【要請レポート】

第34回兵庫自治研集会
第10分科会 「地域力」「現場力」アップにむけた学び合い

 “学び”と“学び合い”は日常の中にあります。人が営む上では、その“学び”は必要不可欠なものです。その日常にある個または団体の“学び”こそが、社会教育活動であり、生きる原動力。
 このレポートでは、事例や震災の経験を通して、あらためて“学び”の重要性と“学び合い”の必要性を再認識し、これからのまちづくりのあり方を考えます。



「学び合い」を通してまちづくりを支援する社会教育活動
~仙台市の事例と震災の経験も踏まえて~

宮城県本部/仙台市職員労働組合・教育支部 今川 義博

1. “学び”と“学び合い”、そして社会教育・生涯学習とは

(1) 人は学ぶ生き物
 「人は生きている限り、何かを学び続けています。」
 “学び”というと、通常「勉強」「学習」などのイメージが強く、学び続けているということに違和感を持つ方もいると思いますが、“学び”の形態は「体験」「経験」「気づき」「見聞」「五感」等々、様々な形・方法があると思います。
 人は、お腹の中にいるときから声、音を聞き、何かを感じている、いわゆる体験学習をしていると言われ、このように命の芽生えた時から何かを感じ=学び、そして天に召されるまで色々なことを考え行動し、そこには必ず何らかの経験・気づきなど=学びとともに生きていきます。
 ここで申しあげたかったのは、人と“学び”は切っても切れない関係であること、また“学び”にはいわゆる学習活動だけでなく、経験や気づきなどを含む様々な形態があるということです。

(2) “学び”と“学び合い”
 あらためて“学び”の定義を考えてみましょう。
 英訳すれば「learning」「study」「lesson」が該当し、いずれも、「学習」をイメージするものですが、“学び”という語は「学習」と等しい意味で用いられる一方、学習よりも主体的かつ人間的な営みを含む意味で用いられるとの定義もあるようです。
 まさに、「主体的かつ人間的な営みを含む」ということは、人が生きて行く上で“学び”が重要な要素であることを意味していると思います。
 さて、“学び合い”ですが、こちらは非常に定義が難しいようです。この原稿を書きながらいろいろと調べてみました。様々な方々が実践として取り組まれている「学び合い」の事例は多数ありますが、一言で定義するのは難しく、もちろん広辞苑にもありませんでした。言葉どおりに考えると「学び+合う」ですから、一人で学習するものではなく、複数でなされるものというイメージになります。もう少し具体的に表現するならば「学ぶことを共にしながら、一つの共有を得る」又は「互いを認め合いながら、共に学ぶ」で、当たらずとも遠からずといったところでしょうか。
 今日、学校教育の分野や教育関係の研究者の中で「学び合い」をテーマとした研究が進められ、かつ実践されていますが、筆者がここで述べる“学び合い”はそれらとは多少異なるところもあると思いますのであらかじめお断りしておきます。その上で、前記したようなことからすると“学び合い”は日常にいくつもあり、自然に行われていると考えています。もちろん、取り立てて行う場合(例えばワークショップのような学習形態や今日研究されているもの)もあるでしょうが筆者がお話したいのは、やはり“学び”も“学び合い”も人が生きて行く上で日常に自然に行われているものでもあり、それがとても重要なことと考えている点です。
 また、人には欲求というものがあります。その欲求を満たすためにも学んではいないでしょうか。例えば、何かを上手くなりたい、もっと便利にしたいという向上心、そのような一つの欲求が生まれれば、それに向って練習したり、調べたりすることは当然のことであり、それが学習活動であり“学び”であります。さらに、これを集団で行うことは“学び合い”の一つの形ではないでしょうか。このように人は知らず知らずのうちに、“学び”や“学び合い”を自然に日々行っているものなのです。
 現代社会は、そういった“学び”や“学び合い”の結果として、様々な技術向上や革新が起こり、ここまで豊かになってきたと言っても過言ではありません。ですから、社会を豊かにしていくという過程においても、“学び”や“学び合い”が非常に重要であると言えるのではないでしょうか。

(3) 社会教育の原点と生涯学習
 社会教育とは、社会教育法上、「学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む)」と定義されています。歴史的に見ると、明治期には「通俗教育」と呼ばれ、社会階層上の中以下の国民に平易な教育の機会を提供する施策に始まり、大正時代から今日のような名称に改められ、近年は「社会教育」に換えて「生涯学習」という用語を狭義の同義語として使う場合もあります。
 また、一面的には「学校教育」に対し「社会教育」という捉え方があるように、戦中戦後の混乱期などに学校教育を満足に受けられなかった者への識字教育を含めて、社会生活を送る上で必要な“学び”を補完するという捉え方もあります。しかし、いずれもいわゆる組織的な教育活動としての社会教育という捉え方になっていますが、筆者は「人が生きて行く上で必要な“学び”」があり、そしてそういった学びが拡大し“学び合い”を通じて地域を良くしていくことにつながるような『学び』こそが社会教育の原点ともいうべきで、日常の人の営みの中にまさに社会教育があると考えます。日本の中には、社会教育を通じて地域活性化につながった例はいたるところにあります。また、社会教育の仕事は「直接的または間接的にその“学び”の手助けをする」ことと考えています。
 一方、生涯学習という言葉は、学校教育と社会教育、そして家庭教育を包括するものとして使われていると思われます。先に狭義の捉え方を紹介しましたが、今日的な生涯学習の捉え方はこちらが一般的になっています。文部科学省が進めている生涯学習も同じで、生涯学習という言葉が使われるようになって数年後には文部科学省の筆頭局も生涯学習局となっていることなどから窺えます。
 ただし、個人的にはあまり好きな言葉ではありません。「学習」という言葉から主体的に自ら学ぶということに異論はないのですが、ややもすると「学習」と表現されたことにより、個人の学びと捉えられているようにも思え、良くも悪くも自己完結的な学びとされてしまっているようで、社会教育的な考え方とは違うと思えるものに包括されていることに懸念を抱いています。
 先に述べた社会教育は「教育」という言葉を使っているために、「教える側」と「学ぶ側」の関係性がイメージでき、しかし単に知識等を詰め込むのではなく、育む姿勢を持って学ぶ側に対応していく、必要に応じて共に学ぶこともある“学び合い”が起きる環境にあるように思います。したがって、筆者としては個人の学びとして捉えられがちな生涯学習という言葉よりも、やはり社会教育という言葉にこだわりたいと思っています。

2. まちづくりの考え方と実践例

(1) 行政が進めてきたまちづくり・地域づくり
 『まちづくり』という言葉が積極的に使われ始めて早四半世紀が過ぎようとしています。しかしながら、言葉の響きの良さとは裏腹に、ともすると行政的に住民をコントロールするような『まちづくり』であったり、逆に悪い意味での先の自己責任論的な見地に立ち、半ば行政責任を放棄?して地域住民に押し付ける『まちづくり』も散見されます。このようなまちづくりは、筆者の中では古くから社会教育が培ってきたまちづくりとは、質が異なる感想を持っています。
 行政がかかわるまちづくりは、行政側が一定「こうあれば良い」というよく言えば目標を掲げて、住民をそこに向かわせるためのワークショップ等を行って主導していくものが多いと思われます。行政として支援していくまちづくりですから当然予算も使うし、お金や人をかけて行う以上行政目的に沿って進めたいに違いありません。そうなると、本来そこの住む人、地域の想いとはかけ離れたものとなることもしばしば起こります。また中には、これまで行政が行ってきたことを地域に組織を作らせて都合よく押し付けてしまうケースもあります。本来まちづくりとは、そこに住む住民が自分の地域を良くしようと自ら課題に取り組み、行動し決めていくことと、行政はその支援者として支えていくことが重要だと思います。行政の都合により左右されることはいかがなものかと考えます。

(2) 社会教育的なまちづくり<事例Ⅰ>
 仙台市の郊外に広瀬地区と呼ばれる地域があります。ここは旧宮城町の一地域ですが、旧仙台市にくらべ社会教育が根付いている地域と言ってよく、この地域ならではと思える事例がありますので紹介します。
 広瀬市民センターが2010年度から手がけている市民企画講座で「再発見 ひろせの底力」というものがあります。この市民企画講座は、前年にこの地域の歴史を学ぶ講座があり、その中で「カッパダ川」という川について学んだ受講生が主体になって、市民センターと共に立ち上げた講座です。
 講座立ち上げのきっかけは、その川は昔この地域に様々な恩恵をもたらし重要でありましたが、現在は役目を終え姿も少し変わり、地域から忘れ去られていきかけていたことにはじまります。一方、その川はまもなく大型スーパーの出店に伴い暗渠となってしまうということもその時点で分かっていました。
 このことから受講生の多くが「この地域の人々の暮らしと農業を支えた『カッパダ川』をこのまま単純に暗渠にしてはいけない」という想いを懐き、2年に及ぶ講座の結果として大型スーパーの開発者も巻き込んで、最終的に川の形に沿った暗渠としたり、一部を露出させたりして、「カッパダ川ひろば」というものが設置されることにつながりました。この講座では、きっかけとなる前段の歴史講座は施設職員が行ったものですが、その後受講生の想いを汲んで職員も一緒に学びながら、最終的には受講生以外の多くの地域の人々、そして開発業者まで巻き込んで地域づくりに発展させた例と言えます。

(3) 社会教育的なまちづくり<事例Ⅱ>
 仙台市の中心部に「壱弐参(いろは)横丁」という商業エリアがあります。昔ながらの長屋的風情を残し、とても昭和を感じる地域でもあります。仙台市内の多くは、再開発等によりビル化してしまい昔ながらの老舗も減って、結果画一的で面白味がないと言われることもしばしばです。その様な中、中心商店街でも一番南部に位置するサンモール一番町商店街に隣接するように「壱弐参横丁」が残っていました。「壱弐参横丁」は戦後の混乱期に闇市(中央市場)として出発した地域が、幾度もの再開発の話を乗り越えて現在まで残っている商店街です。
 近年は、この地域をこよなく愛する客層と一部の外国人観光客の人気スポットとなりつつありますが、正直繁盛しているとはとても言えない商店街でもあります。仙台に訪れる観光客または買い物客のほとんどは、中央通というアーケード街を抜けると北へ向い、市役所前まで続く一番町各商店街へ流れていきます。壱弐参横丁は、そことは逆の中央通から南側のエリアに位置し、先のサンモール一番町商店街に隣接していますが、このサンモールエリアは北側に比べかなり閑散としています。
 その様な状況の中、壱弐参横丁の中の商業協同組合とテナントとして入っているいくつかの店主たちが、活性化に向けて立ち上がることになりました。このとき、この地域に位置している青葉区中央市民センターが、その活動支援に加わり、地域の商店街と共にこのエリアの活性化を2008年頃から進めてきました。
 初期段階は、どのような形で進めていくかについて「壱弐参横丁まちづくり会議」と称して月1回の話し合いを進めていき、様々な別の商店街の取り組みなどを学びながら、2009年1月に仙台の正月を締めくくる「どんと祭」に合わせて、『いろは横丁の小正月』という催しを横丁内で開催し、昭和の雰囲気を楽しんでもらい横丁を知ってもらおうとはじまりました。昭和ということで昔懐かしい“ちんどんや”にも出てもらい、映画「三丁目の夕日」的な雰囲気を楽しみました。その後は、毎年の夏の一大イベント「仙台七夕まつり」に合わせた企画や、初秋にサラリーマンとOLの収穫祭「いろは横丁・サナブリ祭」としてバル市を行ったりしてきました。
 イベントは上々に進みましたが、活性化という点では今一つ成果が上がらず、日々の集客などは各店舗とも苦労が続いています。その後、東日本大震災が起き、その震災対応に対する商業組合側とテナントの間に軋轢がおきてしまい、一部のイベントは続けられているものの、以前のような全体的な協働作業として進まなくなり、活性化としての進展も見えなくなってしまいました。支援者として関わってきた市民センターは、現在まちづくりの火が消えないようにイベントへの協力を継続しつつ、人と人とのつながりの再構築に向けて日夜努力を続けているところです。

3. 震災を経ての新たな経験まちづくりの考え方と実践例

(1) 東日本大震災と避難所運営
 2011年3月11日、東日本大震災が起きました。筆者も全く経験のしたことのない揺れ・規模の地震でした。筆者の勤務先は、仙台市の中心地にある市民センター(いわゆる公民館施設。仙台は公民館と呼ばず市民センターと呼びます)で学校に併設されている施設でもあります。
 揺れが収まるのを待ち、施設利用者の安全確保と避難誘導をし、建物の外へ出たのは20分後くらいだったと思います。この辺りは、オフィス街でもあるし商業地域でもあるエリアなので、学校の校庭には入りきれないほどの人が集まり、周辺の道路にも人は溢れていました。余震は続くものの、1時間が過ぎると外に出ていた人は、自身の店舗や事務所の様子の確認または帰宅するため、やや人が引けました。ただ、当然のことながら交通手段はありません。その後は、あらためて帰宅困難となった人々で溢れることになりました。
 この時、学校施設はどこの都市でも同様と思いますが、即座に指定避難所として開放をされました。しかし、当時市民センターはその指定をされておらず、施設長の初期判断は避難者を受け入れないというものでした。筆者としては、施設が中心市街地にあるため、交通手段を失った先の帰宅困難者が学校に続々集まっている様子と、校舎に入りきらない避難者が校庭に溢れ始めているのを目の当たりにし、外は暗くなり始め雪も降ってきている状況から、併設されている自分の施設に避難者を受け入れないということに違和感を覚え、施設長に対して受け入れを進言し、やや遅れて避難者の受け入れを開始しました。そこから1週間、筆者の市民センターも避難所運営に追われました。被災の酷かった沿岸部に近い市民センターでは、1ヶ月から3ヶ月の間避難所を運営しました。
 その時に気付いたこととして、これまで施設を利用したことのない、顔を見たこともない市民が多数避難をしてきたことには当然のことと思いつつも、「日頃利用をしている地域住民はどうしてるんだろう?」という思いも持ちました。あとからわかったことですが、日頃施設を利用したり、防災学習をしていた地域住民は、学んだとおり指定避難所となっている学校へいち早く避難をしていたようです。このことは、筆者が勤務している中心市街地の市民センターにだけ言えたことではなく、郊外の市民センターにおいても同様のケースが多数見受けられたと聞いています。
 また、避難所運営にあっては、避難民が主体的に避難所を運営したケースが紹介されている一方、市民センターのような避難所は多くの避難者が受け身的な姿勢でそれほど主体的ではなかったとも聞こえています。先にも述べたように、日頃学んでいた避難者はいわゆる指定避難所へ避難しており、そういった避難所では緊急的な自治組織を構成し主体的な運営につながっていたと考えられ、あまり学んでいない避難者の多い指定避難所以外の避難所では、施設管理者の指導の下に一定の共同体を構成し一部の避難所運営をするにとどまっていたようです。ただし、最大の被災を受けた沿岸部においては避難者の数も桁違いのため、一つの指定避難所だけに入りきれないこともあり、自然にそれぞれの居住地に近い公共施設も避難所化されたことから、市民センターのような避難施設であっても地域住民とともにしっかりとした避難所運営がなされたところもあり、一概に言えないことを付け加えておきます。

(2) 避難所運営から見えたこと
 このような大規模な災害が起きたとき、人はそれまでの学びや経験をもとに行動をすることが分かりました。逆に言えば日頃学んでいない人たちは指定避難所などということとは関係なく、公共が市民を救うのは当然であるという考えのもとに、自身がいる場所の近くの公共施設へ押し寄せたのだろうと思います。
 また、避難後の避難者の行動も前記したように大きく二分する避難所運営の状況でありましたし、日頃災害時のことを学んでいたか否かによって違いがあったのではないかと考えられます。まだ行われていませんが、仙台市教育委員会は社会教育・生涯学習の視点で、この辺りの住民の行動に関して調査を計画しているようです。具体的には、そういった調査結果に期待したいと思いますが、現段階で筆者の経験則的には事前の学びがあったか否かで差があるように思えました。
 さらに、避難所運営の組織の中でも、いわゆる“学び合い”のような感じで避難者と施設管理者、そして支援者である行政が、ともに対等に話し合い、収集した情報を共有し合い、避難所運営を行っていたという施設職員の話もあり、日頃の“学び”や“学び合い”が生きた一例と言えそうです。
 したがって、この震災の経験からあらためて日常的な“学び”の必要性や“学び合い”の重要性が見えたように思いますし、ここで記したことは避難所運営に絡んでのことではありますが、通常の地域づくりなどにも同様にいえることはいうまでもないのではないでしょうか。

4. まとめ

 前回の愛知自治研において、「社会教育施設の首長部局移管問題」を提起する中で「どの都市・自治体でも地域コミュニティの再生とそれへの支援を大きな課題として抱えている。(中略)公民館は教育施設ではあり、そこでの学びを通して地域や・住民個々が持つ課題を解決していくことをサポートする施設である。公民館は古くから地域コミュニティの拠点としてコミュニティ再生の課題に対しては必要不可欠な施設。(中略)“学ぶ”住民の視点で課題解決を図ることを支援する施設である。」と述べさせていただいています。
 今回、あらためて同じように思うことと、社会教育が培ってきた“学び”と“学び合い”を通じた地域づくり・まちづくりが必要とされているように思いました。それには「市民協働やコミュニティ支援を進めようとするならば、公民館の所属がどうのこうのというより以前に、まず住民としっかりとコミュニケーションが取れる職員の育成、自治体自身が住民とちゃんと向き合う覚悟、そして住民が自ら課題を解決できるようになるための“学び”がなければいけない(前回自治研記述)」ということに変わりはなく、前述の2つの事例でも明白です。
 以上としますが、終わりに雑駁なレポートになったことのお詫びと、できましたら集会の中で多くの参加者の皆さんとともに“学び合い”ながら、あらためて考えていけたらと思っています。