」なのであろう。もっとも、こうした「感覚」を得て蓄積することが、この一連の活動で得るべきことであるということを、これによって再認識することができた。そして、後日に何度か地域の方と市職のメンバーで今後の活動について話し合いを行い、次のような方向性を確認した。 この「せせらぎ」とは、横浜市西区西戸部地域で見せていただいたもので、地下に貯めた雨水を井戸で汲み出し、せせらぎ状の水路へ流すという、大がかりなストリートファニチャーである。横浜市の支援を受けつつも、多くが住民の手によって施工されており、そのプロセスもあって地域へのインパクトは高く感じられた。そして、「今里にもこういったものが必要ではないか」というのが、横浜への見学に参加した者の共通認識となった。 とはいえ、適当な設置場所が今里に用意されているわけではないし、当然、設置にはそれなりの費用も必要となる。インターネットで検索すると、そういった公益活動への助成制度も用意されているが「活動目標がしっかりとしていない段階から、既製の助成制度に乗ることは望ましくない」という片寄先生の助言もあった。熱が冷めないうちに形にすることも大事だが、せせらぎ作りを目的化するのではなく、「せせらぎを作る」という共通目標を通して、小さな活動を積み上げていくという、プロセスが重要であるという結論に至った。
(2) 外の目で防災まちづくりを考えてみる ワークショップでは、密集市街地の防災課題の“定番”ともいえる「いえ」や「みち」の改善提案が多くあったが、特徴的だったのは、「井戸などの『水源』の復活・再認識が必要」という案であった。というのも、フィールドワークの際、今里のまちの方々の多くが、水路や池や井戸など「水」にまつわる話をされていたため、印象が強かったものと思われる。しかしこれで、今里に「せせらぎ」を作ることへの“必然性”のようなものを見いだせたようにも思えた。 ② 活動をまとめた冊子づくり 「アイデア」は、次のような3タイプで整理した。①「まちの中に防災まちづくりの大切さを広める活動の提案」…イベントや広報、シンボリックなものを設けることなど。②「地震被害を小さくするための修復型まちづくりの提案」…建物の補修や路地を広く使うためのルールづくりなど。③「災害から早期に復興するための事前の“約束ごと”の提案」…避難生活期間における協定づくりなど。 「よそ者」の私たちとしては、「このアイデアが、今後のまちづくり活動のヒントになれば…」という願いを込めて、2008年12月に今里町会へ相当部数を配布させてもらった。 |
3. 第2段階 市職メンバーによる「ゼミ」のような取り組み
(1) 防災まちづくりのアプローチを変えてみる この活動には、かなりの時間を要すると考えていた。しかし、大阪市政調査会の研究員である西部均氏の登場により、あっさりと今里の全ての小字の位置が判明することとなった。西部氏は、歴史地理学の研究者であることから、この手の作業は朝飯前のようだ。 復元を試みたのは小字だけではない。市職のメンバーが、古い地図や献資料を探し出して、今里の昔の姿を掘り下げる取り組みも行っている。会合では、昔の今里の姿に思いをはせながら、古い地図や資料を囲んでワイワイやる、といった雰囲気だ。そこでは、これまでに発見された昭和初期の地番図に、今里の現況図を重ね合わせてみたりもした。すると、曲線的な道の多くは水路と一致し、いくつかの場所では、池の形状を残したまま宅地化が図られているなど、まちの基本的な形状は、今でも大きく変化していないことが理解できた。 なお、ここでも、西部氏が私たちの活動に全面的に協力してくれたおかげで、いろいろな発見に至ることができた。なかでも、このあたりは水路・池が多かったことに加え、旧大和川水系のいくつもの分流が今里交差点の付近で合流しているなど、今里のまちはかつて「水郷」であったことが分かった。そう言われると、以前のフィールドワークで見つけた井戸には、今でも美しい地下水を満々とたたえていたことを思い出した。
(2) 歴史研究の成果を防災まちづくりへ 12月には、今里小学校で行われた地域のもちつき大会に、市職でブースを出展した。小字を記した昔の今里の地図を広げ、来場者に「うちの家の小字は何だ?」とやってもらいながら、昔の今里についてあれこれ教えてもらおうというのが目的だ。また、蓄音機で昭和の名曲を聴かせる活動をされている大阪市史編纂所研究員の古川武志さんを招き、市職ブースの横で実演をしていただき、ブースへの“集客力アップ”も図った。このとき、おばあさんが、わざわざ家に戻って昔の写真を持ってきてくれたことがとても印象深い。 また、もちつき大会の際には、私たちの活動紹介と、昔の写真や資料の提供を呼び掛けるビラを配っていたのだが、後日これを今里町会の方々の手によって、全戸に配布していただいた。 これらの取り組みにより、歴史研究は深まりを見せるとともに、私たちの活動が、わずかながら今里地域の中に広まりつつあるように感じられてきた。 |
4. わたしたちの取り組み「これまで」と「これから」
(1)「せせらぎの模型」がどうしてできたのか 模型を作るためには、まずは広場の図面が必要となるが、そのためには測量から行わなければならない。市職メンバーには土木技術職の者が数名いるため、実地測量から図化までは可能だ。しかし、測量には機器が必要となる。そこで、今里町会の役員に測量機器のリース業を営んでいる方がいたため、それを無償で貸してもらうことができた。そして、最後は模型づくりであるが、この取り組みの中心メンバーである町会長が、マンションのモデルルームなどにある、あの「模型」の製作業を営んでいることから、材料代も含めて無償で製作してくれたのだ。 これだけの面々が揃ったこと自体が奇跡とも言えるが、かくして、広場の立派な模型は、誰も過度な負担することなく、もちろん公費や組合費を使うことなく完成したのである。ほんの些細な出来事ではあるが、これが巷で流行している「協働」の姿ではないだろうか。
(2)「これまで」と「これから」 |