1. 論 点
(1) 伝統行事と地域活性化
観光振興の名のもとに地域的な特色を示す伝統行事が脚光を浴びている。一方で、地域の伝統行事(祭りや芸能)は、少子高齢化による後継者不足から存続の危機に瀕している。伝統行事は地方文化の指標となり、地方文化の振興に寄与するとともに地域のコミュニティ-の維持と安定化の要になるといわれている。しかし、伝統行事を支えている農山村の高齢化や人口減は、深刻な問題として地域に横たわり、将来的に解消される見通しもなく、農山村は極めて弱体化せざるを得ない状態にある。そうした中で、伝統行事(祭りや芸能)は、無形の民俗文化財として国・都道府県・市町村の法律や条令によって、存続や伝承のために指定され、補助金交付等の行政的な支援が行われている。しかし、目には見えない地域の伝統文化の振興や衰退(崩壊)は、目に見える有形の文化財や資産とは異なり、必ずしも住民と行政とが一体となって有効な対策がとられているかというと、疑問視せざるを得ない状況にある。
2. 修正鬼会とその変遷
(1) 国東半島の修正鬼会
国東(くにさき)の修正鬼会は、民俗芸能のうち特に重要なもので「芸能の発生又は成立を示すもの」であるとの理由から、大分県第1号(最初)の国の重要無形民俗文化財として全国的にも早く1977年に指定されている(重要無形民俗文化財は1975年に国<文化庁>で制度化され、1976年から指定されるようになる)。修正鬼会は国東半島を代表する祭りであるとともに大分県の顔ともいえる祭りであり、古来の鬼(鬼神)の姿を最も良く今日に伝える国内でも特に貴重な祭りといえる。
修正鬼会は、春を迎える仏教行事の「修正会」と「鬼会」とが結びついてできたといわれている。「修正会」は、古代日本の宮中の大晦日の年中行事であった追儺(ついな)の要素をもつ仏教法会で、悪魔を祓い吉祥を生む目的がある。追儺はもとは中国の行事であり、現在は節分の豆まきとして習俗(習慣や風俗)化している。今日の中国の追儺行事(祭り)では、鬼と鬼神(神)とは区別されており、多くの場合、鬼は見えないために恐れられ病気や不幸をもたらすとされているようだ。中国ではこの見えない鬼を、風貌の恐ろしい仮面をつけて登場する鬼神(神)が逐い祓うことを祭りの主体としている。日本の宮中行事の追儺で登場する邪を祓う神が、修正会に取り入れられ、邪を祓う鬼神として、本来の性格を保ち続けているのが、国東の「修正鬼会」の鬼(神仏)と考えられている。「修正鬼会」の鬼は、逐い祓われる存在としての悪鬼ではなく、人びとに幸せをもたらすために、邪をなすものを逐い祓う仮面の鬼神であり、古来の鬼(鬼神)の姿を今に伝えているのだ。
国東半島でかつて盛行した修正鬼会は、現在、山間の村にある岩戸寺・成仏寺・天念寺の3箇寺で旧暦正月に行われている。岩戸寺では、「オ-ニワヨ-、ライショハヨ-」のかけ声とともに、燃え盛る松明を振り回しながら講堂で鬼(鬼神)が舞う。その後、鬼(鬼神)は堂内から飛び出し、村の民家を回り無病息災の祈願を行いもてなしを受ける。再び鬼(鬼神)が寺に戻って来るのは日付の変わった深夜である。
(2) 村と修正鬼会
それでは、この村の伝統行事である修正鬼会は、どのような変遷を経て今日なお受け継がれているのだろうか。すでに公にされている調査成果と近年の状況の把握を基に、伝統行事を支える村人の視点からその運営の歴史的な経過について見てみたいと思う。
① 戦前の「タイヌシ」(松明主:たいまつぬし)時代
戦前は岩戸寺村が主催し、区長と総監督役(トシノカンジョウ)が全責任をおっていた。しかし、村の中で実際に修正鬼会を取り仕切ったのは、タイヌシ(松明主)であった。タイヌシとは、1番から7番のオオダイ(大松明)を、組の代表者として責任をもって用意するとともに、奉納役のタイレ(タイレ=松明入れ、タイレシ=松明入れ衆<複数形>)を代々世襲して出す「家」である。タイレは岩戸寺区に7つある各組から2戸(2人)が決まっていた。タイヌシは岩戸寺区に世襲された10戸であった。
【オオダイ(大松明:おおたいまつ)】
<戦前は神仏へのお灯明の意味をもっていた:大松明は全てタイヌシが準備>
・1番―六所権現者…………………作道 組(ツクリミチ:戦後1962年=13戸)
・2番―岩戸寺 …………………中村 組(ナカムラ :戦後1962年=12戸)
・3番―阿闍梨 …………………払 組(ハライ :戦後1962年=15戸)
・4番―薬師様(阿弥陀様)………上園 組(ウエゾノ :戦後1962年=4戸)
・5番―三十仏(サンデブツ)……山口 組(ヤマグチ :戦後1962年=13戸)
・6番―金剛童子 …………………向鍛冶組(ムコウカジ:戦後1962年=13戸)
・7番―毘沙門天 …………………日平 組(ヒビラ :戦後1962年=10戸)
|