【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第10分科会 「地域力」「現場力」アップにむけた学び合い

 兵庫県教育委員会は、2008年10月に「2012年度に旧武庫荘高校跡地に新多部制単位制高校を設置し、併せて阪神地域の定時制高校を再編する」と発表しました。廃止が予想された3校(県立川西高校・同宝塚良元校・伊丹市立高校)のうち宝塚良元校の卒業生たちによって、いち早く「県立宝塚良元校・同川西高校の存続を求める会」が結成され、私が宝塚市議会への請願提出の紹介議員になり運動に関わることになりました。本レポートは、定時制高校を守る市民運動の経過を報告し、自治労と自治労組織内議員がどの様に関わるべきかについての問題提起とします。



住民運動とともに小さな学びの場を守る取り組み
定時制高校の存続を求めて

兵庫県本部/宝塚市職員労働組合 梶川美佐男

1. はじめに

 宝塚良元校は、1949年(昭和24年)に宝塚市で初めてできた高校で、地元の熱い要望で作られました。差別によって教育を受けられなかった人達の「識字の場」として、経済的に困難な青年たちの「働き学ぶ場」として、また障害者たちが世間につながっていく「生きる場」として存続し続けてきました。加えて近年では、義務教育を不登校で充分に受けられなかった子ども達の「学び直しの場」としても貴重な存在となっています。
 私は共働きの両親と兄妹5人で生活していました。そして、私が小学校3年生の時に父親が交通事故で亡くなり、生活を支えるために姉と兄は昼間働いて夜に良元校に通うことになりました。この地域の年配の人の多くが卒業生であり良元校は地域の人々の生活を支え、学びの場を保障する存在となっていました。
 そしてこの運動は学校教育の問題のみならず、社会的に立場の弱い人たちの学びの場と地域における文化活動の拠点を守る取り組みでもあります。
 財政効率の問題だけで廃止されれば多くの若者が進路を閉ざされ、高校教育の場を失い、就職もできない無業者となってしまいます。このことは、まさに行政の問題であり、自治体労働者の課題であり、家計を助けるために良元校に通った姉と兄の想いと人権問題を使命として議員になった私自身の課題でもありました。

2. 存続運動の広がり

(住民集会であいさつする私)

 2008年10月の県教委発表直後、宝塚良元校の卒業生たちが「声」をあげました。訴えを聞いた教組(市教組・兵高教)・市職労、市会議員なども加わり、市北部地域からは川西高校への通学者も多いことから「県立宝塚良元校・同川西高校の存続を求める会(宝塚)」を立ち上げ、運動が始まりました。私が紹介議員になり、すぐさま市議会に対し「県立宝塚良元校・同川西高校の存続を求める意見書の提出を求める」請願を提出し、全会一致で採択されました。その後「求める会(宝塚)」は、住民集会の開催や要請行動を広げ、宝塚市長・宝塚市教育長や宝塚良元校PTAなどからも「存続を求める」意見書や要望書が相次いで県教委に提出されました。また、存続運動を広く市民に広げていくために運動の目標を対県教委交渉・要請に絞り「両校の存続を求める」署名活動を展開しました。宝塚市の動きに続いて川西でも存続運動が始まりました。翌2009年1月の「地域説明会」で廃止計画案として川西高校と宝塚良元校の名があげられると同時に「求める会(川西)」がつくられ、独自に存続署名活動が開始されました。街頭署名活動に加え、連合PTA会長が先頭になって全小中学校の親に存続署名を依頼し、わずか3週間で4万筆を越える署名が寄せられました。川西市議会でも全会一致で「両校の存続を求める」意見書が採択されました。
 宝塚と川西の署名は、あわせて6万筆を越え、これらの署名提出による県教委への要請行動が次々に行われました。また「障害者問題を考える兵庫県連絡会議」(障問連)なども独自に交渉を繰り広げました。そして、これらの取り組みにより2月県議会でも大きな問題になり、民主党議員の質問等に追い詰められた県教委は「慎重に審議する」事を約束し「3月決定」の延期を余儀なくされました。
 宝塚良元校は阪急今津線小林駅から徒歩ですぐの便利な場所にあります。西宮市からも阪急電車を利用して宝塚良元校に通っている人もたくさんいます。「障問連」の活動拠点でもある西宮市でも2009年5月に「西宮市民の会」が立ちあげられ、西宮市議会でも全会一致で「両校の存続を求める」意見書が採択されました。


3. 存続運動広がりの背景
(ビラ配布する求める会のメンバー)

 わずか数人の卒業生の「声」から始まった定時制高校存続運動が大きく広がったのには次のような背景があったと考えられます。
① 旧武庫荘高校は特に夜間の交通は極端に不便です。その校舎を利用して周辺の定時制をつぶすという、財政論だけで決めた安直な計画が明白であり、地域説明会でも、PTA代表から「川西北部や猪名川などからは通学できない」という意見が出されました。定時制高校にとって交通の利便性は絶対条件であり、通学時間は生命線なのです。
② 2001年の西宮香風高校(兵庫県で最初の3部制高校)設置とともに阪神南部の夜間定時制4校が廃止された結果、残った定時制では定員オーバーで、不合格者が続出する事態となりました。まっ先にはじき出されたのが障害者でした。川西高校、同宝塚良元校がなくなることは、障害者にとって「高校への道」がいっそう固く閉ざされることを意味します。重度障害者たちが先頭に立って訴えました。動かない体を全身で揺すぶり、動かない口を震わせて全力で声を出し、集会や地域説明会で、交渉の場で「私たちの大切な定時制をなくさないで」と叫び続けたのです。彼らの訴えは多くの人に共感を与えました。
③ 多部制高校は「高校教育改革」の一環として登場しました。これは「高校教育の市場化」を目指した「小泉改革教育版」です。「派遣切り」に象徴される労働者への仕打ちが、若者たちを追い込み「高校に行きたい」というささやかだが切実な要求や希望さえも奪いました。2009年春、大阪をはじめとする全国大都市での定時制高校2次募集でも定員を大幅に越え、全国で1,174人が入学できない実態が報じられ社会問題にもなりました。     
④ 川西高校、同宝塚良元校は、それぞれ川西市と宝塚市で初めてできた高校であり、両市では全日制高校より歴史があります。両市唯一の定時制高校として今日なおそれぞれの地域に生き続けています。地域住民・市民にとって「格差社会の中でのセーフティネットとして貴重な夜間定時制高校の灯を消すな」「地域に根ざした学びの場をつぶすな」との共通した思いが強くありました。

4. 伊丹市立高校の存続に向けた取り組み

 募集停止が予想された3校のうち、伊丹市立高校の存続に向けた取り組みは、県立の2校とは状況が違いました。その1つが「全定分離」と言う問題です。
 定時制の伊丹市立高校は、全日制と校舎を共有しているため、「全定分離」は伊丹市の長年の課題でありました。これまで様々な試みに失敗してきた市教委は何がなんでも今回の計画に乗りたかったのです。
 この取り組みに育友会が動き出したのは、2009年8月の市教委説明会からでした。当初4月に予定されていた説明会は、市教委の一方的な不誠実な対応で8月まで待たされ、それも「最終答申について」と書かれたプリント1枚を生徒に渡し、「このことで聞きたい人は市教委に出席を連絡すること」と言う傲慢な態度でした。そこで生徒の生の声を市民に聞いてもらおうと、署名活動をすることになりました。
 署名活動は、JR・阪急伊丹駅などで行いました。阪急駅前での署名活動では女子生徒が1時間半もマイクを握り「自分の人生を一度終えようとした子が定時制で今生き直してがんばっている」と訴えていた姿に胸が熱くなりました。署名は約5,700筆集まり、9月27日に市教委に提出されました。
 また10月18日に尼崎で開催された「3定時制募集停止に抗議する緊急集会」にも育友会の役員と生徒代表7人が参加し、それぞれの思いを訴えました。そこで生徒会長が「せめて何も知らされていない1年生が母校で卒業できるように1年延ばして欲しい」と訴えました。また、育友会にさえ詳しい説明をしようとせず、学校教育審議会の議事録さえ都合の悪い部分は削除するという伊丹市教委の卑劣なやり方を生徒の親たちが明らかにしました。初めて知る伊丹市の実態に、集会参加者は大きな衝撃を受けました。

5. 運動の成果と課題

 存続運動の広がりにより、県教委は「川西と宝塚良元を3年間は新多部制の分教室として存置する」という一定の修正を示してきました。
 しかし、伊丹市立高校は、生徒の「せめて卒業までは」という願いも聞き入れられず、4月に新多部制校舎に強制移転させられ、その結果、例年に比べ74人もの生徒が学校を去ってしまいました。伊丹市立高校(定時制)を守る会は、統廃合・強制移転の裏には、伊丹市が統合負担金と称して「3億6千万円を兵庫県に支払う」とした「密約」があることを市民の前に明らかにしました。その結果、昨年の12月市議会においては負担金の支払いは否決されましたが、伊丹市は今年1月に臨時市議会を開き、負担理由と目的を変更して強引に可決させたのです。「守る会」は、この統合負担金を違法だとして、5月28日に住民監査請求を行いました。
 今後、私たちの運動の目標は「川西教室、宝塚教室を3年間で閉じさせない」ことと、伊丹の住民監査請求を支援することです。定時制高校の存続は、そこで学ぶ子どもだけの問題ではありません。仕事の場や教育の場からはじき出された若者、厳しい暮らしをしている地域の人たち、社会的な諸矛盾にあえぐ人たちに直結している問題です。それはまた自治労が共に取り組む課題でもあります。

6. まとめ  

 良元校の数人の卒業生の取り組みが、PTAを動かし、宝塚市行政を動かし、それが阪神間に広がるという大きな運動になったのはなぜなのか。多くの人たちが「地域の学びの場」を守るために全力で取り組んできました。一方、自治労の仲間は集会参加や署名活動で協力し、全県で約1万筆の署名を集めることができましたが、自分たちの課題としての認識はなかったのではないかと感じました。この定時制高校を守る市民運動は、公務員バッシングなどで、とりわけ現業労働者を集中的に標的とした分断攻撃を跳ね返すチャンスでもあります。自治体労働者が、住民・市民と日常的な仕事や運動でどのように繋がっていく必要があるのかを教えてくれています。
 そして、この取り組みは私にひとつの闘争を思い出させてくれました。宝塚市職労の「ごみ闘争」です。
 1986年宝塚市当局が新清掃工場建設に伴いその管理運営を民間に委託し、清掃業務に従事してきた作業員を解雇すると組合に提案してきました。併せて、これまで分別して埋め立て処理をしてきたプラスチックごみも焼却すると言うのです。古い焼却場は強烈な臭いとハエに悩まされるキツイ作業でした。劣悪な環境でごみ行政を支えてきた人たちに対する首切り攻撃に組合は毅然として反対しました。また、プラスチックの焼却時に発生する有毒の「ダイオキシン」の飛散も環境を守る立場で、市民運動団体と連携することになりました。順法闘争により発生したごみの野積み、工場入り口での座り込み、断続的な時間内ストライキやハンガーストライキなどの抗議行動は6ヶ月にも及び、警察まで出動する事態となり社会問題となりました。執行委員に成り立ての私もハンガーストライキに参加しました。最終的には、夜間運転のみ委託とし、作業員の解雇は撤回、プラスチックの焼却もしないことで決着しました。これまで劣悪な条件で頑張ってきた仲間を守ると共に、市民団体と連携して「ダイオキシン」の発生をストップさせた事は、市民の安全と環境を守ることをスローガンとする自治体労働運動の原点であり、私自身の出発点となりました。
 経済的、社会的な困難を抱えた親や子ども達を支えている地域の運動に連動していけるか、それは地域主権を主張する私たちの運動の質にかかっています。そのためにも私を含めて、今後、自治労が「住民運動とともに小さな学びの場を守るたたかい」に協働して取り組むことは「地方自治を住民の手に取り戻す」をスローガンとする自治研究活動の原点であると考えます。