1. 支えあいの輪を広げてきた介護保険施行後、合併後の西東京市
西東京市は、介護保険制度開始の翌年、2001年1月21日に21世紀最初の都市型対等合併により誕生しました。都心へのアクセスが良いことから、都心へ通う人々のベッドタウンとして発展、現在、人口は合併時より10%増加し19万8千人、高齢化率21.4%です。
高齢者保健福祉計画、介護保険事業計画(第5期)では、地域包括ケアシステムの実現にむけて、4つの日常生活圏域、8つの地域包括支援センター、20地区の小域福祉園を設定、支えあう地域づくりの形成をすすめています。
地域包括ケアの実現には、高齢者施策の「自助」「共助」そして、「公助」へのつなぎ役を担う地域の中に根ざす住民主体の地域の問題発見・見守り・声かけシステムなどの活動が重要です。
西東京市では、合併後の2002年度から高齢者が地域の中で安心して暮らせるよう、地域の住民(ささえあい協力員)、事業所(ささえあい協力団体)、民生委員や地域包括支援センター、市が連携し合う仕組みとして「ささえあいネットワーク」を構築・実施し、今年で10年目になります。また、地域の福祉課題を住民自らが発見し解決するしくみ(ほっとするまちネットワークシステムの推進)等の活動を社会福祉協議会、地域包括支援センター等との連携の中で実践してきています。
本レポートでは、地域のなかで、365日、24時間のサービスの必要性を発信し、活動を展開してきたNPO法人サポートハウス年輪の活動、西東京市として、地域密着型サービスの基盤整備を通じ見えてきたこと、多職種連携の取り組み報告等から、地域包括ケア実現への課題について考察します。
2. サポートハウス年輪の実践に学ぶ
(1) はじめに
1993年秋NPO法人サポートハウス年輪の前身グループ「バウムクーヘン」は、老人保健福祉計画に住民として参画するために「ひとり暮らし高齢者実態調査」を実施しました。調査の結果このまま田無(現西東京市)に住み続けたいとの回答が95%でしたが、先行きの不安を訴える高齢者の声に、当時の福祉サービスの現状を知ることになります。市内に特養ホームはなく、公務員ヘルパーは2人、その外は家政婦紹介所のヘルパー、お昼のお弁当が週2回70歳以上のひとり暮らしの方に届くサービスでは、何かあった時には住んでいる所から出て行かなければならない、遠くの病院のベッドで死んでいく高齢者が多いという現状を知りました。調査結果をまとめて当時の市長へ要望書を持って会見、議会に陳情、市民の意見を聞く会を多く持つよう要望しました。この時の調査報告書の題名を「私はこの家で死にたい~ひとり暮らし高齢者200人の声~」としました。
運動は一定の成果が出たのですが、調査に協力いただいた高齢者の先行きの不安は消えるわけではなく、同じ町の住民として安心できる地域を作ることが自分たちの老後を明るくすることになると確信し、サポートハウス年輪を1994年3月に設立することになります。家賃6万5千円の2Kのアパートでスタートしました。設立メンバー12人が一人10万円出資、拠点をもち、仕事には対価を支払うという市民事業として立ち上げました。
高齢になっても地域で暮らし続けるには「24時間365日の在宅サービス」が必要である前提に立ち、「介護」と「食事」が何とかなれば少しでも長く暮らせるのではないかと、時間と曜日に制限のない24時間365日のヘルパー派遣と夕食のお弁当配達を始めました。
“いつまでも地域で暮らしつづけるために”をキャッチフレーズに、地域の多くの皆様の知恵と力をいただき、様々な仕組みつくりに挑戦してきました。そして今年で19年目を迎えています。
(2) 地域を耕す
1994年設立時にサポートハウス年輪の団体名に「ハウス」を入れたのは、認知症(当時は痴呆性)のケアに効果をあげているグループホームを田無の町につくりたいという思いからでした。1993年スウェーデンに行く機会があり、そこで目にしたグループホームに住む方々の様子と日本の認知症の方の環境の余りの違いに愕然としました。団体名に入れておけば、いつかは実現できるのではないかと思ったからです。それと同時にスライド写真を持ってあちこちの集会で「グループホームとは」を紹介して歩きました。ところが場所を貸してくださる方はなく、職員が24時間一緒に暮らすという説明をしても「普通の人に貸したい」という答えばかり。出来ることからやろうと、月1回公共施設を使っての移動デイホームを開始。それと同時に「グループホームを作りたい」というチラシを手に、市主催の朝市(毎月第一日曜日朝6時)や、リサイクルバザー、福祉まつりなどに参加。さらに介護関係の様々なテーマで講師を呼び、年輪セミナーを開催してきました。
一方24時間365日のヘルパー派遣は世間の注目を浴び、新聞、雑誌、テレビで紹介され、サポートハウス年輪もだんだん認知されるようになっていきます。そしてデイホームの拠点確保のためにチャリテイバザーを田無市役所前のギャラリーの協力で開催、この収益金で現在年輪の本部になっている和光ビル6階を借りることが出来ました。デイホームのお休みの水曜日にはレストランを開き、様々な方が足を運ぶことになります。今話題のコミュニティレストランのようなものです。レストランのママは設立メンバーで年輪弁当の創始者です。彼女は70歳になっていて年輪弁当の第一線を引き、ひとり暮らし高齢者ネットワークを作るためにレストランをオープンしたのです。この水曜レストランに集まった人たちで一泊旅行に行ったり、グループホームを作りたいという若者とレストランで知り合い、練馬区の武蔵関にある「ミニケアホームきみさんち」が生まれたのです。
この水曜レストランはママの急病で中止となります。末期癌の宣告を受けた彼女は、冊子「私はこの家で死にたい~ひとり暮らし高齢者200人の声~」を手に、「年輪が出来て7年地域にネットワークが出来ているから私はこれでいきたい」と協力依頼されたのです。そして5カ月普通の生活を自分でマネジメントして、「ここがグループホームになればいいね」と遺言し、「ありがとう」と握手をしてお別れしました。そして遺言が活かされグループホーム「ばぶちゃんち」(2009年)がオープンしたのです。前身グループバウムクーヘン設立から30年、サポートハウス年輪設立から15年の春のことです。
いつかグループホームが実現した時のためにと、年輪がめざすケアを追求するために、あちこちのグループホーム、宅老所などを手分けして見学することを続けてきました。そして「ケア検討委員会」を立ち上げ地域の様々な職種の方に参加いただき、議論を重ねてきました。イベントの時には新聞、雑誌などのマスコミの協力も得て、みんなで耕した甲斐あって、地域の表面が柔らかくなってきた頃に介護保険制度施行となったのです。
(3) 認知症状のある方が穏やかに地域で暮らし続けるために
やっと2003年に西東京市第1号のグループホーム「ねんりんはうす」が開所しました。しかも8階建て賃貸マンションの3階部分2DK3室をぶち抜いて9LDKに改修したグループホームです。設立より10年という月日が経っていました。行政の担当者の熱い思い、マンションのオーナー、利用者、家族、そして住民の方の理解と協力があってのことです。
介護保険制度施行に伴い、認知症状のある方と家族を取り巻く環境は変化してきました。グループホームも年々増加し、デイサービスも増え、施設系のサービスの利用も選択肢が広がり、地域で暮らし続ける仕組みが整ったように感じてきました。ところが認知症状に対応する技術が追いつかず、サービスを利用できない、利用すると症状が悪くなるなどの声が聞こえてくるようになったのです。
サポートハウス年輪の「年輪デイホーム」は1996年の移動デイホームよりスタートし、1998年拠点を置き活動を続ける中で、一時行き場のない方の宿泊サービスをしていました。認知症状のある方は、環境を変えないで馴染みの人がサポートすれば落ち着いて過ごせることをこの時経験しました。
そして2009年東京の地域ケアを推進する会議の中で、「認知症デイサービス活用事業」のモデル事業を年輪デイホームで実践したことにより、認知症状のある方と家族が地域で暮らし続けるための仕組みのひとつになることを一層実感しました。このモデル事業は東京都、西東京市とサポートハウス年輪と3者で打ち合わせ会を月1回設け、1年半試行してきました。そして2011年春からは「西東京市の地域ケアを推進する試行事業(ナイトホーム)」として、早朝、夜間延長、宿泊サービスを提供しています。
この仕組みはご本人にとっては勿論のこと、家族にとっても安心感があることが東京都のモデル事業の時の調査結果にも出ています。本人と家族の両方に安心感がもてる仕組みが認知症ケアの仕組みに中では求められています。
東京都では何らかの認知症状のある方(認知症生活自立度1以上)の約65%~70%が在宅で暮らしているという結果が出ています。専門職、家族だけでは対応できない状況が生じています。これに対応するため西東京市では特に力を入れているのが、認知症サポーター養成です。講師役のキャラバンメイトを市内に50人養成、5人集まれば出前講座も開催中。小学校はまだ1校ですが、5年生の授業で取り組みを始めて今年で3年目です。サポートハウス年輪では、法人独自で年4回サポーター養成講座を日曜日に開催しています。職員も全員この講座を受けるようにしています。少しでも地域の皆さんの理解が進むように耕し続けています。
(4) 被災地へ
2011年3月11日14時46分 年輪デイホームの天井が大きく揺れ、外付けのスプリンクラーがガタガタと音を立て始めました。揺れがやっと収まり目に飛び込んできたのは舐めるように田畑を飲み込む津波。堤防をやすやすと越える黒い波。家族が都心から戻って来れない方、ひとり暮らしの方など4人の方に年輪デイホームで泊まってもらうことにしました。モデル事業の宿泊サービスを経験していたので職員の動きも迅速に対応できました。幹線道路に面している関係で帰宅を急ぐ方へ「お水あります」「トイレあります」と張り紙をし、ドーナツとチョコレートを配りました。地域の皆さんの協力で出来た法人なので、こういう時出来ることをしようという機運が職員間に広がっていきました。
翌12日が定例理事会、翌々日が年輪バザーの予定。理事会では年輪バザーの延期を決めました。14日の月曜日に年輪内で義援金を集め、全国市民団体協議会(市民協)に即日送りました。仙台の配食グループの様子が次々と飛び込んできました。厨房が壊滅状態、でも配食は継続している。グループホームが津波で流され、他のグループホームに間借りしている。オムツ、食料もない。などお付き合いのある団体からの情報に、年輪バザーを義援金バザーにしようという声が大きくなり、仕事の合間をぬって5日間年輪本部の外で実施、33万円の収益があり、配食グループとグループホームへ半分にして送りました。その後も被災地からの避難者へ物資の提供を地域に呼びかけ、息の長い支援をする気持ちが強くなっていきます。和太鼓の第一人者佐藤健作さんの岩手県陸前高田での「祈りの公演」ボランティアに、年輪関係者22人が参加してきました。高台にある老人保健施設から見える陸前高田の町は、言葉に表すことができない光景でした。11月には「地域包括ケアの今後のあり方」と題して堀田力さんの講演を行い、西東京市の課長を加えて「西東京市の地域包括ケア」について鼎談をしました。
地域包括ケアはまさしく地域で最後まで暮らせる仕組みをつくりたい、サポートハウス年輪が目指していることです。地域を失った方々への支援は、難しいですが、出来ることを出来る時にという思いで、今年の3月11日~15日の義援金バザーを開催しました。多くの皆さんがバザー品を提供下さり、集まって下さり、約60万円の収益となりました。被災地のグッズも販売、少しでも元気になってもらいたい気持ちです。
岩手県山田町のグループホーム、子どもの居場所「ゾンタハウス」、福島県相馬のグループホーム、宮城県石巻のグループホーム、仙台の配食グループに直接収益金を届けてきました。
直接届けることにより、あらたなネットワークが出来たこと、自分が暮らす地域のあり方、災害時は日常の活動が力を発揮するなど、多くの学びがあります。そして義援金を届けてきたグループホームの管理者の男性がお礼に上京下さったのには感激しました。それほど大変だったということです。
(5) 行政に望むこと
これまでのサポートハウス年輪の歩みの中で、行政の理解、協力そして連携なくして今のサポートハウス年輪はないと言っていいでしょう。地域の住民の安全と安心を目指すことには行政も、NPOも同じです。ただ思うことは、もっと地域に暮らす住民のニーズに敏感になってほしい。そしてそのニーズへの対応を迅速にしてほしい。と思うのです。時代は刻々と変化しています。いつまでも暮らし続けることの出来る地域は、行政の力なくして実現しません。地域包括ケアはその地域の特性を活かす工夫が必要になります。住民の願いをどこまで可能にするかは、地域の様々な機関が有機的な動きをしていくことが求められます。このコーディネイト役が行政であってほしい。あるべきだと思います。東日本大震災のような災害時には、日頃のこのコーディネイト力が力を発揮することでしょう。そのためには今それぞれの地域で何を始めたらいいか、足元から始めましょう。
3. 地域を耕す協働の実践から(今、行政に求められること)
(1) 地域密着型サービスの整備をすすめる中から見えたこと
サポートハウス年輪が念願の西東京市第1号のグループホームとして開所したのが、2003年のことでした。
2006年に介護保険制度に新しく地域密着型サービスが創設され、そのサービスのひとつにグループホームが位置づけられました。市がグループホームの整備計画を立て、指定権限も市という特性を持つサービスです。
グループホームを建てる事業者が近隣の住民に説明会を行うことが義務付けられ、市も同席して立ち会う場面がありました。西東京市では認知症への理解をすすめるために、認知症サポーター養成に力を入れ、介護保険事業の中にいる自分たちは認知症についてある程度の理解が進んでいるものと思っていましたが、その場に居合わせてみて、その考えは一気に吹き飛ばされてしまいました。「認知症の人が家に入ってくるのではないか」「あまりうろうろされたくない」「土地の価値が下がるのではないか」「共存は無理」と飛び交う言葉に愕然としました。認知症に対する理解どころか、偏見そのものです。このことによって、地域の本当の理解度のレベルを知り、これから認知症の方が地域で暮らして行くためにはケアのサービスだけがあっても幸せになることはできない、これでは外に出ることもできない。グループホームという建物を建てることができても、グループホームの「地域の中で自分らしく生きていく。」という理念は実現できないという思いが強くなり、自己満足をしていてはだめだ、現状を知り、もっと若い世代やこどもたちに理解をすすめていく必要があるのではないか。でもどうしたらいいのだろうと考え始めた矢先のことでした。西東京市介護保険連絡協議会グループホーム分科会で、徘徊模擬訓練をやらないかという声が上がりました。すでに福岡県大牟田市では取り組まれているもので、認知症の方が行方不明になった時にその情報を受けて、地域で捜索をするという訓練で、大牟田市からもアドバイザーとして来てもらうことができました。介護保険の全てのサービス事業者の分科会を立ち上げている西東京市ではありましたが、地域の人を巻き込んで一緒に何かを行うという取り組みを分科会で行うというのは初めてのことでした。事業者の方が自らリーダーシップを発揮していただき、行政は事務局としてお手伝いでついていくというような格好でしたが、無事訓練を終えてみると、地域の方が約60人も集まり、熱心に大牟田市の講師の話に耳を傾ける姿を目の当たりにし、行政が全てを主導で全てお膳立てしなくても市民、事業者、行政が協働でやることはそんなに難しいことではないのかもしれないと思えてきました。2回目の模擬訓練も違う地域で実施。テレビ東京のニュースでも取りあげて頂きました。その後息つく間もなく、グループホーム分科会からさらに提案があり、認知症研究の永田久美子先生のガイドのもとに「地域づくりワークショップ」を4回シリーズで開催することができました。少人数の班に分かれて、市民も行政職員も介護事業者も同じテーブルで肩書きを外して、西東京市の中で課題に感じていることをあげ、こんなことができたらいいな、あったらいいなという理想の話から、何かやれそうだと思うことをひとつでも良いから計画してみようというワークショップでした。認知症にこだわらず、自由に地域について発想することを市民と事業者と一緒に企画するというのは初めての体験でした。それを通して、地域の中にはすごい力を持っている方々がいることを知り、また、同じ班の仲間で一緒にグループホームの訪問をしたりするうちに、人から人へと顔がつながっていきました。その結果、最初に願った若い世代のお母さんと子どもの児童館とグループホームのコラボイベント「うどんづくりと流しそうめん」にたどりつくことができました。当日は250人近い児童と父母、グループホームの利用者15人、地域の農協婦人部4人、グループホームスタッフ、民生委員の方も参加。大賑わいとなりました。認知症の高齢者と子どもたちが一緒にうどん生地を踏む姿に笑みがこぼれました。
(2) 医療、福祉、保健の現場と行政が同じ危機感を持つこと、共有すること
ちょうど同じ頃に、また別のひとつの動きが始まろうとしていました。介護保険が始まって10年を経過する今、10年間、医療と福祉、又は病院と在宅との連携がなぜ進まないのかを真剣に自分たち自ら考えて、自ら解決を図る必要があるのではないかと考える有志の会が発足しました。10年間の苦楽を共に経験してきた医療、福祉、行政の多職種からなる有志の会として協議、検討が重ねられた結果、西東京市医師会、歯科医師会の賛同を受けて市へ提言がなされ、多職種からなる「課題調整委員会」を設置しました。この課題調整委員会の特徴は、企画、提言するのではなく、領域を超えての連携についての課題に対し、委員自らが調整をし、実践して解決を図るところにあります。そのため、委員はその団体の役職は問わず、現場実践者であり自ら調整する意志を持っている者として推薦されます。2011年8月に第1回の委員会が開催され、サポートハウス年輪の安岡さんも委員として推薦されています。この委員会で最初に取り組むべき課題として決定されたのが、「在宅療養者のための後方支援病院機能の構築」です。発足時の条件どおりに、行政だけではなく、在宅医療に関わる委員自らが地域病院に協力依頼に出向き、調整した結果、現在モデル事業として実績を積んでいます。
在宅介護、在宅療養をすすめていくために、日頃から課題を常に感じ、現場で実践してきた各分野の専門職と行政が一緒に協議、検討し、自らが核になって連携モデルを実践し、地域連携基盤の確立に発展させていくという具体的な目標設定を持ち、これからも活動を展開しています。
(3) 地域包括ケアをめざして
この2つの動きから、今、地域包括ケア体制を構築するために必要なことは、市民と一緒に同じテーブルから話し始めるように、あるいは医療福祉の現場実践者の危機感を強さと捉えて尊重するように、行政主導型ではなく、「地域の力」や財産となる「人の力」、「つながる力」を行政が一緒に頭と身体を動かしながら引き出して、活用していく(つなげていく)役割を求められているのではないかと感じています。協働のまちづくりの実践を重ね、地域包括ケアの実現、「最後まで地域で暮らしたい」という思いが実現できる西東京市をめざしていきます。 |