【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第10分科会 「地域力」「現場力」アップにむけた学び合い

 大阪市職員労働組合は商店街の空き店舗を活用して、市民交流スペース「みつや交流亭」の運営に取り組んでいる。大阪市職が「みつや交流亭」を通じて参加した防災イベント「ぼうさい市」によって生まれたネットワークを活用し、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町に対して行った支援活動を紹介する。



地域間ネットワークと市民協働を通じた被災地支援活動
南三陸町への物資支援・商店街復興支援への取り組み

大阪府本部/大阪市職関係労働組合

はじめに

 大阪市職員労働組合(大阪市職)は2007年より大阪市淀川区の三津屋商店街の空き店舗を活用して、商店街、地域とともに市民交流スペース「みつや交流亭」の運営に取り組んでいる。その経緯は全国自治研でも報告したところであるが、大阪市職が「みつや交流亭」を通じて参加した防災イベント「ぼうさい朝市&昼市」によって生まれたネットワークを活用し、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町に対して行った支援活動を紹介する。

1. 北前船寄港地を結ぶネットワークへの参加

 大阪市職が三津屋商店街振興組合と地域のさまざまな住民の協力を得て、商店街に開設した市民交流スペース「みつや交流亭」では、開設当初より学習会、イベントなどを開催してきた(「みつや交流亭」開設の経緯は、全国自治研での報告参照)。2008年6月には、商店街活性化について考えることを目的として、経済産業省・商業活性化アドバイザーの藤村望洋さんを招いて、学習会を開催した。その縁で、藤村さんより、主に北前船寄港地にある商店街が連携する「大阪蔵屋敷ネットワーク」の構想を紹介された。同ネットワークは、災害時には相互の支援を行い、平常時には災害時の訓練を兼ねてそれぞれの特産品を販売する物産市を開催することを通じて、独自の物産ネットワークを確立しようとする構想であった。またこの構想は、各地方が一極としての東京へダイレクトに(物流的にも、情報・文化的にも)統合された現在のシステムに対して、かつての北前船のように最終目的地を大阪としながらも、寄港地同士が水平的につながったシステムの可能性を追求しようとするものでもあった。
 「大阪蔵屋敷ネットワーク」の具体的な事業としては、相互のネットワークづくりとともに、北前船の寄港地にある商店街が被災したとの想定のもと、そこで「ぼうさい市」を開催し、他の商店街からそこへ「美味しい救援物資」と称した物産を送り、物資を「配布」(販売)する、という取り組みが重要である。商店街を活用するというのは、各商店が物資仕分けのプロであるということに意味がある。その発想の背景には、北前船の一大寄港地であった山形県酒田市が1976年に市内の大半が焼失する大火に見舞われた際、仕分けがされていないまま段ボールにつめられた救援物資が大量に全国から送付されたため、現場で大混乱に陥ったという経験があった。そのために、現実に災害が発生した場合には、ネットワークを通じて受け入れ態勢の整っていない現地ではなく、まず被害を受けていない隣接した商店街に物資を送り、いったんそこで仕分けてから被災地に送るという「隣から支援」という方式も想定されていた(この方式は2004年の中越地震の際、被災地である新潟県十日市町と、ネットワークに参加している長野県飯山市との間で有効に機能した)。

2. 神崎川・三津屋商店街地域「ぼうさい朝市&昼市」の開催

 「大阪蔵屋敷ネットワーク」は内閣官房地域活性化統合本部の2008年度「地方の元気再生事業」に選定され、北前船の最終目的地の大阪にある三津屋地域の神崎川河川敷でも、実際に「ぼうさい市」を開催しようということになった。その意識を高めるため、防災研究の第一人者であり内閣府中央防災会議専門委員の室﨑益輝関西学院大学教授をお招きし、「地域にねざし、地域を育み、地域ぐるみの防災」をテーマに、地域や商店街のみなさんの参加のもと「みつや交流亭」で防災セミナーを開催した。セミナーでは、室﨑さんから防災における地域コミュニティの重要性が指摘され、地域住民が総出で協力して行う一大イベントである地域の祭りは「最大の防災訓練」との言葉があった。


 
写真1 室﨑益輝さんによる防災セミナー
  写真2 「みつや交流亭」での「ぼうさい朝市&昼市」打ち合わせの様子

 このような経緯を経て、「ぼうさい市」は三津屋地域における防災訓練として位置付けられ、会場の設営は地元町内会のみなさんが行うこととなった。その事前準備にあたっては、町内会の防災リーダーによる会場設営や警備の手配、女性会による「美味しい救援物資」の「配布」や「炊き出し」などの任務分担・人員配置、あるいは町内会が所有するテントやコンロなど機材の事前確認など、まさに「地域の祭りは最大の防災訓練」となった。
 「ぼうさい市」にあわせて行政による防災セミナーやさまざまな関連イベントも開催されることになり、町内会、商店街、国・府・市の行政担当者、NPO、大阪市職など、さまざまな立場のメンバーが「みつや交流亭」に集まって、何度も事前の打ち合わせを行った。「みつや交流亭」にはそれぞれの立場を理解しながらも、忌憚のない話し合いができる「雰囲気」があり、通常では考えられない「協働」作業が実現することとなった。大阪市職としても、このような場において行政、地域、商店街、NPOなどとの間(とりわけ構成員が自治体職員ということもあって行政とその他の民間グループ)をつなぐ役割を果たせたのではないかと考えている。


 
写真3 「ぼうさい朝市&昼市」で設営作業をする地元町会の皆さん   写真4 多くの人で賑わう「ぼうさい朝市&昼市」会場

 「ぼうさい市」は、2008年11月2日に神崎川・三津屋商店街地域「ぼうさい朝市&昼市」として開催された。三津屋地域が被災したとの想定のもと、北海道、山形県、新潟県、石川県、福井県、島根県、岡山県の北前船寄港地、さらには宮城県や鹿児島県の商店街から送られた「美味しい救援物資」に、約2,000人が来場する大盛況となった。大阪市職の組合員たちも、企画や各種申請手続きから撤収作業にいたるまで、さまざまなかたちで町内会、商店街、NPOと協働し、「ぼうさい市」の成功に貢献することができた。以後、形態や規模を変えながら、「ぼうさい市」は三津屋地域で3回開催された(「ぼうさい市」は、山形県酒田市、岡山県笠岡市、鹿児島市、宮城県南三陸町、さらには洪水で大きな被害を受けた経験を持つ兵庫県佐用町でも開催され、三津屋地域以外の大阪市内でも中央区、西区で開催された)。

3. ネットワークを通じた被災地への実情に応じた支援活動

 そして、2011年3月11日、あまりにも早くこのネットワークが機能することとなってしまった。
 大阪市職では、東日本大震災発生の翌日3月12日に対策本部を設置し、被災地支援活動に取り組むこととなった。組合員へ災害救援カンパを呼び掛けるとともに、救援物資の送付作業も開始した。震災後早期の段階では現地での混乱を避けるために、大阪市をはじめ各自治体は品目を限って救援物資の受付を行っていた。しかし、「大阪蔵屋敷ネットワーク」では「隣から支援」として、被災地と比較的近いが日本海側で津波の被害を受けなかった酒田市の商店街に、各地でとりあえず収集できた物資を集め、そこからこれもまたネットワークに参加していた南三陸町に送ることとなった。酒田市の商店街からは、すでに震災の2日後に津波で甚大な被害を受けた南三陸町に入っており、現地で得られた情報を基に酒田市の商店街にネットワークから送られてきた物資を実情に応じて仕分けしては、南三陸町まで雪道をトラックで運ぶというピストン輸送を行った(この活動は、内閣府「地域活性化総合情報サイト」
      http://www.chiiki-info.go.jp/backnumber/local/detail/110422_1.html
でも紹介されている)。先述した酒田大火の経験から「大阪蔵屋敷ネットワーク」においても中心的な役割を果たしてきた、酒田市中通商店街の皆さんの奮闘には目を見張るものがあった。
 四川省大地震以来、即応的な支援活動として、国を介さず自治体同士が一対一で直接支援し合う「対口支援」が注目されるようになり、今回の大震災では大阪市も岩手県釜石市に対して直接支援を行った。また、内陸に所在して被害が比較的軽微だった岩手県遠野市が、津波で深刻な被害を受けた沿岸部各地へ支援に向かうボランティアの「後方基地」として機能した。「大阪蔵屋敷ネットワーク」の「隣から支援」は、まさにこのような支援のあり方を事前の関係づくりのなかで想定したものだった。大阪市職も「ぼうさい市」に参加し、南三陸町や酒田市の商店街と関係ができた縁で、呼びかけに応じて組合員から集まった物資を酒田市の商店街から南三陸町へのルートに乗せることができた。「後方基地」である酒田市からの情報を基にして、その時点で実際に現地が必要としている物資の提供を組合員に求めることができ、行政とは異なるきめ細かな「対口支援」を南三陸町に対して行うことができたと考えている。

4. 「復興」段階での支援活動

 このように大阪市職として物資支援という関わり方をしていたが、時間を経るにしたがって「復興」へと重点がシフトしていくことになる。
 南三陸町では、「ぼうさい市」で培われたネットワークと経験を活かして、商店街復興を目的とした「福興市(ふっこういち)」が月1回開催されることになった。津波によって商店街が完全に消失し、「大阪蔵屋敷ネットワーク」の活動でも大きな役割を果たしてきた商店主が亡くなるなど、人的・物的に甚大な被害を受けた南三陸町に、まずはネットワークの商店街から出店をし、集客することで、徐々に地元商店の再興を促していこうという試みである。被災された住民のみなさんには地域通貨を無償配布し、被災地の外からの来場者は現金で購入する。大量の支援物資の存在が、長期的には商業活動の再開を阻害してしまう可能性を考慮し、あくまで「売り買い」をすることを通じて、スムーズな商店街復興をしようとする取り組みでもあった(福興市の様子は「福興市公式サイト」http://fukkouichi-minamisanriku.jp/を参照)。


 
写真5 南三陸町長と福興市実行委員長に千羽鶴を贈呈する大阪市職組合員   写真6 福興市で物産ブースを手伝う大阪市職組合員

 大阪市職としては、今度は購買者として被災地を支援することとなった。組合員を募って2011年6月から南三陸町への「福興市ボランティア&スタディツアー」を企画し、現地で販売・設営等のボランティアをするとともに、物産を購入していただいた。なにわ商人ばりの物産売り込み(?)で、出店者からも好評を博したところである。また行政職員として、あるいは自治労本部や連合の取り組みとして被災地で支援活動をした経験のある組合員もいたが、部署等によってはその機会がなく、また大阪と被災地とはかなりの距離があるということもあって、これを機会に被災地の実情を知ってもらおうという意図もあった(南三陸町では被災者による「語り部」の活動もはじまっていた)。地元商店の供給能力が回復してきた現在は、大阪市職の集会や組合員イベントで物産を販売したり、各支部での斡旋を行うなどしている。

おわりに

 東日本大震災では、「絆」という言葉に象徴されるように、さまざまなつながりの価値が改めて見直されることとなった。大阪市職では、市民交流スペースの運営や「ぼうさい市」における協働を通じて得られたつながりが、被災地支援活動に生かされることとなった。私たちを取り巻く環境は大変厳しいが、今後とも自治体職員からなる組織でありながら、行政組織とは異なるつながりを持ち、動きのできる自治体労働組合の社会的意義を果たしていきたい。