3. 地域での当たり前の暮らしをつくる
―― 住む・働く・生きる ――
私は、措置制度から支援費制度(2003~2005)に変わっていた2004年に障がい福祉の担当となり、障害者自立支援法(2006年)に関わり、2009年までの6年間担当しました。
支援費制度では、自己決定・自己選択によるサービス決定が出来る様になったこと、自立支援法では障がいがあっても、「働く」ということが重要視されたこと、実施主体が県から市町村へ移ったこともあり、自分の所で決めていくことが出来る様になったことは大きな変化でした。
自分の所で決めていくといっても、障がいのある人や家族の実態や思いなども知らないし、どんな支援がされているのかも知らなかったのです。それに、皆の思いを込めたものを、つくり続けていく仕組みがないと、市担当者は人事異動でいなくなる等々を考えたわけです。
障がいのある人・家族を中心に置き、事業所、行政機関が集う組織をつくりました。
宇佐市における「ともに生きる」ネットワーク図(2007年当時) |
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何を大切にしてきたのかというと、障がいのある方々、家族がどんな苦しい思いを持ち、どんな困難な暮らしを強いられているのかを知り合うこと、そして当事者・家族がその苦労や困難を主体的に担いながら「生きること」を支援していくこと、「あなたはどう考えていますか、どうしたいですか」、自らの「気づき」を大切にし、「変わりにしない、いらぬ世話をやかぬ」支援を心がけてきました。
困った事、不安、悩み、夢、したいこと等話があったことをそのままにしない。それが、なかなか解決できない事であっても、実現できないことであっても、又一人の困り事であってもです。
子どもが高校進学なのだが、私の地域に来る支援学校(当時、養護学校)のスクールバスがなくて、支援学校に行くか地元の学校に行くかの選択しかないので困っているという発言が療育・教育ネットで、あるお母さんからありました。聞いてみると今まで何人も個人的に学校へ頼んだが、出来ないといわれたとのことでした。
「おひさまの会」へこの問題が引き継がれ、その地域でのアンケートの実施、行政・療育機関、おひさまと、発言したお母さんが呼びかけた両院保護者の集いの開催をし、要望書を県教委・支援学校へ提出、県議団へ協力要請等してスクールバスの導入が決定しました。
あるお母さんは、障がいのある自分の子どもに日頃迷惑を掛けられているのにと、協力してもらえないのではとビクビクして署名のお願いに行ったら快く協力していただき、頑張ってねともいわれた、やって良かったと。
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困り事、夢の中から新たな社会資源も出来ました。家から出て仲間と楽しく過ごしたいからグループ型移動支援「かけはし号(2台)」が誕生、運転・介助ボランティアの協力で楽しい時を過ごしています。
他にも余暇支援として、音楽、将棋、絵手紙、料理教室も生まれました。そして2年に1回、集大成として、「ピアサポートフェスティバル」が大勢の市民も参加して開催されています。
最後に
家でひっそりと過ごしていた人達、特に心の病いを持った人が居場所を求め、地域に出てくる様になり、そしていきいきと働いている姿も見られる様になりました。
「生きづらさ」を抱え苦労しながらも、障がいのある人達が持つ「生きる力」を社会が信じ、支える協働が「その人らしく生きる」をつくりだしていくのではないでしょうか。
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