【自主レポート】 |
第34回兵庫自治研集会 第10分科会 「地域力」「現場力」アップにむけた学び合い |
埋蔵文化財研究所の職員として、地域の歴史的文化に関わる仕事をしながら、伝統芸能の存続のため、ボランティアとして狂言の保存にも取り組んでいる。地域の伝統芸能は経済的にも困難さをかかえているが、地域活動として、存続に向けてどのように支えていくか、その現状と課題をまとめた。 |
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1. はじめに 京都の伝統芸能には宗教行事にかかわる芸能が数多くあるが、三大念仏狂言と称せられる狂言がある。壬生寺(宝幢三昧院、壬生地蔵堂、中京区壬生梛ノ宮町)で行われる壬生大念仏狂言、引接寺(千本閻魔堂、京都市上京区閻魔前町)の閻魔堂狂言、そして嵯峨・清凉寺(釈迦堂、京都市右京区嵯峨)の嵯峨大念仏狂言(以下、嵯峨狂言)である。いずれも舞台芸能系であり、融通大念仏会にともなった乱行念仏が芸能化したもので、仮面をつけた無言劇である(閻魔堂狂言は有言)。嵯峨狂言の創始者は円覚十万上人道御である。十万上人は鎌倉時代の中頃には京都・花園の法金剛院を本拠として大念仏会を千本、壬生や嵯峨に広めていった。したがって、この狂言は単に娯楽のための演劇ではなく大念仏の功徳により、あの世では地獄の責苦をまぬがれ、現世では病気や危難をまぬがれるという、唱導の目的をもちながら、庶民が楽しめるものであった。また各狂言は念仏講と呼ばれた集団により演じられていた。本来は葬儀と祖霊祭祀にかかわる講集団で、無常講、鉦講、尼講などともよばれ、大念仏・六歳念仏や念仏踊りも演ずる。いずれも村における相互扶助的な信仰共同体であった。この共同体(講)は聖により鎌倉時代には奈良や京都に普及していく。大念仏狂言や六歳念仏の広がりも彼らによるものだと考えられる。 |
2. 嵯峨狂言とは 嵯峨釈迦堂(清凉寺)の大念仏会にともなう宗教行事である。清凉寺は大覚寺の西、二尊院の東にある浄土宗の大寺で、五台山と号し、通称を嵯峨の釈迦堂と呼ばれている。本来は華厳宗の寺院で平安時代に創建され、鎌倉時代には浄土信仰の広がりで天台・真言・念仏宗を兼ねた寺となり、室町時代には融通念仏の道場に発展した。狂言は鎌倉時代末に念仏者の活動による大念仏会を背景に、嵯峨の地に根付いたと考えられている。当時、釈迦堂に集まる人々は念仏を合唱し、一体感を味わうとともに、念仏の功徳を融通しあったものと思われる。この結縁者の「ナンマイダブツ」の大合唱のなかで演じられる狂言は、台詞があっても聞こえないために、無言劇になったと考えられ、決してフランス流のパントマイムの真似ではなく、またこの大念仏狂言には踊りがあったことも推測でき、大念仏会は詠唱と踊りと狂言で構成されていたとみられる。嵯峨狂言の持ち味は土の匂いがただよう、おおらかな味わいがする土着性である。大念仏狂言そのものがもつ魅力は、演者が着ける面と一定の約束ごとでの動きによる形式美のすばらしさといえる。そのことは念仏芸能がいかに多種多様な日本の芸能の母胎になっていったのかということにも繋がる。念仏は発祥当初から日本では音楽・舞踊・演劇といった芸能的色彩が濃い宗教儀礼であった。その後、変遷を経て中世以降の多くの芸能を生み、日本の民俗芸能の源流ともなった。そのことは念仏が民衆の奥深くに在る祖霊観念と結びつき、また浄土教系、禅宗、真言宗などの諸宗の布教が念仏を媒介にしていたためであろうとも言われている。演劇的な念仏狂言は、近世社会になって勧進聖の活動範囲が狭まり、他の世俗的な娯楽が多くなり民衆の関心が薄らいでくると壬生・閻魔堂、嵯峨などに痕跡をとどめるだけになった。 |
3. 嵯峨狂言の現状 現在、嵯峨狂言は嵯峨大念仏狂言保存会という地域を含む近隣の有志による保存会で行われている。本来、中世から念仏講と呼ばれた村における相互扶助的な共同体組織が担い、寺院と一体化して宗教行事の一環で狂言が演じられてきた。しかし第二次世界大戦後、社会の変化に伴い、1963年(昭和38年)には念仏講の後継者が続かなくなり、また、資金面などの経済的理由により狂言も中絶状態となった。しかし12年後、古典芸能の見直しがブームとなった1975年(昭和50年)、嵯峨狂言復活の地域の機運も高まり、地元の古老の熱い想いにより復活し、念仏講に代わり「嵯峨大念仏狂言保存会」が結成された。1985年(昭和60年)には、その独特のユーモラスなしぐさや歴史的価値が認められて、国の民俗無形文化財に指定された。京都府では壬生狂言や祇園祭山鉾巡行などに続き、国の重要文化遺産として5件目となった。以来、中・高校生を含む約30人の会員で、春・秋季公演などの定期公開を清凉寺の狂言堂で行い、またホテルや学校、遠くは大阪の国立文楽劇場などでの出張公演も行っている。また、最近では小学校への出前授業や、狂言堂での体験学習、そして10数年前には子供狂言クラブを設け、右京区の小学生を対象に行っており、嵯峨狂言の啓蒙・普及の活動にもつながり、存続への大きな原動力となっている。 |
4. まとめ 地域に残された伝統芸能にかかわる立場から、地域活動として、今後、どのように守り、支えていくか、課題を挙げながらまとめにかえたい。
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【参考文献】 |