【自主レポート】 |
第34回兵庫自治研集会 第13分科会 地域で再生可能な自然エネルギーを考える |
宝塚市で31年前より活動をしている「原発の危険性を考える宝塚の会」です。昨年の原発事故後、さまざまな勉強会から講師として呼ばれる機会が増えました。また行政に対してアクションを起こす必要があり、この1年間で私たちの動き方も変わりました。今後は行政と市民という枠を飛び越えた活動につなげて、未来を見据えた活動をしていきたいと考えています。 |
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「原発の危険性を考える宝塚の会」が発足して今年で31年目を迎える。原子力発電の危険性とそれにまつわる様々な闇の部分に対して、このままでよいのかと広く世間に問いかけをするためにこの会は生まれた。創始者である中川保雄氏は21年前に惜しまれつつこの世を去ったが、その遺志を継ぐべく妻である慶子さんを中心として私たちは会の存続に努めてきた。原発に反対するとひと口に言っても、環境問題全般に関わることが多すぎる。阪神淡路大震災の後には耐震という面からも原発に対する見方は厳しくなり、折に触れ自然災害が原発に与える影響の大きさを問題にして勉強会を開いた。また自然エネルギーについては10年以上前から、原発から撤退し早くエネルギーの転換を実現しようと言い続けている。原発というものを考える場合、その原料の発掘のところから運転、環境汚染、燃料輸送の問題、廃炉に至るまで、またそののちの処分法にいたってはいまだ解決法も見いだせていない。深く知れば知るほど底なし沼のようで、簡単に解決できるものなど一つもなく、私たちの活動は終わりを知らない。今は亡き中川保雄氏が病の床にありながらも書き続けた「放射線被曝の歴史」は、私たちの礎となり支えてくれている。
かねてより原発事故の危険度を熟知していた人たちは、関東方面に住む近親者を関西に呼び戻すという動きを取った。放射能の飛散が始まることを知っていたからだ。もしかしたら関西までも放射能はやってくるかもしれない、そう思って爆発直後は窓も開けず洗濯物も外には干さず、外出時はマスク着用の上という厳戒態勢で私たちは国の発表を見守った。しかしながら政府も東電も右往左往するばかりで肝心な情報は入ってこない。 原発立地県の自治体は原発事故が起こった時を想定して避難訓練をしてきたのではなかったのか。私たちが目にしたものは、明確な指示も出せずに避難を促し着の身着のままで逃げ惑う人たちの姿だった。そしてもっとも早くしなければいけない措置の一つとして、安定ヨウ素剤の配布がある。放出された放射能核種の中のヨウ素131に対して、これを飲んでいればとりあえず甲状腺への被曝は最小限に抑えられるというものだが、これも配ったり配られなかったり、中には配ったものの回収してしまった自治体まで出てくるという始末。自治体が住民を守るという機能は全停止したかのようなありさまだった。 チェルノブイリ原発事故後、早い段階から食べものの汚染が始まったことはよく覚えている。食べものの共同購入会の運営に携わってきた人たちは少なからず知識として蓄えてきた。そしてどんな食べものが放射能によって汚染されやすいかも知っている。8,100キロメートル離れた日本へもチェルノブイリの放射能は降った。日本国内で起こった事故で放射能が降らないなどと言い切れない。だから、私は共同購入の提携先の酪農協同組合に対して牛乳の放射能検査を行うようにと要請した。大事な食べものと生産者を守りたかったからである。以降ずっと検査を続けているが、幸いにも放射能は検出されていない。 そのうち案の定食べものの汚染が取りざたされるようになった。飲み水の規制が行われ、出荷停止の農産物、牛乳、牛肉などが出てきて世間の人々がパニックを起こし始めた。 この機械を宝塚市が持つことの意味はもう一つある。買った以上はずっと使い続けることになり、それは「フクシマ」を忘れないということにつながる。放射能測定をなぜしなければいけないのかを一人一人が考えて、自分たちの選んだ原発というものの負の部分を見続けていく、後世に伝えていくことができる。放射能測定は、何がどれだけ出たという数値だけの問題ではない。自分たちが生きていくうえで避けられるところは避けるという、自己責任のレベルになっていく。自治体が放射能測定をし続けることが市民にとっては「食の安全、安心」につながっていく。だから数値をしっかりと表示して、生産者と消費者が認識を共有する必要があるのだ。放射能の我慢値などありはしないのだから。 では、私たちは自分さえ守られたらそれでよいのか? 福島には依然として多くの人たちが住まわされ、子どもたちはレントゲン室のような環境で無用な被曝をさせられている。移り住めば良いと言っても、そうは簡単に進まない。国が集団避難でもさせないことには動けない人も多い。そんな中で子どもを抱えた保護者達が悩んでいる。被曝させてしまったことに自責の念を抱き、これ以上の被曝を避けようと涙ぐましい努力を続けている。 被災地の子どもの転地保養というものはベラルーシでも行われているプログラムである。私たちの会は「チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西」の活動にも加わっており、長年ベラルーシの方々との交流を続けてきた。その中で現地の医師や教師たちが特に進めているのが保養である。今年4月26日には宝塚で講演していただいたのだが、その中でも保養の勧めをかなり強く語っておられた。実際に子どもたちを診察されているお医者さんと、保養に引率としてついて行かれた先生のお話はとても具体的で、福島の現状にはとても胸を痛めておられた。 さて、宝塚でもこの春に「宝塚保養キャンプ」と称して3月24日~30日まで7人の子どもを迎え入れた。福島の子どもたちを何とかしてあげたい、その気持ちだけで始めてしまった保養キャンプは問題もあったけれど、事故もなく無事に終わった。最初にマスク姿で全員が到着した折には、どうしたものかと若干気持ちが引いたものの、慣れてくれば騒ぐ本来の子どもらしさが目立ってきた。ただし、相当保護者の方が気を付けておられるのか、牛乳をすすめたところ「その牛乳には放射能は入っていないか?」と聞かれて絶句した。内部被曝に関して無知無関心ではない彼らにはごまかしは利かない。どれほど緊張した毎日を送ってきたのだろうと思いやった。 原発の危険性を考える会(近頃はGENKI宝塚の会と言っている)は、昨年の6月議会にも請願を提出している。それは「自然エネルギーによるまちづくりを進めてほしい」というものであった。具体的な案はともかく、原発から少しでも早く撤退するために自分たちにできることを探っていきたいと願っての請願であった。それが採択されて宝塚市もエネルギー問題に取り組むがごとく、環境課の動きが出てきた。幾度か話し合いを重ねてまずは歩み寄ることに努めた。そして、私たちが講師となって市職員の研修も兼ねた講演会が開かれ、そのあと田中優氏、飯田哲也氏を招いた講演会が行われた。エネルギー転換を行っていくうえで何が必要なのかを、最初は環境政策課と話し合ってきたが2012年4月には新エネルギー推進課が新しくできたのを機に、私たちも一歩踏み出すことにした。 市民団体として市と協働で事業を起こすには限りがある。環境先進都市にあるように私たちもNPO団体として登録し、事業を打ち立てていくことが必要なのではないか? そう考えた 私たちは「新エネルギーをすすめる宝塚の会」を立ち上げ、5月20日に設立総会を行った。NPO団体への申請はすでに提出しており、この秋には申請が下りることになっている。 多くの方が私たちの活動に関心を持ってくださり、会員は7月現在で100人を超えている。新エネルギー推進課は講演会などを行って動き始めた。私たちも未来を見据えてさまざまなやり方で進んでいく。地元にあふれる多くの才能を持った人たちと手をつなぎ、子孫に胸を張って渡せるような世の中を作っていきたいと思う。それが昨年の事故を反省し、二度と同じ失敗を繰り返さないという我々の強い気持ちである。 |