【自主レポート】 |
第34回兵庫自治研集会 第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~ |
自治労の東日本大震災支援活動に参加・経験により、自治体職員として復興支援のあり方に多くのことを学ぶことができた。その経験を基に今後どのような支援・応援ができるかコミュニティのあり方を含め、被災地だけの問題とせずに全ての自治体の課題として考えるべきと課題と捉え報告する。 |
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1. 被災地 石巻へ
5月21日は早朝玖珠を出発し福岡空港→羽田空港→東京駅→仙台駅と、飛行機と新幹線を乗り継ぎバスで仙台→石巻市→松島ベースキャンプまで移動した。
22日は7時にバスでベースキャンプを出発。松島海岸から鳴瀬奥松島まで高速を通行し石巻市内に入る。高速道路の損失はないが、川には船が転覆し大木が根こそぎ流されていた。この日は石巻市の旧市役所で500箱ぐらいの思い出品を写真、位牌、貴重品、その他に分類、整理できたものから展示する業務を支援した。23日から展示予定は、写真は洗浄して展示できる準備ができたものが2割程度であった。作業は午前で終了したのでベースキャンプへの帰りにバスで石巻市の海岸を回って帰った。
車窓から見る風景は残った家が点々とあるものの未だに瓦礫と広い平野があるだけ……。海岸添いに瓦礫をかなりの高さに積んで堤防のようになっていた。
リーダー会議後、子どもが集まっていたのでバルーンアートで交流。子どもも親もスタッフも喜んでくれて正解であった。特に看護師さんからは、「素晴らしい」とのお褒めの言葉をいただいた(ちなみにこの看護師さんは石巻市民病院の方でまわりの建物がほぼ流されるなか屋上で5日間救助を待ったとのこと)。ただ、収集がつかなくなりはじめたので、子どもらと明後日またやると約束して今日は20時で終了。21時30分に消灯した後で、リーダーのまとめ役の人と話す機会があり。「市長は避難所に一度も来てない、まったく頼りにならないと非難されていた」「市役所職員は精一杯やってるけど、かなり亡くなった方もいるらしく機能していない」「仮設住宅や罹災証明などの業務もあり、一時金はまだでていない。」など色々な話を聞く。見回りの後、本部スタッフで本日の情報共有化を行い、22時からは油布氏と2人で本部を任された。
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2. 避難所勤務2日目 25日8時青葉中着。山口県本部からの引継ぎを受ける。避難所では日々いろんな出来事が起きているが、体育館のおじいさんが子どもの靴を捨てる事件について、今朝おじいさんが来て「今日は靴は各自持ち帰っておりきれいだった。200点満点だ」と言って帰ったとのこと。体育館リーダーが寝る前の靴の片付け、朝の掃除をローテとしたようでひとまず解決したようだ。赤ちゃんの泣き声について、そもそも体育館A~D班のうち、B班だけが孤立し、ギクシャクしていることに端を発した問題らしい。(コミュニティが壊れはじめている。みなさん限界に近いのだ)赤ちゃんの母親が朝方泣き出した赤ちゃんを本部の前であやしている光景もあり、別にしてあげたい……が、他の部屋にも赤ちゃんはいるけど誰も文句はつけていない。とても難しい問題であり引き続きリーダー会議で根本的な解決にむけて協議することにした。 |
3. 体育館に洋式トイレがない 時間を見つけて油布氏と一緒に2階の部屋で避難者女性3人に津波の時の話など30分ほど貴重な話を聞きました。その中でおばちゃんから「避難部屋のすぐ近くに洋式トイレがあって助かった」という話があった。
高齢で膝が悪い人には和式の立ったりしゃがんだりの動作はつらいものである。早速、中学校内のトイレを調査したところ洋式トイレは2階に男女1つずつ、1階女子1つだけで体育館はすべて和式であった。また、グラウンドの自衛隊仮設トイレもすべて和式(臭すぎて使用できない)であることが判明した。体育館は高齢者も多く、和式でよく我慢していたと思う。
今後避難者が減れば校舎から体育館におばちゃんを含めて移動する可能性が高いと思われる。市役所に簡易設置の洋式トイレを付けてもらうことを本部会議で提案したいと思い資料集めを始めた。まず、玖珠町役場福祉保健課に問い合わせて仮設洋式トイレのカタログをFAXでおくってもらい、カタログを見ながらトイレの寸法を図るが新たに問題を発見。内開きの扉のため、洋式トイレが引っ掛かり中に入れなくなることや扉を外開きに変える必要があり、玖珠町役場財政課に電話して組合要求でやったトイレ工事の内訳を教えてもらう。外開き改修はおよそ5万円。教頭に事情を話すと、「私も洋式がいっがら、ぜひかえでぐださい」とOKをいただく。さっそく石巻市役所に電話するがずっと通話中……。では、直談判しようと仮眠タイムを利用し、自転車で一路石巻市役所をめざした。強い風と埃に苦しみながら30分で到着。避難所担当の保護課で、高齢者が多く和式では不可能な方がいること、いずれ避難者は体育館へ集約される予定であること、学校の許可は得ていること、さらにカタログと製品、外開き工事の概算額を伝え、対応を求めたが、担当者からは「他の避難所でもあり得ることなので……ただ予算が必要なのですぐにはわかりません……。」少しお役所仕事では(疑問)と感じたが、自分が担当だったら同じ回答になるかもしれないし相当な激務なはずだと思い直し、話題を変えて勤務の状況を聞くと、担当者はほとんど休みは取れておらず市役所で寝泊まりしているとのこと。「難しいならトイレの製品送りますから! 自治体職員として心から応援しますよ。ともに頑張りましょう!」と精一杯激励し、市役所を後にした。その後、ボランティアセンターへ様子を見に立ち寄った。500人がテントで寝泊まりしボランティアにあたっていた。チャンスがあれば期間中、純粋にボランティアに参加したいと思った。それから石巻の漁港あたりをまわり、改めて津波の破壊力を、脅威を感じ、光景に言葉を失った。3時間の自転車こぎで油布氏疲れ切り、仮眠。私はリーダー会議で洋式トイレの件を提案し、異論は出なかったので明日正式に要望することになった。また、赤ちゃん問題については夜だけ印刷室を使う許可を得たことをリーダーに連絡。しかし人間関係の問題で、文句をいう方も赤ちゃんの親も気が強く、意地でも出ていかないのではとのことであった。しかし、一応選択肢として別の部屋を用意したということで落としどころとした。今回は洋式トイレという意味のある成果を出すことができたが、これまで避難者からの要求はなかったので、いろんな視点から物事を見ることが大切だと感じる。 |
4. 避難所運営のスタンス 見回りの後、本部スタッフで本日の情報共有化を行った。青葉中避難所には物資保管庫が三ヶ所あり、保存のきく食料・飲料、衣服・マスク・おもちゃなどなどが支援物資として満杯の状態にあるが、衣服については活用されないともったいないから配付する衣服展示コーナーのものと入れ替えてはどうかと本部内で提案したが、却下となる。理由は、サイズを含めて全員分あるわけではないのでもらえなかった人から不満がでる、避難者は常時いるわけではなく、いない時間に早い者勝ちになったら不満がでる、さらに支援の服は子ども、女性服はあるが、男性服はほとんどないこと、以上から避難所の運営に支障をきたす恐れがあるからとのことであった。当初避難所に入った時は、できるものならなんでもやってあげたい! と決意してきた。そしてそれが被災地の方々への最大の応援であると。しかし、それが少し違うことに気付かされた。ここ青葉中避難所では全員分ない支援物資は受けないことと取り決めている。ほかの避難所には、もってけ泥棒のところもあるそうだ。ここで一番大事なことは支援してあげることではなく自立を手助けすることなのである。際限なく物資を提供すれば不平等感でコミュニティが崩れたり、なんでも自分で買わなきゃいけない仮設住宅より避難所の方がいいってことになる。そういうことは青中避難者自身もわかっていて、決して過剰な支援は受けないことを確認している。支援物資で食事用の発泡容器は山ほどある。それでもみんな洗って使われている。避難されている方々の謙虚さ、我慢強さには尊敬以外の言葉もない。日々の暮らしを見直すことも被災地の応援につながるのかもしれないと痛感させられた。そして、コミュニティがとてもしつかりしていること。この点については行政と住民の関係と全く同じであることに気づかされた。結局、服はグループごとサイズの集計用紙を配り、ないものは調達のうえ、下着のみ全員に配布することとした。 |
5. 最後の避難所勤務 7時40分に青葉中着、引継ぎ。洋式トイレについて用務員の阿部さんと避難者数人とで扉を外開きに付け替えたらしい。結果、製品さえ入ればすぐにでも使用できることになりました。(実は一昨日、油布氏と付け替えにチャレンジしたが最初の一本のねじを紛失。顔面蒼白で探したが見つからず、壊れたということで市役所に連絡しようかと思ったが、なんとか発見できたため元に戻した経過があった。)阿部さんは器用とは聞いていたがなかなかの腕前。避難者自身にやってもらったことも自治に向かっての前進と言えます。また、大きな変更事項として、本部業務を徐々に臨時職員に渡していくことになった。これに伴い本部はシフト制になり、自治労は22時から7時の本部勤務となり、昼はいなくてもよくなってしまった。(正直、ものたりないところだが、自立に向けたものであり理解しなければ……)この時間を利用し被害が大きいという女川に行くことにした。 |
6. 女川町の惨状 9時30分に自転車で避難所を出発。途中、石巻市役所へ寄る。トイレの扉は外開き改修済みであり、製品さえ届けばすぐにでも使用できることを報告。高齢者も多いため、できるだけ早期の納入をお願いした。※なお、我々が撤収して3週間後に仮設トイレが設置された!
石巻駅から臨時バスで女川に向かうつもりだったが出発時間まで余裕があるため、津久見市職の五十川さん、秦野さんのいる渡波(わたのは)中学校へ向かうことにした。
リアス式海岸に沿って走る道はアップダウンがきつく、油布氏の言葉数は激減。2時間かけて女川に到着した。
往復45㎞を走破して女川まで自転車で行ったことを本部の仲間に伝えると爆笑される。その後シャワーを浴びて仮眠をとり、本部にいた子どもたちにバルーンアートを教え、最後のふれあいの場となった。7時50分に山口県本部へ引継ぎ。避難者が300人を切り、近く避難部屋の移動が予想されることを伝えた。また、共に携わった神奈川県・鳥取県の仲間と別れの挨拶を交わして青葉中を後にした。彼らとは避難所をどうすべきか真剣に向き合い、討論してきた。それぞれ話をしていると個性的であり、バランスのとれた関係にあったと思う。そんな中でも油布氏はみんなを笑わせ和ませる実に貴重な存在でした。東海地震が予想される神奈川も鳥取も今回の地震災害を直に経験させることを目的に早期に職員を送りこんでおり、行政判断の素早さ、的確さを感じた。本日の行動目標は参加したかった純粋なボランティア活動することであった。ただし必ず松島ベースキャンプに帰ることが取り決めである時間的にも体力的にも厳しいが、作業に参加するべく行動を開始した。 |
7. 松島で汗をかく 石巻ボランティアセンター(以下ボラセン)は11時には受付終了のためタッチ&ゴーでもかなり厳しいが、とりあえず荷物をまとめ松島ベースキャンプから石巻をめざした。石巻行きのバスはJR復旧のメドがたたないため、代替で運行しているもので、乗車中の景色は津波により破壊された破滅的な状況が続いていました。途中でバスは渋滞につかまってしまい、石巻ボラセンには間に合わないと思っていたら、泥だらけで溝さらいをしているボランティアを発見! バスを飛び降り参加を申し出て東松島市ボラセンを紹介してもらった。
こちらは午前と午後に受付があり、午後の部に参加しました。(ちなみに11時時点で当日ボランティアは東松島ボラセンで1千人を数える)班分けされ、資材を積み込み、被災住宅の土砂のけ作業に向かった。東京、横浜、長崎、地元など全国から集まったメンバー8人で、庭の土砂を土嚢袋につめ2時間で8割方片付けることができた。現地の復旧作業は生存者や行方不明者の捜索、全壊した建物の瓦礫の撤去といった順番で行われているようだ。 |