【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第3分科会 石巻に虹を架けよう~被災地の今を見る、知る、触れる、考える~

 東日本大震災による津波被害のショックと被災者のどこにもぶつけようもない苦言に耳を傾け、耐えながら、復旧・復興事業の中で次の災害に備える意識を高め、後世のために伝え続けることこそが、私たち自治体職員が歩むべき"復興の道"と考えます。これまでの復興の取り組みを振り返り、課題を共有することで解決策を見いだし、小さくてもたくましい村づくりをめざす本村の現状を報告します。



被災地復興の現状と課題
―― 耐える、備える、伝え続ける ――

岩手県本部/田野畑村職員組合・執行委員長 佐藤 智佳

1. 現 状

(1) 暮らしの再建
① 被災者の住宅再建
 東日本大震災により本村では、281棟251世帯が被災しました。発災から2カ月後には村内3カ所に応急仮設住宅が建設され、最大時で140世帯416人が入居。その他、親せき宅等への避難を含めると177世帯511人が長い避難生活をスタートさせました。当時の村の人口は約3,800人。村民の13%余りが避難生活を送ることとなりました。
 その後、村と被災住民・被災地区役員との懇談を幾度も重ね、集団移転先を決定しました。村では、住宅再建を最優先に取り組み、県下でもいち早く2012年10月に移転団地造成の起工式を行いました。翌年3月末には被災集落に近い小規模な移転団地の造成工事が完了し、災害公営住宅の建築がスタート。自力再建の住宅建設も同時に始まり、早い世帯では7月に住宅再建をすることができました。
 このほか、村内に3カ所の集団移転団地を造成。埋蔵文化財の本調査が入ったり、造成工事を行う建設会社が倒産したりという問題が発生しつつも、2014年6月にはすべての団地の造成工事が終わり、同年12月には災害公営住宅の建設もすべて終わりました。(参考:応急仮設住宅は2016年6月17日で全員退去)
 2016年6月末現在の住宅再建状況は次のとおりです。

※1 避難世帯数より再建等の世帯数の合計が上回っているのは、再建時に世帯分離を行っている
  世帯があるため。人数の増は震災によりUターンした家族構成員をカウントしているため。
※2 未再建は各々の事情により、住宅再建を行っていない世帯(者)。

② なりわいの再生
 村の基幹産業は水産業です。ワカメの養殖業をはじめ、ウニ・アワビの採介藻漁業、サケはえ縄・定置網漁などが行われています。震災直後、船や漁具を津波に奪われたことは、自宅が流されるよりも大変なことだと漁師らは話していました。漁師にとって船と漁具は、命と同じに大切な物だと言います。
 また、近年は海岸の景観や海洋資源・人材を活用した体験型観光にも力を入れて取り組んでおり、漁師がガイドとなって漁船で村の海岸を周遊する「サッパ船アドベンチャーズ」は本村の観光の代名詞にもなっていました。震災からわずか4カ月後には、以前から観光で交流のあった青森県のA漁協から4隻の小型漁船を譲り受け、サッパ船アドベンチャーズを再開。そして、津波を経験した者がガイドとなり「サッパ船&津波語り部」という新たなプログラムで観光業再生の第一歩を踏み出しました。行方不明者の捜索が続く中、観光業などと非難の声もありましたが、漁師が、そして村が生き残るためには、観光業も立派な"なりわい"でした。そう再認識したのは、漁師の人々であり、村を訪れてくれる観光客だったと思います。
 震災から数カ月、多くの漁師は国の緊急雇用事業により、がれきの撤去や道路の草刈りなど慣れない作業に没頭しながら、新しい漁船が届くのをひたすら待ち続けました。そして、2014年度までには国の支援により希望者全員に305隻の漁船を確保することができました。
 ワカメの養殖施設も共同利用として国が一括整備を行い、2013年度中に設備目標を達成しました。
 被災したサケふ化場は、経営規模から隣接の村と共同経営になったものの、2013年7月に施設が完成・操業開始することができました。ふ化場で育ち、放流したサケの回帰とともに、今後の水産業が復旧・復興していく姿を見守っている状況です。

(2) 被災地の復旧・復興
① 浸水用地の復旧
 津波により被災した用地は、農林水産省の漁業集落防災機能強化事業を活用し、災害に強い集落道や盛土による面整備、水産施設用地の整備と、効果促進事業による震災遺構・メモリアル公園の整備を急ピッチで進めています。村は住宅再建を優先的に進めたため、現在でも工事未着手となっている浸水用地もありますが、2017年度までに整備計画のある用地はすべての工事が完了する予定です。
② 防災安全施設の整備
 東日本大震災の大津波では、指定避難場所に行く途中で犠牲になったり、指定避難所で孤立したりしてしまうなどの課題がありました。①と同様の事業を活用し、より安全で早く避難ができるルートを確保するため、避難道路や避難サイン、照明灯の整備を進めています。併せて、村内に備蓄倉庫を建設し、救援物資が届くまでの食料品・生活用品・寝具も備えました。
 また、津波避難は「てんでんこ」と方言でも伝承されているように、自分の命は自分で守ること、どこよりも高い所に逃げることが大前提です。ハード面の備えだけでなく、ソフト面の心構えも重要です。年1回の津波避難訓練には子どもからお年寄りまで、沿岸地域住民のほぼ全員が参加し訓練を続けています。


2. 課 題

(1) 心の復興
① 見えない壁を取り除く
 震災から5年が経過し、被災者と被災していない者との見えない壁を感じるようになりました。私だけではなく、被災地の人々、特に自治体職員は強く感じています。それは、被災者だけを対象とした復興支援です。問題となったのは、仮設住宅住民だけへの支援でした。被災者は何も仮設住宅に入っている人だけではありません。みなし仮設や公営住宅、親せき宅、実家など、安心できる住宅に移り住んだのも被災者なのです。
 しかし、支援をする側はその実態を知ることはできません。マスコミで取り上げられるのも仮設住宅の住民ばかりです。このことが被災者間のトラブルにもなり、その苦情を私たち職員はただ聞いてあげることしかできません。支援する側から事前に申し出があったものは、仮設住宅への支援物資は数を増やしてもらったり、仮設住宅集会所でのボランティア活動も地域のコミュニティセンターなどに場所を変更していただくなどの配慮を行ってきました。
 自治体では、このように気を使いながらも、国の復興施策は被災者を限定するものがほとんどです。「見えない壁」を感じ取ってほしい。被災地からの切実なお願いです。
② 視点を変えたコミュニティ支援
 「何もしなくなった被災者」という言葉をある友人から聞きました。これは「何もしていない」というのではなく、何もかもやってもらうことが当たり前と思っているという『グチ』と私は理解しました。津波被害による喪失感、それは到底計り知れませんが、たくさんの支援と温かい声援に頼り、自分たちの力で、自分たちの地域や暮らしを再建する力を失っている被災地域の現実です。手を差し伸べるだけが支援ではありません。立ち上がる様子を見守り応援することも支援の一つです。「地域のつながりがなくなった」「行政でどうにかしてくれ」「補助金を出してくれ」この言葉の繰り返しに、残念な思いしか浮かんできません。
 そもそも地域とは、住民が協調し合ってこそつくられるものと思います。このような行政依存の地域をつくったのは行政の責任かもしれません。この責任をとるならば、今こそ、被災し離散した自治会が立ち上がる姿を見届けるべきと考えています。「補助金の切れ目が、コミュニティ活動の切れ目」と言われない強いコミュニティをつくることがこれからの課題です。
③ 支援のお礼と発信力の強化
 復興支援を受けるだけでなく、これからは、感謝を行動に移す必要があると考えています。マスメディアやSNS、冊子でも手紙でも手段は多様にあります。IT関連に得意な人に手伝ってもらうことも手段の一つと考えます。
 本村や村民は「お礼」をすることが苦手とつねづね感じています。これまでの支援に広くお礼をしていく取り組みを、自分自身をはじめ村を挙げて進めていきたいと考えています。

(2) 人材育成
① 産業の担い手育成
 水産業のハードが復旧・復興する一方で、元々高齢化していた漁業者が、震災を機に現役から退く例も少なくありません。漁協組合員は震災後の2012年度に急激に落ち込み、その後も右肩下がりの数値となっています。この推移は水揚量にも比例し、水産業を維持していくための深刻な問題となっています。
 
 
 また、村内の産業全般においても若者の労働者不足が叫ばれています。震災を機にUターンで実家に戻っても、仕事は村外となる例が多く、地域産業の担い手には成りえない状況です。
 いかにして、地域産業の従事者を増やすか、それぞれの分野でアイディアを出し真剣に取り組む必要があります。
 その課題の一角には、若者の結婚対策もあります。これは行政だけでなく、社会全体の課題として、家庭・地域・国も一緒になって取り組むべきものと考えます。

② 自治体職員の危機
 平成10年代後半の行財政改革に伴って、本村も職員採用を控えてきました。そこにこのたびの震災を受け、少ない人数で例年の10倍以上の予算を執行しなければならないというハードワークを5年余り続けています。残業時間も膨大で、新しく入ってきた職員の指導をする余裕などありません。地域の復興のためにと意欲を持って就職しても、復興業務の忙しさについていけず、20・30代の職員が毎年数人、離職しています。
 本村職員の推移は次のとおりです。

 
※ うち離職者は、定年退職者を除く

 職組・執行委員長の私の責務として、この現実を"本人の意思"だけとせず、村の"危機"として受け止める必要があると訴え続けています。現在でも深夜勤務は続いており、震災から5年経過しても仕事量は変わらず、まして困難な内容の仕事が増えているような気がします。2016年度に入ってからは、会計検査も続々と決定し、受検のための資料の整理・準備など深夜残業は終わりません。
 震災当時、バリバリ仕事をしていた階級の職員が今、管理職となり、間もなく定年を迎えます。復興業務の慌ただしさできちんとした引き継ぎもなく、その下の世代が管理職になるとき、果たして管理職としての仕事ができるのか、私は不安でなりません。そして、その下の世代にしてもしっかりとした職場の教育がされないままバリバリ仕事をこなせる力があるのか、人事管理者はメンタルヘルスだけでなく、将来を見据えた人員配置と人材育成を本気になって検討すべきと訴え続けていく必要があります。


3. まとめ

 「被災地の復興・復旧にはまだ時間がかかる」とよく耳にしますが、「まだまだ」とするも、「もう少し」とするも、自治体の意気込み次第だと私は考えます。今回レポートに記したグラフの数値は、説明のとおり良い数値ではありません。課題も山積しています。しかし、この困難をどう解決していくか、復興のプロセスを後輩や後世に伝えていくことが、震災を経験した私たちの責務であり、その取り組みこそが、小さくてもたくましい力を持った村にしていくことができるものと考えています。
 今年、熊本や大分で新たな震災が発生しました。東日本大震災での経験を次の被災地に継ぐ取り組みも、今後の業務に入ってくるものと思われます。決して嫌がらず、強いメンタルを維持しながら、被災地に役立つ活動をしてまいりたいと思います。そして、明日はどこで起きるかわからない災害のために、皆さんには備える取り組みをお願いしたいと思います。
 今回、震災からの復旧・復興の取り組みを振り返り、現状をあらためて考察する機会を与えてくださったことに感謝いたします。