【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第11分科会 地域から考える「人権」「平和」

 自分たちの住む地域の歴史・文化について興味を持っている市民は意外と多い。また、自治体においても市町村誌等で地域の歴史・文化や自然環境についてとりまとめている。しかし活字中心の難解な記述では、多くの市民の知的好奇心を育むには充分な役割を果たしていない。今回は、コンピューターのプレゼン機能で、郷土の歴史を市民に親しみやすく知って頂くツールづくりを企図した。



市民向け郷土史解説教材をつくろう


群馬県本部/藤岡市役所職員労働組合 櫻井  孝

1. はじめに
震災罹災者の就職斡旋に係る文書

 連合地協のイベントに参加した際、たまたま地元商工会議所の幹部の方と隣り合わせた。氏は地域の歴史・文化に強い関心を抱いており、また市内の文化財や地域の歴史について驚くほどの知識も有していた。そして氏が語る地域の歴史について、筆者がそのすべてに対し的確なコメントを発していることに彼は驚き、筆者の素性を尋ねてきた。そして、筆者が文化財保護行政を専門として採用された市職員であることを伝えると、氏は筆者に「こんなことはできないだろうか?」と言ってきた。
 そのひとつが、地域の歴史や文化財について、市史編さん事業で発刊された刊行物や過去に編纂された「多野郡誌・多野藤岡地方誌」など、一般市民が敬遠しがちな文字を主体とするものではなく、映像や音声により、だれもが容易に理解できるような解説・紹介のための資料を、市の教育委員会で作ってもらえないだろうかというものであった。
 これに対し筆者は、現在は教育委員会に在籍していないので、ご依頼の件について具現化できる立場にないので、職員の立場でなく個人として氏の要望に応えられるよう努力することを約束した。従って、今回の取り組みについてのメインは本レポートではなく、別途作成したプレゼンツールである。また、個人的な話になってしまうが、今回自治研に取り組むべきか否かを大いに悩んでいたが、共に単組活動を活性化させてきた現業労組の有志が、再び組合活動への本格的な復帰を決意し、その一環として今回の自治研に取り組むとの話を聞き、彼らに自治研への取り組みを紹介した立場からなにもしないわけにはいかないと思い、遅ればせながら5月中旬に取り組む決意をした。原稿提出の遅れやその他様々な点で、群馬県本部の役職員の皆様をはじめ多くの方にご迷惑とご心配をおかけしたことを冒頭お詫び申し上げたい。


2. 取り組みの目的と取り組みの方法

 今回の取り組みの目的は、前述のとおり地域に残された行政文書と言う一次史料を用いて、地域の歴史や当時の社会情勢などがどんなものであったかを、一般市民に興味をもって知ってもらうことである。そしてその方法として、文字での表記でなく、映像や音声によるものとすることである。
史跡七輿山古墳

 そのためには地域で発生した歴史事象や歴史上の人物・文化財・伝承等で、誰もが知っていて、中学の日本史教科書に記載されているような、あるいは様々なメディアを通して広く国民が知っているような歴史事象や人物、あるいは一部民俗学的資料になるが伝説や巷談などに係る物語などがよいと判断した。幸い当市には、この目的を達成するために必要な素材が豊富にある。具体的には、古墳時代前期の前方後円墳で、現在東京国立博物館に中学の教科書に記載されるような出土品が多く収蔵されている稲荷山古墳や、特別史跡「多胡碑」にその名が刻まれている「羊太夫」伝説と関連が深く、6世紀代の前方後円墳としては全国的にも最大規模の七輿山古墳、殉死の風習を改め埴輪を作り始めたと言う物語の主人公「野見宿禰」を祭神とする土師神社や、史跡の「埴輪窯跡」、「永享の乱」や戦国時代の関東における騒乱の舞台となった平井城・金山城、近世では、忠臣蔵の主人公(悪役)として有名な吉良上野介義央出生の物語等である。
 こうした中から今回対象としたのは、大正時代の大災害である関東大震災への地方自治体の取り組みの様子が生々しく記録されている行政文書「大正十二年 東京市附近大震火災」と題する藤岡町役場文書とした。これは、今まで筆者が自治研の場で報告してきた題材であるが、今回はこの史料を市民に分かりやすいよう、パワーポイントを用いて自動再生で解説するプレゼンを作成することとした。
 この史料は、群馬県・多野郡・藤岡町等の被災地支援や避難民の救済、震災後の地域社会の様子などが各行政レベルで発給される公文書に見ることができる。義捐金品の徴募の様子や、当地への避難者に対する献身的な生活支援の様子などのほか、被災地の惨状を生々しく伝えている救護団の活動報告、さらには震災後の流言蜚語が原因となった朝鮮人虐殺事件のひとつである「藤岡事件」関連の文書など、個々の文書内容も大変興味深いものがほとんどである。
 特にまた今日、これを語る人の立場によって、被害者の人数や、原因となった流言蜚語にかかる事実関係の有無、さらには政府・官憲の関与の有無など主張が全く異なっている、一連の朝鮮人虐殺事件の一つである「藤岡事件」についても、検死調書など生々しい関係史料を紹介することにより、言わば地域史の汚点ともいえるこの事件について冷静に見つめ直し、後世への貴重な教訓として伝えられるようなものとしたい。


3. 最後に
藤岡事件慰霊祭で挨拶する副市長

 我が国は、明治維新以降様々な紆余曲折を経て、一定の地方自治を確立させてきた。こうした中発生した関東大震災に関しては、政府や自治体の対応・被災者の動向、混乱する社会情勢などが、自治体に対し発給された文書に記録されており、特に県・郡などが末端自治体へ発給した文書などの中では、地域の様子が詳細に読み取ることができる。
 ところでよく、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言われるが、こうした観点からこの史料を観察すると、特に郡長から郡内の町村長に宛てた行政文書には、震災後の混乱の中、多野郡域や藤岡町の特有の諸事情、例えば養蚕農家が絹の価格の暴落を心配し、初秋蚕の飼育を放棄することを諌める文書や、水稲生産力の貧弱な多野郡内において、逼迫する米に代わり麦食を勧める通達等、地域事情を反映した的確な指導がなされていることがうかがえる。これらは、そのまま社会情勢が異なる現代に当てはめることはできないものの、緊急時に自治体が地域事情を冷静に判断し、住民に対し適切な指導を行った例として認識でき、末端行政組織が地域住民の生命・生活を守るための活動が記録されており興味深い史料と言える。また、一般の人々が被災地や被災者に対し行った献身的な支援の様子も具体的に記されており、今日の震災など災害ボランティアを考えるためも貴重な史料と言える。
 また、藤岡地域の歴史上の最大の汚点とも言える「藤岡事件」についても、前述の救護団の活動報告や、検死調書等の中に断片的ではあるが客観的な事実関係が記録されており、例えば被虐殺者の人数や、その後の事件の処理が的確になされていたことが見て取れる。勿論、このような非人道的な行為を認めることは、当時の人権意識からしても許されることではないが、その後の犯人の逮捕・告訴などの手続きなどが記録されており、当時のわが国が、諸外国に比較しても劣らない法治国家であったことが理解できる。「藤岡事件」同様に、激甚被災地の周辺で発生したこの一連の事件については、藤岡町役場文書同様の行政史料が残されている可能性が高いと思われる。
 当時進歩的日本人と呼ばれた左翼勢力の人たちは、虐殺被害者数を多く言い、事件の背景となった流言蜚語の流布に、政府の関与を主張し、殺害に軍隊や官憲の関与を声高に言ったりする。また逆の立場の人たちは、流言蜚語のもとになった朝鮮人による非行を事実のものとし、殺害された朝鮮人は、虐殺ではなく彼らが行った非行からの正当防衛により殺害されたなどと主張したりと、とかく政治的・イデオロギー的な思惑でもって語られる一連の事件の実態が、自治体に残された行政文書の客観的記述などから明らかにされることを望みたい。
 戦前の我が国の皇国史観や、今日の中国の共産党史観・韓国・北朝鮮の檀君史観?のように、現代科学では考えられないような歴史教育を、純真な若者を対象に行うことは、せいぜい100年程度の間は国威発揚や、特定勢力の政治支配の正当性を訴えるのには効果があるかもしれないが、これがもたらす結果は、70年前のわが国を見れば多くを語る必要はないと思う。