【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~

 16年前の阪神・淡路大震災では、たくさんの保育所・園が全壊・半壊などの被害を受け、子どもたちも保護者も大変な思いをしました。先の見えない不安感や焦燥感の中で、助けてくれたのは全国の方々の真心でした。全国から贈られた笑顔によって、つらい日々も明るく乗り越えられたのだと思います。いま、毎日懸命に生活している東北の子どもたちに、ほんのひと時でも笑顔になれる機会を届けたい、あの時、私たちが支えてもらったように、やさしい気持ちで包んであげたい、そう思って立ち上げたプロジェクトの報告です。



あの時、たくさんの真心をありがとう 
神戸から東北の子どもたちに、今度は私たちから伝えたい 「えがおのお返しプロジェクト」報告

兵庫県本部/神戸市職員労働組合・民生支部 三浦  薫

1. 「えがおのお返しプロジェクト」概要

① 目  的  東日本大震災の中で懸命に生きる子どもたちに、笑顔になれる機会を提供し、リフレッシュしてもらう。
② 日  時  2011年6月9日(木)から12日(日)※現地での活動は10、11日の2日間
③ 内  容  乳幼児から小学校低学年くらいまでの子どもたちが楽しめるリズム・歌あそび
 ・ ピエロの登場
 ・ タングラムで遊ぼう
 ・ あいさつ
 ・ お芝居 三びきの子ぶた
 ・ ピエロの登場 手遊び
 ・ マーチングバンド(聖者の行進の演奏) みんなで歌おう(アンパンマン・ふるさと)
 ・ 合唱 しあわせ運べるように
④ 訪 問 先  名取市内の保育園2箇所、児童館1箇所、子育てサークル1箇所、仮設住宅集会所3箇所、名取市役所、合計8箇所
⑤ メンバー  神戸市の保育所で働く保育士を中心に9人

2. 現地活動報告

(1) 「しあわせ運べるように」―保育所での活動―
 2箇所の保育所とも3、4、5歳児が見てくれました。「タングラムであそぼう」が終わり、「三びきの子ぶた」が始まるくらいから集中してみてくれました。一番驚いたのは、プログラムの最後に「しあわせ運べるように」を歌うのですが、合唱が始まると、子ども達が身じろぎもせずに聞き入っていたことです。先生たちも涙眼になって聞いていましたが、子ども達が真剣に聞いている姿をみて、この歌のすごさとこの地でこの歌を歌うことの重さを実感しました。同時に、子ども達にほんの一瞬でも、心の底から楽しいと思ってもらえる時間と場を作ること。そして、歌を通じて「君はひとりじゃない。僕らがいる、たくさんの仲間がいる。だから希望を忘れないで」というメッセージを送ることというプロジェクトの意義を胸に刻みました。

(2) 「命がけで子どもを守った」―災害対策本部にて手倉田保育所の皆さんとの懇談(石川所長さんの話)―
 津波で流された閖上(ゆりあげ)保育所の子どもたち16人が、手倉田保育所に4月から転所している。津波で大変な思いをし、家を失うなど大きな環境の変化があった上に、保育所として閖上は60人定員と小規模だが、ここは大規模ということで、保育所の生活にも大きな変化があった。そんな子どもたちもやっと手倉田保育所の生活になれてきて、6月くらいからやっと落ち着いた時に皆さんに来てもらった。なにか節目という
か、気持ちの切り替えが欲しいと思っていた、絶妙のタイミングだった。これがもう少し早くても、また遅くても、今日のような楽しむ感じにはならなかったかもしれない。
  被災した閖上保育所では、2時46分に大きなゆれを感じ、ちょうどお昼寝が終わりかけのときだった。すぐに子どもを起こし、パジャマの上から服を着せ、おしめがぬれていても着替えさせず、とにかく急いで避難をさせた。保育所は津波にのまれたが、避難した閖上小学校も2階まで津波がきて、丸2日間孤立して3日目にようやく自衛隊に救助された。その間、保育士は子どもたちだけでなく、住民のケアにも当らなければならず、ずぶぬれになって避難してきた人もいて、本当に命がけで子どもや住民を守ったと思う。
 そんな体験をしてきた子どもたちを受け入れ、安心できるように、無我夢中で保育をしてきた。普段から子どもたちによりよいものを提供しようと心がけてきたが、今日の皆さんの役になりきって演じている姿を見て、すばらしい保育を子どもたちに伝えてもらったと思っている。本当にありがたかった。


(3) 一緒に歌った「ふるさと」―仮設住宅集会所―
 仮設住宅の集会所では3箇所で公演しました。立ち並ぶ仮設住宅を見た瞬間に、私たちも16年前を思い出し、胸が詰まる思いになってしまいました。箱塚さくら仮設住宅では、夕方の5時前ということもあり、外で遊んでいた子ども達やお年寄りの方とかも集まって集会所は一杯でした。高学年の子どももいて、最初は演目が幼くてちょっと退屈そう(小ばかにした態度というべきか)でしたが、次第にこちらの演技に引付けられていく様子が分かりました。最後に「ふるさと」を一緒に歌い「しあわせ運べるように」に移っていくのですが、何人かの大人が涙を流して、子ども達も真剣に聞いていました。
 高学年の子ども達は、地震、津波の中で人の生死を見、避難所での不自由な暮らしや大人の世界のいやな部分も見ただろうし、普通の子どもなら体験しないことを全身で受け止めて過ごしてきたのではないかと思います。突然来たグループに心を開かないのも当然で、横を向いているほうが自然です。でも大の大人が真剣に演じているのを見ながら、だんだんと体が正面を向いていく様子に、本当にいい子達だなと実感しました。

(4) 子育てサークルとの交流
 2日目午後は増田西公民館で、子育てサークルの親子30人ほどと交流しました。ほとんどが0歳1歳のベビーだったので、「タングラムで遊ぼう」の他は親子でできるリズム遊びを臨機応変に行いました。神戸から保育士がくるという話を聞いて、初めてこのサークルに来た方も数組いらっしゃいました。閖上保育所に子どもを預けていたというお母さんもおられて、「2日間は子どもに会えず、不安でたまらなかったです」とおっしゃっていました。ゆっくり話を聞ければよかったのですが、次に行かねばならず心残りでした。何人かのお母さんがずっと見送ってくださり、わずかの訪問でもきっと意味があったのだと思えました。


3. プロジェクトを終えてー参加者の感想―

 20代の若い職員を被災地に派遣することで、災害に対し子ども達の命をどう守っていくかという自治体職員の使命と、「被災地支援の重要性」を理解してもらえたのではないかと思いました。

(1) 子どもの心のケアの必要性を強く感じ(K.M 男性 児童自立施設職員)
 今回のプログラムに参加させていただいたことで、子どもたちの笑顔と、震災の被害の実情を見ることができ、非常にいい経験ができました。
 仙台から車で名取へ向かう際、周りを見ながら車を走らせていると、道がでこぼこだったり、ところどころ壊れているところがあったりと、震災の爪痕がはっきりと残っているところもあり、本当にここで地震があったのだということを実感し始めました。プログラム自体はどこでも盛況で、どこの子どもたちも、我々のプログラムを楽しんでくれていたようでした。また、毎回最後に『しあわせ運べるように』を歌わせていただきましたが、大人の方は皆、涙しながら聞かれていて、こちらも心にこみ上げるものがありました。初日の夕方には被害の大きかった地域を見せていただきましたが、家はほとんど流され、船は打ち上げられ、かろうじて流
されず残った建物も、一階は柱しかないなど、その光景は無残としかいえない状況でした。
  今回の活動でもっとも印象的だったのは、初日の最後に行った避難所の子どもたちの様子でした。出会って間もないのに私たちに甘えてベッタリの子、私たちの邪魔をしたり、ちょっと悪態をついたりしながらも私たちから離れない子、帰る準備ができて、車を発進しても離れない子どもたち。その様子を見ていると「親御さんに甘えられていないのだろうか」「かなり辛い思いをしてきたのだろう」と感じ、こういった子たちに対する心理的なケアの必要性を感じました。


(2) 「えがお」の大切さを胸に (N.S 男性 児童養護施設保育士)
 私自身、「震災で大変な中、自分達が行って笑顔を見せてくれるのだろうか。」という不安な気持ちも正直ありました。しかし、保育所・児童館・仮設住宅の集会所に行くと皆さんが、温かく私たちを迎え入れてくれました。劇や歌のプログラムを真剣に見てくれ、プログラム中に見せてくれる笑顔を見て、「来てよかった。」ととても嬉しい気持ちになりました。そんな中、スタッフ全員で「しあわせ運べるように」を歌った際に、おそらく初めて聞いた方がほとんどだったと思うのですが、大人の方は涙を流して聞いてくださり、子ども達も歌詞の内容は全て分っていないかもしれませんが、曲の気持ちが伝わっているからか静かに真剣に聞いてくれている姿を見て、とても胸が熱くなりました。
 今、東北の方々の心の中には様々なつらい思いがあるけれど、それでも少しずつ前に進んでいこうという気持ちを感じました。そのためには、やはり“えがお”が不可欠で、“えがお”があるから気持ちが明るく前向きになり、前に進んでいけるのだと思いました。私自身、今回、プロジェクトを通じて、少しかもしれませんが“えがお”を被災地の方に届けることができたのであれば幸いです。

(3) 子どもたちと楽しい時間を過ごせたことを忘れない(T.K 女性 保育所保育士)
 「えがおのお返しプロジェクト」のお話を頂いたとき、「この私に何ができるのだろう……神戸市保育士の代表として行って大丈夫なのか」、そして出発の一週間前の顔合わせ&練習会では、ドキドキしながら参加しました。「楽しそうな企画ではあるが、出発までに準備や練習は間に合うのであろうか……」という不安がたくさんありました。しかし、8人の力とアイデアなどで、だいたいの見通しを持つことができ、期待と少しの不安を持って出発しました。一番心に残っている場所は、ある仮設住宅で小学校高学年の子どもの多いところでした。舞台の準備をしていると、周りで走りまわり、始まると舞台裏をのぞきこんだり、騒いだり、私たちの演出が終わるとすぐに外に出てしまい……でも、それは帰ったのではなく、外で私たちを待ってくれていたのです。
 「ぼくのゆりあげ小学校は、津波で一階は流されて無いの。でも、階段は残ってる。」一人の少年が声をかけてくれました。生々しい現実を聞き、「大変やったね……これからも、大変やと思うけど頑張ってね。」としか声をかけられませんでした。車に乗ると、違う少年が、「また、来てね。絶対来てね。絶対やで。また、一緒に楽しいことしようね。」と、言って見送ってくれました。車に乗り込もうとする子もいました。つらい現実を目の当たりにし、本当に胸が痛くなりました。と共に、そのつらい現実を乗り越えようとしている子どもたちと一緒に、楽しい時間を過ごせたかなと感じました。
 被災の現場を見たり、被災者の方と関わることで、本当にいろんな感情がわき、いい経験をさせていただきました。東北にボランティアに行くことが出来たのは、たくさんの方々の支援のおかげだと心から感じ、本当に感謝しています。機会があるのであれば、ぜひまた行きたいと思っています。

(4) 名取を訪れて(M.Y 女性 保育所保育士)
 「一階は柱しかなかった」「お姉ちゃんのブーツが片方だけ看板のところにひっかかってた」―たいしたことではない、というようにさらりと言ったその子はどれほど大きな不安や恐怖、悲しみを抱き続けているのだろう……この3ヶ月もの間、そしてこの先もしばらく……。直接耳にしたその言葉は予想以上に衝撃で、何も言葉を返せませんでした。
 プログラムを観たり参加してくださった人々からたくさんの笑顔や拍手、涙をいただき、このひと時だけでもつらいことを忘れて元気になってもらえたならよかった、と思う一方で、多くのかけがえのないものを失われた人々に私たちができることは本当に少なく、限られたことしかないんだ、とも感じました。だからこそ一時の支援だけではなく、今この時も困難に立ち向かっている人たちがいるということを心に留め思いを馳せること、そしてもし今神戸で同じことが起きたら保育所として、個人としてどうするべきかを予測し話し合い備えておくことが、私にできることだと考えています。
 『神戸がここまで復興したように、傷ついた東北もきっと元の姿を取り戻せます。皆が応援しています』というメッセージを送り続けたいです。

4. まとめにかえて

(1) 3・11に1・17のことがよみがえった
 阪神・淡路大震災から18年が経過しました。震災当時、JR線の南にある兵庫区の小河保育所に勤務していました。JR線は不通となり、西明石駅から西神中央までバス、そして、そこから地下鉄にのり板宿駅で下車、そして保育所まで歩いていました。その途中、長田区役所の近くに北海道、青森、鹿児島、沖縄をはじめ他都市から消火に駆けつけてくれた消防車の駐車場がありました。堂々と居並ぶ消防車を見て、胸が熱くなって涙が止まらなかったことを今もしっかり覚えています。
 保育所には全国から粉ミルクや紙オムツなどの物資を送ってくださいました。震災から数年たっても玩具などが保育所に届き、いつもでも私たちは支援されているんだ。多くの方に支えられているんだと実感しました。
 その気持ちが、東日本大震災を前にして「何かをしなければ……」という気持ちに駆り立てられていきました。何度も流れるテレビの映像に、あの日の自分たちの姿を見ていたのだと思います。その思いが、この取り組みをしようという動機になったことは間違いありません。

(2) 震災体験を次の世代に伝えたい
 震災から18年がたちました。神戸市民の3分の1の方が震災を経験していません。もちろん職員も同様で半数近くが震災を経験していません。神戸市では市職労が中心となって、多くの被災地に支援のボランティアを派遣しています。組合というより神戸市職員の代表として被災地に赴きます。やはり肌で、体で自然災害の猛威を感じ、自分の力を出し切って被災地の方々のために汗を流す、そのことで「誰かの役にたつ」喜びや力を合わせて取り組むことの大切さを感じることができます。被災地の被災者のみなさんから必ず言われることがあります。「神戸から来てくれたのですか、元気が出ます」「あのとき神戸に私も支援に行きました」と声がかかります。東北でも「早く神戸のように復興したい」と被災者のみなさんから力強い言葉が出てきます。避難生活で疲れているなかでも「神戸から来た」とわかるとみなさんが寄ってきてくれます。「神戸」という文字や言葉の響きが、被災者同士の心をつなぐ絆になっているのでしょうか。
 今回の取り組みに参加したメンバーの中にも震災を経験したことがないものが半数います。しかし、彼らは「神戸」という言葉の持つ意味を被災地支援活動のなかで感じ取ったことでしょう。震災を経験した私たちも退職によって神戸市役所を去っていきます。しかし、若い職員が、自ら進んで被災地支援活動に参加する姿を見て、心強く思います。
 国内外で自然災害が起こらないように願っています。でもいったん起これば、真っ先に駆けつけて被災地や被災者を励ます「神戸」であり続けたいと思います。