【要請レポート】 |
第34回兵庫自治研集会 第8分科会 都市(まち)と地方の再生とまちづくり |
|
1. 最初に これを書いている現在、2011年3月11日の震災から約1年と3ヵ月が経過して、当時の記憶を思いだし書いています。 |
2. 地震から避難まで その日は、午後3時位に仕事に使う切手を郵便局に行って買う予定をしていました。地震が起きた時、自分は前日のお昼にも大きな地震が起きていたのでまたかと思いました。実際、2003年に起きた宮城北部地震を体験していたので、普通の地震位では動じなくなっていました。しかし長い、普段と違い長く揺れています。今の庁舎は元々庁舎として建設した建物ではなく、店舗を改装して庁舎としていたので、このまま立っていると天井のボードや蛍光灯が落下するなと思い机の下に入ろうとしましたが、机の下には書類用の棚があり体が収まりきりません。仕方なく引出を出しなんとか体を隠せました。凄く長い間揺れているように感じました。揺れが収まるとフロア全体が埃立っており、霞んでいました。避難の指示が出るまで時間がありました。私は、建設部下水道課の職員であり、このフロアは建設部のフロアなので、作業服をほぼもっているのが当たり前なので、すぐさま着替えに向かいました。しかしロッカー室は、嵐が通り過ぎたように滅茶苦茶でした。そこをかき分けながら防寒着だけをとり事務室に戻りました。事務室では女性職員などは恐怖で泣いている方などがいました。落ち着かせる為に机にあるアメ玉などをあげたりしていました。食べるという行為で落ち着いてもらえたらなぁ~という思いでした。そうしているうちに庁舎は危険だから避難するようにと聞こえてきました。後になって知ったのですが、このフロアの上6階は議場になっており、そこの天井が落ちていたそうです。 |
3. 避難先へ 日和山まで避難しろといわれましたが、具体的な場所までは指示がなく、職員はただただ、山を登っていきました。日和山には職員駐車場があり、そこで職場の人の車のテレビで情報を得ることになりました。「津波は7mの高さです。」など地震の範囲は石巻市だけではなくもっと広範囲にわたって起きていることを知りました。被害の大きかった地区の南浜町に自宅がある職員は、自宅を見に行くとそこで別れました。その後自宅が近い職員は自宅を確認しに行くと別れ別れになりました。私は自宅まで20km以上内陸にあり、帰れる訳もなく、近くの職員から石巻中学校と門脇中学校が避難所になっているから、そこに向かってくれと言われました。 |
4. 再び庁舎へ、そして避難誘導 避難先の中学校へ戻り、避難誘導などを続けていました。それから、「職員は、庁舎に戻るように」と伝言があり、庁舎に戻りました。先ほど水路のようになっていたところは、水が引き歩けるようになっていました。事務室は散乱しており、それを片づけたりしたり、一部の職員は公用車でパトロールに向かいました。直ぐまた使うだろうと立体駐車場へ駐車していました。そのパトロールがあったからこそ、うちの課の公用車は水没から免れることができました。あたりでは水没した車は、漏電してハザードが点滅してクラクションが鳴り震災当日の夜は、車の断末魔のように鳴り響いていました。 |
5. 物資運搬 震災より二日目、下水道課の職員は、市内の雨水排水ポンプ場の被害状況を確認し、現状では稼働できないことが確認され、国交省よりポンプ車を借り排水作業を行うため、徒歩でポンプ車の誘導を行っていました。その間、交代で休憩を取っていました。 |
6. 給油作業の開始 三日目には、庁舎と外を繋ぐ橋ができました。橋といっても長机等をロープで縛りただ渡れるようにしたものです。でも出来た時には「もう水に入らなくていい」という思いでした。この橋が出来たことで、家族との連絡がとれた人や家族の生死を確認できた人などがいました。また、職員の怪我が少なくなりました。橋が出来る前は、水に入り歩いて移動していたので、足に豆が出来たり、寒さでひび、あかぎれができたりしていました。満足な医薬品がなく、傷口にティッシュをあてがい、その上にガムテープを巻いていたりしていました。燃料を借用する時に開いている店があれば、絆創膏や消毒液などを買ってきました。 |
7. それからの日常 初期の段階で、各総合支所とは上手く情報交換が取れていなかったようです。 |
8. 落ち着き始めて 庁舎内では疲労の色が濃くなってきていました。廊下を慌ただしく走っていた職員が急に止まり、自分は何をするために走っていたかを忘れたり。これは、自分の課であったことですが、ポンプ車の燃料が大量に確保できたので、庁舎にあるポリタンクを全部持ってきてくれと頼んだら、二人が公用車にタンクを積まずに来るなど、少しずつ疲れがたまっていくのが見えてきていました。 |
9. まとめ 今回の震災を受け感じたことは、公共機関は普段「ひまなくらい」が丁度いいと思いました。実際、人員不足が色々な所へ波及していったと思います。避難誘導しかり、災害対応しかり、機材が揃っていたとしても動かすのは人ですから。 |