【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第8分科会 都市(まち)と地方の再生とまちづくり

 伝統行事が自治体の観光PR等に活用される一方で、それを支える農山村は悲鳴をあげ本来、地域のコミュニティ-を強化し結束力を高めるはずの伝統行事から人びとの心は遠のいているようにも感じられる。それは限界集落といわれる農山村の崩壊と軌を一にした現象ともいえよう。このような農山村の現実をどのように受け止め、いかなる課題を克服していかなければならないのか、伝統行事の再生への課題について大分県国東市国東町岩戸寺の国指定重要無形民俗文化財「岩戸寺修正鬼会」を事例に考えてみたいと思う。



伝統行事と地域活性化の課題
~国東市岩戸寺修正鬼会を素材にして~

大分県本部/国東市職員労働組合・自治研部 藤本 啓二

1. 論 点

(1) 伝統行事と地域活性化
 観光振興の名のもとに地域的な特色を示す伝統行事が脚光を浴びている。一方で、地域の伝統行事(祭りや芸能)は、少子高齢化による後継者不足から存続の危機に瀕している。伝統行事は地方文化の指標となり、地方文化の振興に寄与するとともに地域のコミュニティ-の維持と安定化の要になるといわれている。しかし、伝統行事を支えている農山村の高齢化や人口減は、深刻な問題として地域に横たわり、将来的に解消される見通しもなく、農山村は極めて弱体化せざるを得ない状態にある。そうした中で、伝統行事(祭りや芸能)は、無形の民俗文化財として国・都道府県・市町村の法律や条令によって、存続や伝承のために指定され、補助金交付等の行政的な支援が行われている。しかし、目には見えない地域の伝統文化の振興や衰退(崩壊)は、目に見える有形の文化財や資産とは異なり、必ずしも住民と行政とが一体となって有効な対策がとられているかというと、疑問視せざるを得ない状況にある。

2. 修正鬼会とその変遷

(1) 国東半島の修正鬼会
 国東(くにさき)の修正鬼会は、民俗芸能のうち特に重要なもので「芸能の発生又は成立を示すもの」であるとの理由から、大分県第1号(最初)の国の重要無形民俗文化財として全国的にも早く1977年に指定されている(重要無形民俗文化財は1975年に国<文化庁>で制度化され、1976年から指定されるようになる)。修正鬼会は国東半島を代表する祭りであるとともに大分県の顔ともいえる祭りであり、古来の鬼(鬼神)の姿を最も良く今日に伝える国内でも特に貴重な祭りといえる。
 修正鬼会は、春を迎える仏教行事の「修正会」と「鬼会」とが結びついてできたといわれている。「修正会」は、古代日本の宮中の大晦日の年中行事であった追儺(ついな)の要素をもつ仏教法会で、悪魔を祓い吉祥を生む目的がある。追儺はもとは中国の行事であり、現在は節分の豆まきとして習俗(習慣や風俗)化している。今日の中国の追儺行事(祭り)では、鬼と鬼神(神)とは区別されており、多くの場合、鬼は見えないために恐れられ病気や不幸をもたらすとされているようだ。中国ではこの見えない鬼を、風貌の恐ろしい仮面をつけて登場する鬼神(神)が逐い祓うことを祭りの主体としている。日本の宮中行事の追儺で登場する邪を祓う神が、修正会に取り入れられ、邪を祓う鬼神として、本来の性格を保ち続けているのが、国東の「修正鬼会」の鬼(神仏)と考えられている。「修正鬼会」の鬼は、逐い祓われる存在としての悪鬼ではなく、人びとに幸せをもたらすために、邪をなすものを逐い祓う仮面の鬼神であり、古来の鬼(鬼神)の姿を今に伝えているのだ。
 国東半島でかつて盛行した修正鬼会は、現在、山間の村にある岩戸寺・成仏寺・天念寺の3箇寺で旧暦正月に行われている。岩戸寺では、「オ-ニワヨ-、ライショハヨ-」のかけ声とともに、燃え盛る松明を振り回しながら講堂で鬼(鬼神)が舞う。その後、鬼(鬼神)は堂内から飛び出し、村の民家を回り無病息災の祈願を行いもてなしを受ける。再び鬼(鬼神)が寺に戻って来るのは日付の変わった深夜である。

(2) 村と修正鬼会
 それでは、この村の伝統行事である修正鬼会は、どのような変遷を経て今日なお受け継がれているのだろうか。すでに公にされている調査成果と近年の状況の把握を基に、伝統行事を支える村人の視点からその運営の歴史的な経過について見てみたいと思う。
① 戦前の「タイヌシ」(松明主:たいまつぬし)時代
  戦前は岩戸寺村が主催し、区長と総監督役(トシノカンジョウ)が全責任をおっていた。しかし、村の中で実際に修正鬼会を取り仕切ったのは、タイヌシ(松明主)であった。タイヌシとは、1番から7番のオオダイ(大松明)を、組の代表者として責任をもって用意するとともに、奉納役のタイレ(タイレ=松明入れ、タイレシ=松明入れ衆<複数形>)を代々世襲して出す「家」である。タイレは岩戸寺区に7つある各組から2戸(2人)が決まっていた。タイヌシは岩戸寺区に世襲された10戸であった。
【オオダイ(大松明:おおたいまつ)】
<戦前は神仏へのお灯明の意味をもっていた:大松明は全てタイヌシが準備>
・1番―六所権現者…………………作道 組(ツクリミチ:戦後1962年=13戸)
・2番―岩戸寺  …………………中村 組(ナカムラ :戦後1962年=12戸)
・3番―阿闍梨  …………………払  組(ハライ  :戦後1962年=15戸)
・4番―薬師様(阿弥陀様)………上園 組(ウエゾノ :戦後1962年=4戸)
・5番―三十仏(サンデブツ)……山口 組(ヤマグチ :戦後1962年=13戸)
・6番―金剛童子 …………………向鍛冶組(ムコウカジ:戦後1962年=13戸)
・7番―毘沙門天 …………………日平 組(ヒビラ  :戦後1962年=10戸)




地元区(各組)でのオオダイづくり【1974年:成仏寺】


② 「タイヌシ」時代の崩壊 そのⅠ(1950年~1960年)
・1943年~1949年<中断:7年間>/太平洋戦争……若者の戦地への流出(終戦:1945年)
  この修正鬼会であるが、戦争の激化から1943年に修正鬼会は中止に追い込まれる。戦争中から戦後にかけて、伝統行事を担う世代の若者が召集されて戦死するなどしたためだ。しばらく途絶えていた修正鬼会は、1950年に復活する。終戦後、年配者(古老)が集まり古式を思い出しながら行われたという。1952年に修正鬼会は、区長の在任中(2年)のうち1回行うことに決定された。1953年にNHKが取材にやってきて、大騒ぎとなる。当時はまだテレビがなく、ラジオだけの時代である。「みそぎは1300年もの長い間、フンドシもつけず真っ裸でやってきたが、NHKが来れば必ず記録を残すために写真を撮るに違いない。そうするとどうしてもフンドシをつけた方がいいが自分達の代で伝統を破るわけにはいかぬ……すったもんだのあげくとうとうフンドシをつけることで落着した」(松岡実 昭和56年『大分祭事記』アドバンス大分)。この年の修正鬼会では、はじまって以来、村外から観光客が200人参集したという。しかし、この頃からタイヌシの一部はつとめが果たせなくなり、組によっては、タイヌシの申し出で大松明とタイレを組が出すようになる。
③ 「タイヌシ」時代の崩壊 その2(1961年~1967年)
・1962年~1965年<中断:約4年間>/高度経済成長……若者の都市部への流出
  タイヌシも歳をとり、息子も村の外に働きに出るようになる。修正鬼会には村内(帰省者も含む)の人を雇ってタイレになってもらうようになる。雇用経費はタイヌシが負担。タイヌシのつとめが重荷となる。マスコミ報道で、観光客が増え環境が変化したといわれている。タイヌシは純粋な信仰心から抵抗を感じ、タイヌシ個人に村の行事が寄りかかるのはどうかと疑問が出はじめたという。この段階でほとんどの大松明は組の奉納となって行く。タイヌシが次々とつとめを放棄してゆくなか、1966年に大分県指定の無形文化財に指定される。1967年の区集会で、タイレは各組から家順に2戸ずつ出すことに決める。また、戸数の少ない「上園組と中村組」は連合して大松明を奉納することに決めたという。大松明は7本⇒6本となる。
④ 「組」受け時代(1968年~1986年)
・1968年~1972年<中断:5年間>若者不足と岩戸寺につながる迫道の舗装工事のため/電気製品等の普及……家電・農機具の機会化による生活変化と金銭出費
  組受けになったものの、タイレの当番が回ってきた家は大変であった。急激な「過疎・高齢化」「若者のほとんどが村外に流出」。タイレ当番の家は、他人を個人負担で雇うか、都会にいる息子を呼び返さなければならなかったという。生活様式が変化して、電気製品や農機具を買い換える時期でもあった。出費の多いタイレを受けることは、経済的にも精神的にも非常な負担となりはじめる。1973年「5年ぶりに修正鬼会が岩戸寺で復活する」と新聞が報じる。以前にも増して多くの観光客やマスコミ陣、行政関係者が訪れた。町・県の関係者など来賓として訪れる人が増え、オトキ(直会)での接待の賄いなど、行事にかかる費用は増大したという。1973年「国東町修正鬼会保存会」が設立され、修正鬼会は区の執行部が中心に担うことになる。1977年「国指定重要無形民俗文化財」に指定される。後継者育成のため、県・町から補助金が10年間でることになる。村の人々は「(修正鬼会)がそんなに価値あるものだったのか」と誇りに思ったという。このころから、修正鬼会は岩戸寺と成仏寺で隔年交代に行われるようになる。タイヌシたちが年をとってできなくなったので、組で受けることになったが、今度は組の人たちが年をとってできなくなる。
⑤ 「区」受け時代(1987年~1995年)
・若者不足・高齢化・過疎化がさらに進行する/区民の精神的・金銭的な負担はますます大きくなった。
  1987年には区集会で修正鬼会を組受けから区受けにすることを確認し、上・下組から2本ずつ合計4本の大松明を奉納することになる。各組は、2組が順番に、家順でタイレをだすことに決める(合計8人)。来賓客・観光客の増で、警備や交通整理のため警察にも出動を頼むようになる。タイレは、遠くに住む子どもを呼び戻すケ-ス、嫁の実家や親戚に頼むケ-スが増えたという。村の外に人材を求めなくてはならなくなる。
⑥ 「寺」受け時代(1996年~現在)
・お寺が檀家総代役員と協議し保存会を引き受け、タイレをさがすようになる/区民の精神的・金銭的な負担はなくなり、批判的な意見はなくなる。
  「大松明」と「タイレ」の経費は、お寺が市の補助金と主催者負担金をもとに負担し運営するようになる。寺受けとはいっても経費負担の主体が区から寺へ移動したのであって、松明の作製と奉納は、現在でも区やその下位組織の組が責任を持って行っている。タイレは寺が責任をもって確保しているが、岩戸寺区から8人を出すことは実質不可能な状態である。1996年からは成仏寺の修正鬼会のタイレを数人雇っていた。その後は地元国東高校の野球部員や柔道部員などにも協力を依頼して実施していた。そして、2011年にはじめて、一般公募によるタイレの募集を行うとともに、大分県が実施し市町村が窓口となっている集落応援隊の加勢を受けて開催される。これには開催の後、地元の来浦地区(岩戸寺区ほか3区)から地元でもまだ若い人材がいるなかで、いきなり寺が公募に踏み切ったことへの批判の声も多く聞かれた。また、2009年から修正鬼会は伝統的な日取りを変更した。本来、岩戸寺の修正鬼会は旧暦正月の1月7日に行われるが、行事は夜間が中心なので翌日にも影響するので2009年以降、直近の土曜日に開催することにしている。

3. 修正鬼会と地域の活性化の課題

(1) 祭り組織の変容から見えること
 岩戸寺修正鬼会のタイレ(タイレシ)の変遷を振り返って見た場合、個人→組→区→寺(将来、寺の次に来るのは行政かもしれない「寺→行政」)という変遷で地域の人々の負担が次第に軽くなる方向に移行して来たことがわかり、高齢化や過疎化で祭りの役を負うことが困難になっていく農山村の姿が映し出されているといえる。一方で、修正鬼会にはさまざまな場面で地区の人々の力が必要であり、とうてい一寺院が単独で開催できる行事ではなく、寺院の祭礼であるものの地区全体の祭礼でもある。したがって、農山村に影響を及ぼす日本の経済や社会の変化をダイレクトに受ける宿命にある。つまり、現代日本の大都市への経済の一極集中化によって、農山村は少子・高齢化や過疎化といった慢性的な問題に悩まされ疲弊し、限界集落から崩壊の危機に瀕している。この、少子・高齢化や過疎化の問題が解決しない以上、今後も修正鬼会の継続や農山村の活性化は、厳しい局面が続くものと予想される。

(2) 地域の課題
① 地域の小・中学校が消える(ジュニアの育成のための文化財愛護少年団)
  国東市では、市文化財課が事務局となり伝統行事や文化財の振興や啓発のため「国東市文化財愛護少年団連絡協議会」を2006年に発足している。全国でも同様の取り組みもあると思われるが、大分県では、県全体の連絡協議会のほかは国東市に独自の連絡協議会があるのみである。現在、国東市内では19団体(5団体は休止中)の少年団が結成されており、地域の神楽や文化財の清掃活動などを行っている。協議会では活動の助成(1団体1万円)や「少年団の集い」を行い活動の発表や団体相互の交流、指導者の情報交換の場を提供している。岩戸寺のある地域では本年(2012年)3月31日をもって小学校が閉校となった。中学校は3年前の2009年3月に閉校になっている。これまで伝統行事に関わる子どもの育成は、地元小学校と地域の住民の指導者が一体となって当たり文化祭や運動会などで披露されるケ-スも多くみられた。しかし、現在では子どもと地域の伝統行事をつなぎとめる学校そのものが消えてしまっている。このような中にあって、文化財愛護少年団の活動の意義は、以前にもまして重要なものといえる。子どものころから伝統行事に親しみ郷土愛を育み地域とつながることによって、自然と地域のコミュニティ-の維持と安定化の後継者として、地域の希望となり次世代の育成が図られることになる。その意味で、国東市文化財愛護少年団の活動の充実・強化、さらなる行政の協議会への支援と連携が求められ、子どもと伝統行事との結びつきから、地域のコミュニティ-の維持や安定化のモデルを創出し、より多くの地域で伝統行事の継承と活性化を図っていく必要がある。

② 地域に残された唯一の財産は目には見えない無形の伝統文化
  さて、上記した子どもと伝統行事との結びつきによる効果は直ちに、少子・高齢化、過疎化の対策として根本的な問題の解決には至るはずもなく、ことの本質は日本政府の経済政策や福祉政策の問題である以上、一地域にはなすすべもない訳であるが、少なくとも限界集落と呼ばれる環境の中で、人も物も金も含め全ての財産から見放されたかに見える農山村において、目には見えない無形の財産として伝統文化は、住民個々人の団結力を保ちコミュニティ-の崩壊を防ぎ絆の維持につながっているのは間違いのない事実であろう。それは、風水害や震災で全ての財産を失った住民が、目には見えない無形の財産である地域固有の故郷の伝統行事(故郷の顔)や伝統料理(故郷の味)で地域の団結力を保ち崩壊した村のコミュニティ-の維持し絆を保ち続けているのに似ている。東日本大震災の復興のなかで、もう一度「故郷」で「伝統行事(故郷の顔)を見たい」「伝統料理(故郷の味)を食べたい」との思いでバラバラに分断されて生活を送る被災地の人びとが団結してコミュニティ-の維持や絆を強固なものにしているとの報告を聞くことがある(注1)。農山村あるいは漁村のコミュニティ-の維持や絆は、厳しい経済や社会状況の中にあって、一見、全てを失ったかに見える物質的な財産によってではなく、目には見えない無形の財産である伝統文化によって保持されているといっても過言ではないといえよう。




<参考文献及び注>
・段上達雄 1996「修正鬼会の世界」『豊後高田市史 特論編』豊後高田市
・猿渡土貴 1994「修正鬼会の変質過程」『日本民俗学』200号 日本民俗学会
・菅野剛宏 2009「ムラの現在」『豊後国国東郷の調査 本編』大分県立歴史博物館
注1)世界文明フォ-ラム2012-世代間の公正を実現するために(宮城県女川町竹浦の震災復興事例報告:神山 梓氏)
※岩戸寺境内図の原図は大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館編1996『六郷山寺院遺構確認調査報告書Ⅳ』より