【論文】

第34回兵庫自治研集会
第11分科会 地域から考える「人権」「平和」

 近世の奄美諸島は薩摩藩の直轄支配下に置かれながらも、幕府や中国などに対しては「琉球国之内」であり、さらには中国の冊封体制下にも置かれていた。近代から現代にかけては日本、中国、米国という国家の思惑に翻弄されてきた。自治労大島地区本部の自治研活動をふり返りながら、奄美諸島の自己決定権について考察する。



奄美諸島の自己決定権を求めて


鹿児島県本部/大島地区本部・知名町職員労働組合 前利  潔

はじめに

 筆者は『自治研かごしま』100号記念論文として、「思考実験、道之島広域連合」(二席受賞、一席は該当なし)を発表した。同論文は、奄美諸島を「東アジアと太平洋」のなかに位置づけた構想(思考実験)である。「道之島」とは、近世期の薩摩藩支配下にあった奄美諸島の呼称である。近世期の奄美諸島については、筆者が編集・執筆した知名町教育委員会編『江戸期の奄美諸島』(2011)を参照してもらいたい。
 本稿では自治労大島(奄美諸島)地区本部の自治研活動をふりかえりながら、「道之島広域連合」という構想の背景を論じる。「道之島広域連合」もふくめて本稿で論じている考え方は、筆者の個人的な見解である。


1. 大島地区本部の自治研活動

(1) 「琉球諸島自治政府構想」シンポジウム
 1999年1月29日、自治労大島地区本部は奄美自治研として「琉球諸島自治政府構想」シンポジウムを開催した。講師に元沖縄県副知事であり、同構想を策定した中心人物の一人である沖縄県地方自治研究センター理事長(当時)の吉元政矩氏を招いた。
 前年、自治労中央本部と沖縄県本部から構成される自治労沖縄プロジェクトは、『21世紀にむけた沖縄政策提言(第一次案)パシフィック・クロスロード――沖縄』(1998年2月)を発表していた。同政策提言において「琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱」が示されており、その核心部分が「琉球諸島自治政府」構想である。「琉球諸島自治政府」は、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島の各諸島政府から構成される。
 吉元氏は「琉球諸島自治政府」は決して抽象的なものではなく、「沖縄はかつて、三権(立法・行政・司法)をそなえた琉球政府時代があった」と指摘した。琉球列島米国民政府という絶対的権力のもとではあったが、琉球政府時代の経験から学ぶことも多い、という意味である。
 名瀬市民の反応をみると、「琉球諸島自治政府」に奄美大島(奄美諸島ではない)が組みこまれることへの警戒心があった。名瀬側のパネリストは、「(奄美大島の)本籍は沖縄、現住所は鹿児島」と発言。この発言の力点は後者に置かれているが、そこには「奄美」という政治的主体は想定されていない。

(2) 市町村合併反対の取り組み
 「平成の大合併」によって鹿児島県下の96市町村は43市町村に再編された。奄美諸島(大島郡)に限ると、合併自治体は奄美市(名瀬市、笠利町、住用村が合併)の一つであり、14市町村は12市町村に再編されただけであった。大島地区本部は2002年から2004年までの定期大会で「市町村合併反対」を決議し(いずれも地元紙に大きく掲載される)、奄美諸島における市町村合併反対運動の先頭でたたかった。
 大島地区本部が「自主的合併」ではなく「合併反対」を運動方針にかかげたのは、「昭和の大合併」によって地域社会の疲弊をもたらしたという分析にもとづく。筆者はその弊害について、『自治研かごしま』第71号(2000年12月)に「瀬戸内町の合併事例から考える」と題して発表した。「平成の大合併」についても「町財政の合併シミュレーション~さらなる財政悪化を招く特例債」(共著『田舎の町村を消せ 市町村合併に抗うムラの論理』、2002)と題して、市町村合併の論理を批判した。さらに筆者は、大島地区本部執行委員長(当時)の立場で奄美諸島各地、そして鹿児島市や鹿児島大学などで学習会を開催した。
 2005年1月26日、奄美諸島の地域紙(南海日日新聞、大島新聞)に「市町村合併に関する誤解」と題する意見広告を掲載した。国や県、そして自治体当局が説明する普通交付税の合併算定替え、合併特例債、財政シミュレーションは住民に誤解を与えている、という内容であった。
 この意見広告に対して自治体当局からの反論は皆無であったが、名瀬市民(女性)から南海日日新聞「ひろば」欄(2月7日)に、感想が寄せられた。その女性は「今回、1月26日付6面全体に自治労が出した『合併についての誤解』の説明は、的確な統計と図で示され、とても分かりやすいものでした」「大きな自治体に一つにまとめられるほど一人当たりの保障は半減していくほどになる。これは驚きでした」「合併特例債がもらえると良いことのように思われていたのが、結局のところ借金をもっと増やすだけの結果をもたらすことも分かり、未来への展望をますます厳しくするだけとも知りました」と述べている。
 筆者は合併後の対馬も調査し、南海日日新聞に自治研担当の肩書きで「合併後の対馬を訪ねて」(同年10月10日)と題して発表。旧北対馬町で主婦らしき女性に「合併してよかったことはありますか」と聞いたところ、「ひとつもない。悪いことばかり」とはき捨てるような返事が返ってきたのが、強く印象に残っている。
 市町村合併後の現実をみると、大島地区本部が取り組んだ市町村合併に関する分析と反対運動は正しかったことを証明した。それは自己決定をめぐるたたかいでもあった。


2. 歴史にみる奄美諸島の“自治”のかたち

 「本籍は沖縄、現住所は鹿児島」(琉球諸島自治政府構想シンポジウム)という発言の背景には、奄美諸島が政治的主体となったことがないという歴史がある。沖縄は琉球国、鹿児島は薩摩藩として政治的主体となった歴史がある。また奄美群島は日本、中国、米国という大国の思惑に翻弄され、他律的に帰属(国籍)を決定されてきた。

(1) 近代の奄美諸島
 明治初期、奄美諸島の帰属をめぐって琉球藩(王府)、鹿児島県、大蔵省のあいだでせめぎ合いがあった。琉球王府は琉球藩の設置(1872年9月)の際、外務省に奄美諸島の返還を要求した。大蔵省は奄美諸島の黒糖を確保するために「大島県」を設置し、大蔵省の直轄下に置こうとした(1874年9月)。いずれも実現せず、鹿児島県の主張が認められるかたちで大島に大支庁、他四島に支庁が設置されることで決着が着いた(1875年6月)。奄美諸島に自己決定権はなかった。
 明治政府は近代的な地方制度として郡区町村編成法(1878年)、町村制公布(1888年)という画一的な地方制度を整備していくが、北海道と沖縄県、そして勅令で指定された島嶼地域(奄美諸島、小笠原諸島、伊豆諸島、隠岐諸島、対馬)は、これらの地方制度の枠外に置かれた。
 当初、奄美諸島にも郡区町村編成法にもとづき郡役所(大島郡)が設置されたものの、同法の改正(1880年)によって島嶼への施行除外の条文が追加されたことから、同法の対象外(1885年)となる。1888(明治21)年に制定された町村法(制)は、当初から「島嶼」を施行外地域として設定していた。施行外の対象とする「島嶼」の基準があいまいであったために、1889年の勅令第一号で施行外地域となる島嶼の指定が行われ、前記の島嶼地域が指定された。奄美諸島に普通町村制が施行されるのは、1920(大正9)年のことであった。
 【参考文献】高江洲昌哉著『近代日本の地方統治と「島嶼」』(2009)

(2) 占領時代の奄美諸島
 戦後、「GHQ覚書」(1946年1月29日)によって北緯30度以南の島々が日本から行政分離され、奄美諸島は米国の占領下に置かれることになった。奄美諸島における米国軍政府と行政(自治)組織図は下図のとおりである。上部組織として沖縄海軍(陸軍)軍政府や琉球政府などがあるが、省略した。
 「軍政府」は、占領の統治主体としての米国軍政府である。1950年12月に「米国民政府」と改称されるが、実質的には軍政府である。奄美大島名瀬に海軍軍政府が開設されたのは、1946年3月14日(①)。その後、②陸軍軍政府(1946年7月~1950年6月)、③軍政府(1950年7月~11月)、④民政府(1950年12月~1953年12月)と変遷していく。
 占領下の奄美諸島の行政組織の変遷をみてみよう。敗戦後も戦前からの旧鹿児島県大島支庁が機能(①)していた。行政分離によって大島支庁の機能が停止したにもかかわらず、軍政府はすぐには設置されなかったことから、「自称“無政府主義者”が横行する状態」(村山家國著『奄美復帰史』)が一ヶ月半(②)続いた。③海軍軍政府によって本土籍官吏の送還命令が出され、奄美人の支庁長が任命された新大島支庁(1946年3月~9月)、④臨時北部南西諸島政庁(1946年10月~1950年6月)、⑤北部南西諸島政庁(1950年7月~10月)、⑥奄美群島政府(1950年11月~1952年3月)、⑧琉球政府奄美地方庁(1952年9月22日~1953年12月)と変遷していく。琉球政府の設立(1952年4月)と同時に、宮古諸島や八重山諸島では群島政府に代わる行政組織として各地方庁が設立されたが、奄美地方庁が設置されるまで、半年間の空白期間(⑦)があった。
 群島政府は奄美、沖縄、宮古、八重山の四諸島に設立された。これらの群島政府は、琉球政府の設立にともなって解庁となる。先に述べた自治労沖縄プロジェクトは、琉球政府と各群島政府をモデルとしている。琉球政府と同じく各群島政府も、米国軍政府という絶対的権力者を背後に控えながらも、行政・立法・司法の三権を備えた自治政府的機能を持っていた。群島政府知事は住民による公選であった。しかし、琉球政府行政主席(知事)は米国民政府による任命制であった。公選で選ばれる知事を持つ各群島政府は、日本への復帰運動を活発化させた。米国は琉球列島住民の自己決定権を奪うために、琉球政府行政主席は米国民政府の任命制としたのである。長らく任命制が続いた行政主席であるが、沖縄住民のたたかいによって公選行政主席(1968年)が誕生した。
 1953年12月25日、奄美諸島に対する施政権が日本に返還された。それから二ヶ月後、奄美諸島の住民たちは鹿児島県に市町村合併勧告を突きつけられる。「昭和の大合併」の始まりである。


占領時代の奄美諸島(軍政府と自治組織)
【参考文献】村山家國著『奄美復帰史』(1983)、間弘志著『全記録/分離期・軍政下時代の
奄美復帰運動、文化運動』(2003)、大城将保著『琉球政府』(1992)

3. 徳之島への米軍基地移設問題の本質(現代)

 2010年初頭、米軍普天間飛行場の徳之島移設案が浮上した。自治労大島地区本部は移設反対闘争の最前線でたたかい、3月7日(600人)、3月28日(4,200人)、そして4月18日の「米軍基地徳之島移設断固反対」集会(1万5,000人、写真)へと結実させていった。
 同年7月4日、筆者(大島地区本部副執行委員長)と中原智浩(徳之島・天城町職員労働組合青年部長、現大島地区本部書記長)は、駒澤大学で徳之島における米軍基地移設反対運動について報告した。その内容は、共著『「沖縄問題」とは何か』(藤原書店、2011)に収録されている。筆者は他にも「自治労大島地区本部副執行委員長」の肩書きで「徳之島移設を考える」(琉球新報、同年5月7日)、「鳩山首相の目線」(月刊『部落解放』同年6月号)と題して、沖縄及び全国に発信した。
 月刊『部落解放』への執筆後にわかったことだが、鳩山首相は徳之島移設案について、奄美諸島に対する施政権が日本へ返還(1953年12月25日)される際に、日米両政府間で取り交わされた交換公文と秘密議事録を根拠にしていた。交換公文において「日本国政府は、……南西諸島のその他の島の防衛を保全し、強化し、及び容易にするためアメリカ合衆国が必要と認める要求を考慮に入れるものと了解される」(同年12月24日)と確認したうえで、秘密議事録を取り交わしている。秘密議事録は英文しか公開されていない。
 秘密議事録全文を紹介できないのが残念だが、要約すると次のとおりである。①米国代表が「奄美諸島において更なる施設と用地を米国に供与することを緊急の課題として求める可能性がある」と発言、日本国代表は「日本政府は可能な限り迅速かつ前向きに検討したい」と回答。②米国代表が「米軍は奄美諸島全域へ、領空および領海での航行および奄美諸島領海の利用と自由を拡張されるべきと了解されている」と発言、日本国代表は「日本政府は了解事項を承認しており、……自由が拡張されることを許可できる」と回答。③米国代表が「予備調査を奄美諸島で実施し、将来要求される可能性のある追加設備用地の選定に備えることが求められる」と発言、日本国代表は「米国の要求に見合うであろう機器設備に備えたい」と回答。この3点の確認事項をふまえて、日米代表は「奄美諸島内で敵対的あるいは妨害となる装置を発見したり、米軍が要求する場合、即時に適切な処置を取って撤去または破壊する。米国は、相応する日本国政府責任者の要求があれば、上記遂行にあたって必要となる支援を供給する」ことを合意した。(翻訳:安西佐有理、神戸市)
 米国の国防省と軍部は奄美諸島の返還に際して、軍事的権利の保持を強くもとめた。日本政府は交換公文と秘密議事録というかたちで、それを受け入れたのである。徳之島への米軍基地移設問題の背後には、安保条約の本質が隠されていた。合意事項は沖永良部島の米軍通信基地(1950年11月~1972年12月、1973年から自衛隊に移管)で具体化しようとした。1955年末に米軍基地拡張(空港建設)計画が発表された。福岡調達局(のちの防衛施設局)による予備調査に対して、島民は沖縄の土地闘争を彷彿とさせる反対運動を展開し、計画を撤回させた。この米軍基地拡張反対運動については、現代史(『知名町誌』等)や島民の記憶からも消え去りつつあったので、筆者は「沖永良部の米軍基地反対運動」(南海日日新聞、2010年4月5日、肩書きは自治労大島地区本部副執行委員長)と題して発表した。それは徳之島における「米軍基地徳之島移設断固反対」集会(同年4月18日)に向けた大島地区本部としてのメッセージでもあった。
 【参考文献】森宣雄著『地のなかの革命~沖縄戦後史における存在の解放』(2010)、ロバート・D・エル
ドリッヂ著『奄美返還と日米関係』(2003)


おわりに

 今年6月18日、大島地区本部は徳之島自治研を開催した。①徳之島とTPP、②米軍基地移設反対運動、③疎開船の悲劇、④核燃料再処理工場徳之島立地案をテーマにした。核燃料再処理工場徳之島立地案は、1970年代に浮上した。報告者の樫本喜一氏(大阪府立大学客員研究員)は「(当時の)政府の政策立案者は離島を「万一の場合、放棄可能な土地」としかみていない。この先も高レベル放射性廃棄物の最終処分場候補地として徳之島など離島が狙われる可能性は排除できない。こうした視点は米軍基地ともつながっている」(2012年6月3日、南海日日新聞)と問題提起した。徳之島自治研の内容は、『自治労かごしま』(2012年6月5日号)に詳しく紹介されている。
 自民党政権から民主党政権に代わっても、日本という国家の体質は変っていない。奄美諸島は国家の思惑に翻弄されてきた。昨年9月、徳之島伊仙町で開催された「うちなるくにざかいセミナー」(日本島嶼学会徳之島大会三日目)の場で、東シナ海を舞台にした中国との国境紛争をめぐる会場からの発言を受けて、屋良朝博氏(当時、沖縄タイムス論説委員)は「軍事で解決しようとしても無理だ。莫大なコストもかかる。むしろ、福建省(中国)の知事に沖縄に来てもらって、沖縄県知事、そして徳之島の町長さんたちと一緒に平和宣言をしたほうが、はるかに平和的で、しかも安上がりで平和が保てるのではないか」と提案した。
 日本という国家の枠内で政治的主体性(自己決定権)を求めることには限界がある。東アジアと太平洋のなかに奄美諸島を位置づけ、“国民国家”をこえるかたちで奄美諸島としての政治的主体性を発揮できるような思考実験を続けていきたい。