【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第1分科会 ~生きる~「いのち」を育む・いかす、支えあう

 市民主催の講演会に参加し「樺太アイヌ」の歴史に触れたことをきっかけに、人権・平和学習の幅を広げ、学習会、ビデオ鑑賞会、現地訪問や交流等に取り組みました。日露戦争や太平洋戦争を通じ、ロシアと日本の領土紛争の狭間でくりかえされた樺太アイヌの強制移住や、その後の歩みを学び、平和・人権について考えてみました。



「樺太アイヌ」の歴史に学ぶ
―― 平和と人権学習の取り組みとして ――

福岡県本部/北九州市職員労働組合連合会・病院協議会・八幡病院分会 松本 誠也・久野 淳二
福岡市職員労働組合・港湾支部 坂井 智明      

はじめに

 今年の1月に福岡市で開かれた講演会で樺太アイヌ協会の田澤守会長の話を聞く機会がありました。そこに数人の自治労の仲間も参加したことから、この取り組みは始まりました。田澤会長は、ロシア帝国と明治政府の「樺太・千島交換条約」に伴い、樺太アイヌが労働力として北海道の対雁(ツイシカリ)に強制移住させられた歴史、その地で過酷な生活条件や伝染病の被害により多くの樺太アイヌが亡くなった事、太平洋戦争終結後、再び北海道への移住を強いられ、稚咲内(ワカサカナイ)という荒れた原野で村づくりをしなければならなかった歴史を中心に語ってくれました。
 九州に住む私達にとって、それまで「人権」といえば部落解放運動との関わりや、職場でのパワハラ、セクハラ問題等が中心であり、また「平和」といえば沖縄の米軍基地問題や尖閣諸島の問題等が身近でした。アイヌと言うと北海道だけのことのように思われがちですが、考えてみれば今日ではアイヌも進学・就職・結婚などで、本州や九州に住む人も少なくないわけですし、人権運動での交流の歴史もあります。そこで、私達は今回の出会いをきっかけに、これまでの人権・平和学習の枠を広げ、樺太アイヌに関係する読書会やビデオ鑑賞会、対雁での慰霊祭や稚咲内を訪問する現地視察などに取り組みました。以下、その取り組みをご報告します。


1. 講演会への参加とその後の学習の取り組み

 1月24日(日)福岡市内で「北方史の時代区分について」という講演会(共催「北方史を学ぶ市民の会」「古代史研究会」)があり、北海道教育大学札幌校文化人類学の百瀬響教授のアイヌの歴史についての講演、樺太アイヌ協会の田澤守会長の講演、それを受けて参加者を交えたディスカッションが行われ、私達もそれに参加しました。
 その後、百瀬教授や田澤会長のお話をまとめると共に、関係する書物(樺太アイヌのことを記した『対雁の碑』その他の文献)の勉強会などの取り組みを重ねました。アイヌ史とりわけ樺太アイヌ史の基本について大まかにまとめてみました。

(1) アイヌ文化の形成とその後
 アイヌ文化が形成されたのは、13世紀頃(本州では鎌倉時代頃に相当)と言われています。縄文文化以降、九州から四国・本州にかけて水稲耕作と青銅器・鉄器を中心にした弥生文化が広がったのに対して、北海道では漁狩猟と交易を主体とし鉄器を伴う続縄文文化が展開し、後に北海道東部や樺太・千島のオホーツク文化と北海道の擦文文化が融合し、アイヌ文化形成につながったのではないかと言われています。
 アイヌ文化の社会は、本州や大陸(シベリア・沿海州)との活発な交易によって、鉄器を導入し、生産性の高い漁狩猟と定住生活を営み、また交易によって漆器・米・酒などを得て、威信財の蓄積により、ある程度の貧富の差や身分の固定化も生じていたと言われます。このように北海道、樺太、千島、本州奥羽地方を舞台に幅広く交易が営まれ、それぞれの地域で独自の文化を育んできました。
 しかしながら15世紀中頃、津軽・下北地方の豪族・安東氏などが、渡島半島南部に渡って十二の館が築造された頃から、アイヌ諸集団との交易上の利害が衝突するようになります。さらに16世紀末から17世紀(本州では江戸時代頃に相当)にかけて松前藩が成立されると、商場知行制を通じて交易関係はアイヌにとって従属的なものになりました。やがて18世紀に場所請負制がしかれると、商人層がアイヌを労働力として雇用するようになりました。その後、明治維新以降は屯田兵制度をはじめとした北海道の開拓政策が進められ、アイヌに対しても給与地をあてがって農民化しようとしますが、もともと魚狩猟・交易民であったアイヌの人びとの生活習慣になじみにくかった事や、農耕不適地が多い等の悪条件もあり、アイヌの多くは社会的にも経済的にも不利な立場に置かれていきました。

(2) 樺太をめぐる日露交渉と樺太アイヌの強制移住
 さて、樺太(サハリン)は、南部には樺太アイヌ(樺太アイヌ語でエンチウ)が住み、中・北部にはウィルタ、ニヴフ(ギリヤーク)が住み、それぞれ漁狩猟や交易を営んでいましたが、18世紀半ば頃から樺太や千島にも、松前藩や和人の商人層(伊達家、栖原家等)が、シベリアからもロシアの業者(セメノフ・デンビー商会等)が進出してきて、アイヌと交易し、また労働力として雇用・使役するようになりました。
 幕末期に、江戸幕府と帝政ロシアとの間で交渉が行われ、1854年下田の「日露和親条約」及び、1867年の「樺太島仮規則五箇条」で、樺太は「日本人とロシア人の雑居地」とされました(北千島はロシア領、南千島は日本領)。この段階では樺太は「雑居地」であり、日本の領土でもロシアの領土でもありませんでした。
 明治維新後の1875年、日本政府とロシア政府との間に「樺太・千島交換条約」が結ばれました。その内容は、北千島を含む千島列島をすべて「日本領」とする代わりに、それまで日本人とロシア人の「雑居地」だった樺太をロシア領とするものでした。それを機に、樺太アイヌのうち841人が明治政府によって、北海道の宗谷を経て、石狩平野の海岸から遠く離れた現・江別市の対雁に強制移住させられました。そして漁業に慣れ親しんでいた樺太アイヌを一方的に「農民化」しようとしましたが、様々な悪条件の中で、栄養状態も悪化し多くの人が健康を害しました。そうした中、1886年から1887年にかけて全国的に流行したコレラと天然痘により、多くの北海道居住者が死亡しましたが、特に樺太アイヌのうち358人が亡くなる悲劇が起きました。現在、毎年6月に対雁の墓地(江別市)で樺太アイヌの慰霊祭が行われています。
 1905年、日露戦争後の「日露講和条約」により南樺太が日本領となると、樺太アイヌの多くは、かつての故郷である樺太に帰っていきました。また、アイヌ以外の日本人の多くも南樺太に移住しました。
 1945年、アジア太平洋戦争の敗戦で、樺太、千島はソ連に占領され、樺太はソビエト連邦(現ロシア)の領土となりました。樺太アイヌの人々は、またもや北海道に移住を強いられました。彼らの多くは「稚咲内」(ワカサカナイ=アイヌ語で「水の飲めない川」の意)という原野に村を作って、苦労しながら助け合って住むようになりました。樺太アイヌの多くの人々は、様々な苦労を経て今日に至っています。


2. ビデオ鑑賞の取り組み

 樺太アイヌについてはNHKの番組でも取り上げられています。そこで、これらを収録したビデオを鑑賞する取り組みを進めました。

(1) ワカサカナイ・約束の村:樺太アイヌはいま(1992年10月29日放映)
 終戦で樺太からこの地に移住し村を作った樺太アイヌの人々を取材し、田澤守会長とその家族も登場します。アイヌの人々に対する様々な差別や偏見に対しどう向き合うか、田澤会長がお父様やお姉様と話し合う場面もあり、学ぶことの多い番組です。アイヌと和人の歴史を正しく認識し、差別や偏見をなくしていくことの大切さを、改めて痛感します。

(2) ユーカラ沈黙の80年・樺太アイヌ蝋管秘話(1984年6月25日放映)
 リトアニア生まれのブロニスワフ・ピウスツキが、1887年ロシア皇帝暗殺未遂事件に連座して刑を受け、「牢獄の島」サハリンに来ました。刑期を勤めた後、樺太アイヌ、ウィルタ、ニヴフ等の調査に従事し、樺太アイヌのフォークロアをエディソン式蝋管(ろうかん)蓄音機で収録しました。最近この蝋管がポーランドで発見され、北海道大学で最先端技術を駆使し、約80年ぶりに音声を復元し、樺太アイヌの人たちに聞いてもらったところ、ある人が「ばば(祖母)の声だ」と涙を流す感動的な番組です。


3. 現地訪問の取り組み

・6月17日(金):①札幌市内の「北海道立文書館」で北海道教育大学札幌校の百瀬響教授のご尽力により、同館職員の山田正氏の案内で「アイヌ関連文書」を見学しました。
 ②夜、「樺太アイヌ協会」の田澤守会長を囲んで学習会を開き体験談を聞きました。学習には様々な関係者も同席していただき、ディスカッションしました。
・6月18日(土):①北海道博物館を学芸主幹である右代啓視氏の案内で見学しました。
 ②その後、江別市・「対雁」(ツイシカリ)で樺太アイヌ慰霊祭に参列しました。
・6月19日(日):①樺太アイヌが移住した村「稚咲内」(ワカサカナイ)を訪問。田澤会長さんのお姉様のお宅を訪ね懇談しました。
・6月20日(月)①音威子府(オトイネップ)でアイヌの美術家砂澤ビッキ記念館を見学しました。②その後、旭川市博物館を見学しました。


4. 平和・人権について考えること

 以上の平和・人権学習を通じて、参加者から出た論点を列挙してみたいと考えます。
 Aさん:そもそも「固有の領土」とは何か? 「北方四島は固有の領土」と言われるけど、樺太アイヌのように、ロシア帝国と大日本帝国の都合で、強制移住させられた人々のことが顧みられているだろうか? 「日本の領土」とか「ロシアの領土」という概念は、アイヌにとってどんな意味をもっているのだろうか? 考えさせられる。
 Bさん:樺太アイヌの強制移住については、日本政府もロシア政府も歴史的責任があるのではないか? 戦後の一連の経過も実質的には強制移住ではないか? さらに歴史を検証することが課題と思う。樺太アイヌの人々が故郷であるサハリンに自由に移り住めるよう、北海道やサハリン州など自治体の役割もあるのでは?
 Cさん:未だにアイヌに対する偏見や差別は無くなっていないと言われるのは何故か? 自分自身も観光地で見たアイヌの伝統芸能を見て、それだけがアイヌのすべてだと思い込んでいたことを反省する。より正しいアイヌ史が広く認識されるよう、教育研究者、社会運動者、自治体関係者それぞれが努力することが課題ではないか?
 他にも、いろいろな論点が考えられますが、平和・人権の学習を深める取り組みを、今後も継続していきたいと思います。

〈謝辞〉今回のレポート作成と現地訪問にあたっては、樺太アイヌ協会をはじめ、大学関係機関の研究者、学習会の場を提供してくださったお店、文書館や博物館で解説してくださった関係者、慰霊祭で私達を暖かく迎えてくださった関係者、稚咲内の現地を案内してくださった関係者、文献を紹介してくださった出版関係者、その他多くの方々のお世話になりました。改めて御礼いたします。




【参考文献】
 樺太アイヌ史研究会[編]『対雁の碑・樺太アイヌ強制移住の歴史』(1992年・北海道出版企画センター)、百瀬響著『意外と知らないアイヌ文化~文化形成に至るまでの理論~』(2013年・道民カレッジほっかいどう学・大学放送講座)、河野本道著『アイヌ史/概説』(2002年3刷・北海道出版企画センター)、宇田川洋著『増補アイヌ考古学』(2006年第2冊・北海道出版企画センター)、井上紘一V.Mラティシュ共編『樺太アイヌの民具』(2002年・北海道出版企画センター)