(2) 「えがお」の大切さを胸に (N.S 男性 児童養護施設保育士)
私自身、「震災で大変な中、自分達が行って笑顔を見せてくれるのだろうか。」という不安な気持ちも正直ありました。しかし、保育所・児童館・仮設住宅の集会所に行くと皆さんが、温かく私たちを迎え入れてくれました。劇や歌のプログラムを真剣に見てくれ、プログラム中に見せてくれる笑顔を見て、「来てよかった。」ととても嬉しい気持ちになりました。そんな中、スタッフ全員で「しあわせ運べるように」を歌った際に、おそらく初めて聞いた方がほとんどだったと思うのですが、大人の方は涙を流して聞いてくださり、子ども達も歌詞の内容は全て分っていないかもしれませんが、曲の気持ちが伝わっているからか静かに真剣に聞いてくれている姿を見て、とても胸が熱くなりました。
今、東北の方々の心の中には様々なつらい思いがあるけれど、それでも少しずつ前に進んでいこうという気持ちを感じました。そのためには、やはり“えがお”が不可欠で、“えがお”があるから気持ちが明るく前向きになり、前に進んでいけるのだと思いました。私自身、今回、プロジェクトを通じて、少しかもしれませんが“えがお”を被災地の方に届けることができたのであれば幸いです。
(3) 子どもたちと楽しい時間を過ごせたことを忘れない(T.K 女性 保育所保育士)
「えがおのお返しプロジェクト」のお話を頂いたとき、「この私に何ができるのだろう……神戸市保育士の代表として行って大丈夫なのか」、そして出発の一週間前の顔合わせ&練習会では、ドキドキしながら参加しました。「楽しそうな企画ではあるが、出発までに準備や練習は間に合うのであろうか……」という不安がたくさんありました。しかし、8人の力とアイデアなどで、だいたいの見通しを持つことができ、期待と少しの不安を持って出発しました。一番心に残っている場所は、ある仮設住宅で小学校高学年の子どもの多いところでした。舞台の準備をしていると、周りで走りまわり、始まると舞台裏をのぞきこんだり、騒いだり、私たちの演出が終わるとすぐに外に出てしまい……でも、それは帰ったのではなく、外で私たちを待ってくれていたのです。
「ぼくのゆりあげ小学校は、津波で一階は流されて無いの。でも、階段は残ってる。」一人の少年が声をかけてくれました。生々しい現実を聞き、「大変やったね……これからも、大変やと思うけど頑張ってね。」としか声をかけられませんでした。車に乗ると、違う少年が、「また、来てね。絶対来てね。絶対やで。また、一緒に楽しいことしようね。」と、言って見送ってくれました。車に乗り込もうとする子もいました。つらい現実を目の当たりにし、本当に胸が痛くなりました。と共に、そのつらい現実を乗り越えようとしている子どもたちと一緒に、楽しい時間を過ごせたかなと感じました。
被災の現場を見たり、被災者の方と関わることで、本当にいろんな感情がわき、いい経験をさせていただきました。東北にボランティアに行くことが出来たのは、たくさんの方々の支援のおかげだと心から感じ、本当に感謝しています。機会があるのであれば、ぜひまた行きたいと思っています。
(4) 名取を訪れて(M.Y 女性 保育所保育士)
「一階は柱しかなかった」「お姉ちゃんのブーツが片方だけ看板のところにひっかかってた」―たいしたことではない、というようにさらりと言ったその子はどれほど大きな不安や恐怖、悲しみを抱き続けているのだろう……この3ヶ月もの間、そしてこの先もしばらく……。直接耳にしたその言葉は予想以上に衝撃で、何も言葉を返せませんでした。
プログラムを観たり参加してくださった人々からたくさんの笑顔や拍手、涙をいただき、このひと時だけでもつらいことを忘れて元気になってもらえたならよかった、と思う一方で、多くのかけがえのないものを失われた人々に私たちができることは本当に少なく、限られたことしかないんだ、とも感じました。だからこそ一時の支援だけではなく、今この時も困難に立ち向かっている人たちがいるということを心に留め思いを馳せること、そしてもし今神戸で同じことが起きたら保育所として、個人としてどうするべきかを予測し話し合い備えておくことが、私にできることだと考えています。
『神戸がここまで復興したように、傷ついた東北もきっと元の姿を取り戻せます。皆が応援しています』というメッセージを送り続けたいです。
4. まとめにかえて
(1) 3・11に1・17のことがよみがえった
阪神・淡路大震災から18年が経過しました。震災当時、JR線の南にある兵庫区の小河保育所に勤務していました。JR線は不通となり、西明石駅から西神中央までバス、そして、そこから地下鉄にのり板宿駅で下車、そして保育所まで歩いていました。その途中、長田区役所の近くに北海道、青森、鹿児島、沖縄をはじめ他都市から消火に駆けつけてくれた消防車の駐車場がありました。堂々と居並ぶ消防車を見て、胸が熱くなって涙が止まらなかったことを今もしっかり覚えています。
保育所には全国から粉ミルクや紙オムツなどの物資を送ってくださいました。震災から数年たっても玩具などが保育所に届き、いつもでも私たちは支援されているんだ。多くの方に支えられているんだと実感しました。
その気持ちが、東日本大震災を前にして「何かをしなければ……」という気持ちに駆り立てられていきました。何度も流れるテレビの映像に、あの日の自分たちの姿を見ていたのだと思います。その思いが、この取り組みをしようという動機になったことは間違いありません。
(2) 震災体験を次の世代に伝えたい
震災から18年がたちました。神戸市民の3分の1の方が震災を経験していません。もちろん職員も同様で半数近くが震災を経験していません。神戸市では市職労が中心となって、多くの被災地に支援のボランティアを派遣しています。組合というより神戸市職員の代表として被災地に赴きます。やはり肌で、体で自然災害の猛威を感じ、自分の力を出し切って被災地の方々のために汗を流す、そのことで「誰かの役にたつ」喜びや力を合わせて取り組むことの大切さを感じることができます。被災地の被災者のみなさんから必ず言われることがあります。「神戸から来てくれたのですか、元気が出ます」「あのとき神戸に私も支援に行きました」と声がかかります。東北でも「早く神戸のように復興したい」と被災者のみなさんから力強い言葉が出てきます。避難生活で疲れているなかでも「神戸から来た」とわかるとみなさんが寄ってきてくれます。「神戸」という文字や言葉の響きが、被災者同士の心をつなぐ絆になっているのでしょうか。
今回の取り組みに参加したメンバーの中にも震災を経験したことがないものが半数います。しかし、彼らは「神戸」という言葉の持つ意味を被災地支援活動のなかで感じ取ったことでしょう。震災を経験した私たちも退職によって神戸市役所を去っていきます。しかし、若い職員が、自ら進んで被災地支援活動に参加する姿を見て、心強く思います。
国内外で自然災害が起こらないように願っています。でもいったん起これば、真っ先に駆けつけて被災地や被災者を励ます「神戸」であり続けたいと思います。 |