1. はじめに
大阪市に就職したのは1969年4月1日です。私は余り意識をしていませんでしたが、就職と同時に自治労・大阪市職員労働組合の組合員になり、以降39年間大阪市職の一員でしたが2008年に退職し、離籍専従役員として連合大阪の役員を2年間勤め、現在は連合大阪・非正規センター相談員(「連合・アドバイザー」と言うそうです)をしています。「非正規センター相談員」と小難しい名前が着いていますが、平たく言えば「労働相談を中心とした何でも相談」であり、労働相談については「解決型」を行っていることが特徴と言えます。
最近、これらの相談で感じることは「労働相談と生活相談」「労働相談と家庭問題」など、「単純な労働相談」でなく複合的解決が求められる相談が増えているように思います。
2. 「ネットカフェ難民」相談事業の開始
私が大阪希望館に関わることになったのは、直接的には2008年秋にリーマンショックによって「住居と職場を失った者」が多数出たことによります。そのことの対応を行政に任すのでなく「労組・NPO・宗教団体・個人が連携し何かできないか」とNPOの役員から声をかけられ余り深く考えることなく、「このような状況の下では何か行動しなければ……」と単純に賛同したことによります。今から思えば「考えなかった」ことが良かったのかもしれません。
当時(2008年)私は連合大阪・大阪市地域協議会事務局長をしていました。2008年1月には「市民相談窓口」として「ライフサポートセンター(労働者福祉協議会事業)」をオープンさせ、4月には「ネットカフェ難民」の相談窓口(国委託事業)を開設しました。「ライフサポートセンター」は、私が就任前の規定路線でしたが、「ネットカフェ難民」の相談窓口はその後、国(厚生労働省)の予算化に伴い急遽「開設要請」を受けたものであり、そのときも「幅広く相談を受けるほうが良い」「地域協活動に特徴があってよいのではないか」と深く考えないで楽観的判断によるものでした。
「ネットカフェ難民の相談事業」は、東京・名古屋・大阪の三都市で厚生労働省の委託を受けて、ネットカフェなどに居住する「住居喪失不安定就労者」を対象に「住居相談と就労相談」を行うため急遽決まった国(厚生労働省)の新規事業でした。しかしこの事業内容は「疑問を抱かせる」ものでした。就労相談については「ハローワークの協力(ハローワークから日々出張)」が行われたものの、住居相談は相談員の予算化がされていましたが、相談に対応するための「住居関係の費用は一切支出できない」と言うものでした。理由は「住居提供や食事提供は福祉施策」であり「労働施策とは異なる」と言うものです。委託相談の話を持ってきた担当者にさんざん文句(問題点の提起)を言いながらも、「必要な事業であり、断る訳にもいかない」と思い、兎にも角にもスタートしました。開設までの準備期間は2月程度でした。
「住居提供が出来ない住居相談」であったため、独自の住居確保が求められました。ホームレス自立支援施設は唯一当初から連携が取れましたが、それとて連携のためには福祉事務所の協力が必要であり、それ以外は全くの手探り状態でした。幸い、大阪自彊館ケアセンターの利用(手続きは必要)、大阪労働者福祉協議会の独自予算による「安価なホテルの活用」などが可能となり、また民間の住宅管理会社・有志などから「無料宿舎―アパートの提供」があり、以後の相談対応にずいぶん役立ちました。
「住居喪失不安定就労支援相談(ネットカフェ難民相談)」事業は2008年5月にスタートし、相談員の手探りの献身的な努力もあり、曲がりなりにもその年は相談対応ができたと思います。「駅のトイレで寝泊りを繰り返していた青年」が自立支援施設へ入り就職活動を開始したこと、また厳しい雇用状況の中でホームレス状態の女性が正社員として採用されるなど嬉しい経験もしました。しかし2008年起こったリーマンショックは様相を一転させました。
3. 大阪希望館発足の契機
2008年前年秋のリーマンショックを契機に世界恐慌が起こり、「雇い止め」「派遣切れ」が横行し、その年の暮れには「年越し派遣村」などがマスコミを騒がし社会的な注目を浴びました。「住居を失った者・失う者」は過去にも存在しましたが、2008年~2009年の事態は「急激であったこと」「大量であったこと」また「契約社員や派遣社員に集中したこと」がそれまでの「住居喪失の実態」と大きく異なっていました。これらの要因は「経済の急激な悪化」だけでなく「派遣法の改正問題」など社会政策的要因が大きく関わっており、それゆえ大きな社会的問題になりました。
2009年の年明け早々、ネットカフェ難民事業の相談窓口も大変な状況が生じました。大阪近郊の工場等から「雇い止め」「派遣切れ」の相談者が急増し、それまで一日1~3人程度の相談者が一気に6~10人に増しました。それらのほとんどが「今日、寝る場所が必要」とする緊急な住居相談でした。相談員は「一時的な無料ホテル紹介」「無料アパート」など少ない社会資源を活用しさまざまな対応を行いましたが、自前で確保するには限度があり、やむなく「後日の相談」になることもありました。このような状態は行政の窓口でも起こっており、それらの窓口では相談を行うために1週間以上待機という事態も起こっていました。待機の上相談しても「住居が確保」されるためにはさらに待機が必要となり、それでも入居施設が満杯の状態の下では「確実に施設確保」ができる保証はありませんでした。
このような事態は、ホームレスなどの相談・支援活動を行ってきた団体とって一層厳しい事態に追い込まれていました。このような中でNPOから「行政に頼らない、民間の団体・有志」による新たな支援活動の提起があり、「深く考えることなく」同意し準備会発足に向けて動いていくことになりました。
4. 大阪希望館設立と運営協議会のスタート
2009年年明け以降、「住居提供」支援が行政に頼れない情況がますます厳しくなる中で、NPO釜ケ崎支援機構などから「幅広い民間有志・団体」で支援活動を行う動きがあり、連合大阪・チャレンジネットにその運動への参画の声がかかりました。当然、具体的支援活動を行っていくためには、克服すべき多くの課題がありました。幸い「支援活動のノウハウ」はNPO釜ケ崎船機構が持っており、残る最も大きな課題は「どこで具体的活動展開を行うか」と「その資金をどのように調達するか」と言うことでした。活動場所の拠点を巡っては、地域理解がなく活動展開を行った場合、しばしば「施設コンフリクト(施設建設反対運動・摩擦)」を経験しており、それらを避けるため(より理解を得るため)地域居住の支援者を中心に選定が行われました。また相談者に対する支援の方法は、従来の施設福祉が展開してきた「施設入所型・指導福祉」でなく、地域のアパート・マンションを活用し、生活支援・就労支援を入居者と支援者が「共に考え行動する・伴走型」支援を行うこととしました。これらの支援のあり方は、NPO釜ケ崎支援機構が地域でホームレス支援活動を積み重ねる中で培われたものであり、それらの取り組み経験を全市的に拡大させる「実験的試み」もあったように思います。入居アパート・マンションは20室をめざしましたが、資金問題・アパート確保などもあり「10人弱」から始めることとしました。残る問題は運営資金です。
2009年の年末・年始、リーマンショックの余波で東京では「年越し派遣村」が設置され、マスコミ報道も頻繁に行われ、それらに対する支援活動も活発化しつつありました。連合も「トブタ・カンパ」と称し中央労働者福祉協議会と連携し、住居・就労支援のためカンパ活動を呼びかけ、集まったカンパを「就労・生活支援を行っている団体」へ資金援助する取り組みを行っていました。連合大阪・構成組織・地域協議会の積極的な協力が得られ、「トブタ・カンパ」資金の活用も目途が立ち、一方NPOも独自支援カンパ活動を展開し、そこへも多くの個人・団体から支援が寄せられました。このような取り組みと平行し、2009年4月17日には第1回準備会がスタートし、4回の準備会を重ね、同年7月に大阪希望館運営協議会が発足しました。
5. 具体的支援活動の開始
2009年6月、大阪市北区のビルの一角に相談センターを設置し、周辺のアパート7室を借り受け具体的支援活動がスタートしました。相談センター・アパート等の運営費は大阪希望館運営協議会が負担することとし、運営に関わる「2人の常駐職員、2人の非常勤職員」はNPO釜ケ崎支援機構の協力により行われることになりました。
大阪希望館がスタートして具体的支援の実績は資料①のとおりです。当初計画では「2週間程度の支援活動」を1つの目処にしていましたが、さまざまな経験をしホームレス状態になった者にとって、再出発するためには到底そのような期間では「自立に向けた伴走方支援」は困難でした。大阪希望館にたどり着いて、少し余裕が出来、自分の過去を振り返る期間だけで「2週間」が経過し、職業訓練、仕事探し、自立資金の貯蓄などのためには、相当な期間が必要なこともはっきりしてきました。運営に関わるNPO職員は入居者の意見・思いを丁寧に聞き、それぞれの生き様にあった自立への道・社会資源の活用を行い共に模索をしました。これらの結果は厳しい就職状況の下で高い就業自立が行われていることでも示されていると思います。
6. 3年を経過して
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○就労訓練として淀川清掃に取り組む入所生の皆さん |
「行政(だけ)に頼らない」「民間有志の支援」「伴走方支援」を基本に、2009年6月にスタートしましたが、進めていく中でさまざまな変化が生じてきました。自治体で「公的住宅の支援」や「大阪希望館を1つのモデルにした公募型事業」などが具体化され、それらの活用をすることができ、また宗教団体(カトリック教会)の補助金や共同募金の活用も行うことが出来ました。労組支援などで街頭での支援活動も取り組むことが出来ました。
大阪希望館が取り組んだ重点の1つに「地域ネットワークづくり」があります。大阪希望館入居者の最終的な目標は「地域に定住し自立を行う」ことであり、地域住民・組織と希望館入居者との連携した取り組みも模索され、地域の諸活動を支援する「縁パワーネット」が出来、「新たな地域ネットワークづくり」も始まりました。
この3年間、NPO釜ヶ崎支援機構・常駐職員を中心とした献身的活動により、「大阪希望館」としての「就労・福祉・自立」に関わり、従来なかった「1つのパターン」が出来つつあり、それらは厚生労働省が進めた「パーソナルサポート」制度の1つの具体的有り様を示してきたように思います。正規就労がますます困難となり、社会的にハンディーを持った者にとってはより厳しくなる中で、これらの試みは一層重要になってきています。
大阪希望館活動は長期渡り継続することが必須ですが、「非正規社員問題」、「住居と就労」問題は一人ひとりの心から徐々に薄れていっていることも否定できません。運営には多くの資金と支援者が必要ですが、個人・団体のカンパなども激減しているのも実態であり、改めて支援の拡大が焦眉の課題となっています。また「民間支援」を基本としながらも「行政との協働」の取り組みも一層模索をしていかねばならない時期にあります。
2011年3月東日本大震災が発生しました。被災者の救済と共に今後の日本の針路や国つくりの理念が問われ、「共にがんばろう」とか「長い支援の必要性」などが叫ばれ、直接的な支援に国民の多くの目が注がれています。しかし一方で「貧困問題」「ホームレス問題」「ネットカフェ問題」などはマスコミ報道も少なくなり人々の記憶から薄れつつあるのも実態です。東日本大震災で「絆」がさまざまなところから語られるようになりました。「絆」は震災支援にだけで語られるものではありません。日常的に「見る・関わる」光景や事態の中で具体的に一人ひとりに問われるものだと思います。
大阪希望館への引き続く支援をお願いし、報告にします。
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