【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第3分科会 石巻に虹を架けよう~被災地の今を見る、知る、触れる、考える~

 東日本大震災から5年の月日が経過しました。あの震災時の区役所のこと、避難所のこと、災害時に市の職員として勤務すること、被災者としての生活、多くの自治体の仲間に支援されたこと、5年経過して思うこと。



私が経験した東日本大震災
―― 同じことを繰り返さず明日に備えるために ――

宮城県本部/仙台市職員労働組合・若林支部 熊谷 明寛

1. 5年前のこと

(1) 3.11
① 震災発生時の区役所の様子
 あの日、2011年3月11日午後2時46分、私は現在と同じ職場若林区役所保険年金課に勤務していました。市民との電話対応中に、携帯電話から緊急地震警報が鳴り出すと間もなく、今まで経験したことがない程の激しい揺れが職場を襲いました。また、地下からは工場の機械のような地響きが鳴り、地震は約3分間揺れ続けました。私は、電話で会話していた相手に無事かを確認すると、「もう、駄目だ」と言い残し電話は切れました。マンションの高層階に居住していた方でした。揺れもようやくおさまり、身の回りを確認すると、幸い私の職場は区役所の1階にあったため、書庫が倒れたりするような被害はありませんでした。
 身の回りや職場の安全確認をしていると、ラジオから大津波警報が発令されたことを確認しました。丁度、1年前の2月28日にもチリ中部沿岸の地震で発表した大津波警報で避難所を開設したこともあり(宮城県内で予測した津波の高さ3mに対して、観測された津波の高さ106cm)、この時点では、それほど重大なことになるとは、想像もしませんでした。
 まもなく、保健福祉センター管理課から、避難所を開設することになったので、指定する学校にすぐ向かうよう指示されました。指示された避難所には、1年前のチリ中部沿岸の地震で発表した大津波警報で避難所として開設したが、海岸線に近すぎるため閉鎖された荒浜小学校も含まれていました。その時、直接出動を指示した課長に、前の経過も知っていたので荒浜小学校に向かうのか確認すると、指示どおりに出動するよう命令されました。この時点で、区の指揮系統は崩壊し、第1陣で避難所に派遣された職員も、危機意識がないまま避難所に出発してしまいました。
② 避難所の様子
 午後3時頃だったと思います。私は同僚2人と3人で七郷小学校に避難所開設に出発しました。区役所を出て、県道荒井荒町線を東に向かうと、道路はまだ渋滞はしていませんでした。ほとんどの信号機は、動かなくなっていましたが、国道4号線蒲の町交差点の信号は動いていました。その頃、車内のカーラジオから、岩沼市にある仙台空港が津波に襲われているとのニュースを聞き、これまで私が経験してきた地震災害(1978年に発生した宮城県沖地震等)とは規模の違う災害になっていると実感しました。蒲の町交差点を通過し、荒井地区に入ったころから、南東の方向(おそらく名取市の閖上地区だと思いました)から、幾つかの煙が見えました。
 途中何箇所かは、通行が困難なほど破損した道路はありましたが、大きな渋滞に巻き込まれることもなく、順調に(おそらく区役所から15分くらい)走行し、七郷小学校に到着しました。
 着任の報告を校長にするため、校舎2階の職員室に向かいました。2階に上がり、職員室の扉を開くと、目の前に白いロッカーが倒れかけていました。事務机に引っ掛かり、完全に倒れているわけではなかったので、立て直そうとしたところ、教員から「危険だから触れるな」と叫ばれました。私がロッカーだと思っていた物は、重量数tもある耐火金庫だったのです。校長と打ち合わせをしていると、荒浜小学校に向かっていた区の職員3人が、七郷小学校に来ました。状況を確認すると、仙台東部道路より東側は、津波の浸水のため進行できないので引き返すよう警察より指示されたため、七郷小学校に避難したとのことでした。
 校長より、既に避難者は2,000人を超えていること。体育館には収まらないので教室も開放していること等の報告を受けました。現場を確認するため体育館に向かうと、既に足の踏み場もない状態でした。物資を確認したところ、食糧・水・毛布等全て数百人分しかないことが判明しました。とりあえず、七郷小学校の近隣のコミュニティーセンターから物資を回収し、七郷小学校に搬入するためリヤカーを動かしてみると、タイヤの空気が抜けていて搬入作業は思っていたよりも困難でした。
 その時間(おそらく午後4時頃)から、雪が降り出してきました。明るいうちに毛布等の物資を配布し、停電の夜に備えるため、1本のローソクを幾つかに分けて、体育館や教室に配布したりしていました。しかし、度々強い余震があったので、本当に火を使わせていいのかを何度か話し合いました。避難所の運営は、教職員が行っており、私たち区役所の職員6人は、右往左往するばかりでした。特に私などは、区役所を出発する際に、「交替の職員も後で向かわせる」などと言われたことを真に受けて、交替要員を待っていたり、翌日のサッカーの試合は行われるのかを心配したり(3月12日はベガルタ仙台のホーム開幕戦でした)、家族の安否を携帯で(災害時に通話規制はされていたが、何度もかけると意外に通じた)確認したり、その時点では、まだ事の重大さは、それほど感じていませんでした。
③ あの日の夜
 夕方午後5時頃には、日も落ちかなり暗くなってきたと思います。引き続き繰り返し起きる余震の度に、避難者のいる体育館や教室を見廻り火気に注意していました。学校側と町内会で、ある程度地区ごとに避難者を分けて収容していたので、大きなトラブルもなく夜を迎えました。校舎上階の見廻りをしていると、南東方向の名取市の閖上地区や北東方向の仙台新港が激しく燃えているのが見えました。暗闇の中、火災の炎しか見えなくなってくると、段々不安な気持ちが大きくなってきました。震災発生から数時間は使用できていたトイレも、受水槽の水がなくなると使用できなくなり、暗い中水を汲みにも行けないため排泄物を流すこともできなくなりました。
 その後、避難者への食事の提供をどうするのか検討しました。アルファ米を提供するにも、お湯を沸かすことができず、水で作ってみましたがとても食べられる代物ではありませんでした。とりあえず子どもだけに乾パンとミネラルウォーターを配布しました。
 午後9時頃になっていたと思います。職員室で教職員と待機している時、ラジオから「仙台市若林区荒浜地区の塩釜亘理線付近で200~300体の遺体を上空のヘリコプターが確認」とのニュースが入りました。愕然としました。津波が起きて被害が出ていることも知っていました。しかし、自分が存在している地点から、数km先でそんなに多くの生命が失われたことが信じられず、今自分が大災害の中で生きていること、これからどうなってしまうのか、あのニュースの後、恐怖と不安が頭の中でいっぱいになりました。
 仮眠を取ろうにも、荒浜のことを考えると眠ることはできず、あの夜は一睡もできませんでした。校庭に避難していた車中泊の人や、建物に入らず外で夜を過ごしている人もいました。寝つけもしないので、外の見廻りに出ると、外は大変寒かったが、星が綺麗に輝いていたことと、校庭から数100m先の仙台東部道路を超えた地区のこと、荒浜地区のことを考えると悲しさや悔しさがこみ上げてきました。
④ 朝が来た
 早朝3時頃だったと思います。何かを壊している音がしました。確認するため校庭に出ると、避難者が昇降口のスノコを壊し火を起こしていました。七郷小学校の校長は寛大な人で、学校の備品でも臨機応変に対応していただき大変助かりました。学校によっては、備品を壊すことを許可はしなかったと思います。火を起こすことができたのでお湯を沸かしました。昨夜挑戦してみたアルファ米もお湯で作ると食べることができました。半日ぶりに食べ物を口にすることができました。
 午前8時頃だったと思います。ニュースを見たり聞いたりした人が食料品を持ってきてくれました。最初に来てくれた人は近所で中古車販売店を経営している人でした。自家用車にたくさんの食料品を積み込んで持ってきてくれました。津波で浸水した地域に近い避難所だったため多くの支援物資を受けとることができました。
 それからしばらくすると、区役所から防災無線で連絡があり、一度区役所に戻るよう指示されました。

(2) 被災者
① 犠牲者
 3月12日の昼前に区役所に戻ることができました。区役所の入り口で総務課長に会いました。職員の無事を確認したところ、荒浜地区に避難するように広報に向かった職員2人が戻ってきていないと伝えられました。戻ってこなかった、まちづくり推進課の菅原さんと大友さんの遺体が発見されたのはゴールデンウィークの連休に入ってからでした。しばらくして、現地を通行した人から二人の活動を聴く機会がありました。未曾有の災害の中、必死で避難誘導していたことを思うと胸が痛みました。1年前のチリ中部沿岸の地震の際にも、安全衛生委員会で災害時の広報について話し合う機会が何度かありました。しかしながら、津波を過小評価しこれほどの規模の津波が来ることを想像せず、何の対策も取らないまま二人を現地に向かわせてしまったことは、当局側だけでなく私たちにも責任があると私は思います。二人の他にも数人の職員が津波にのまれましたが、幸い無事でした。

② 震災翌日の区役所
 区役所の中に入ると、大勢の人がロビー、階段、廊下にも溢れそうになっていました。廊下やトイレのコンセントには携帯電話の充電器が接続されていました。NHKのラジオで、「若林区役所で携帯電話の充電ができます」と放送したらしく大勢の人が窓口に詰めかけ、「事務室のコンセントを使わせろ」と訴え、侵入するのを制止するのは大変でした。
 また、いろいろと誤った報道も流れていて、若林区役所も津波の被害を受けたと伝えていたそうです。ただ、私は、その誤った報道のおかげで、昨日連絡が取れなかった弟家族が、私を心配して区役所まで来てくれたので無事を確認できました。
 災害対策本部に経過報告をして職場に戻ると、自家発電が作動していたので停電はしていませんでしたが、オンライン端末の回線は寸断されていたため、手作業で保険証の再交付等を行っていました。混乱している職場の中でも、他の避難所で勤務していた同僚と、避難所の様子や被害の程度などを確認しました。この時、私の勤務している保険年金課は区内に21ヶ所あった避難所のうち5ヶ所の運営を担当していました。
 それから、課長からの指示で避難所で24時間勤務をした人は、とりあえず帰宅して明日からもローテーション勤務で避難所の勤務をするよう伝えられました。私は、震災の翌日帰宅することができましたが、支援物資の受け入れを担当していた職員は、職場で1週間以上も寝泊りを続けたそうです。
③ 見たことがない風景
 自宅への帰路の風景は日常とあまり変化はありませんでした。しかし、コンビニエンスストアで何か食べ物を購入しようと思い店に入ると、驚いたことに品物が何もない状態でした。陳列棚も飲料の冷蔵庫も弁当や惣菜の冷蔵庫も何もありませんでした。また、自宅近くの広瀬川にかかっている新幹線の高架橋には、2階建て新幹線のMAXが停車したままでした。それからなんとか自宅にたどり着くことができ、玄関を開けると、マンションの高層階に住んでいたため、家具はほとんどが倒れ足の踏み場もない状態でした。どうにかベランダまでたどり着き、東側の太平洋が見える方向を見ると、いつも見えていた、自宅から8km程先の海岸線の松林が、津波により櫛の歯が欠けたような状態になっていました。松林を眺めながら、自分のいる状況と海岸線の付近の状況を考えると悲しい気持ちになってきました。
 仙台市内唯一の海水浴場だった荒浜の深沼海岸、海岸公園のパークゴルフ場、冒険遊び場、馬術場、荒浜航空分署、そして、市内沿岸にあった約900戸の住宅が一日のうちになくなってしまいました。被災したとはいえ、倒壊した建物も周りにはない私が居住している地区から数km先の地域で、もしかしたら、つい最近、区役所で話しをしていたかもしれない人たちが、亡くなってしまったり、家族を亡くしたり、家を失ったり大変な苦労をされていること、今までテレビのニュース等で見てきた、他の国や地域の戦争や災害の被害が、私の生活している地域で同じように起きていることに、これからどうなってしまうのか不安な気持ちになりました。
 しかし、自宅付近の道路で、遠くの町から支援に来てくれた車両に遭遇した時は、涙が溢れそうになりました。発生から24時間も経っていない、この深刻な状況に助けに駆けつけてくれる人たちの姿を見た時、一人ではないんだと改めて思いました。
震災後、古城地区から見えた海岸線の松並木 県道荒浜原町線から荒浜小学校付近の様子
荒浜地区で被災したガソリンスタンド 荒井地区の水田の中に、車や瓦礫が流入
④ それでも働く
 それからしばらくの間5月の中旬まで避難所での勤務は続きました。避難所を開設して間もなく、災害対策本部から各避難所に、区の職員が学校の職員や避難者を掌握し、運営委員会を立ち上げるよう指示されました。何の説明もなく、知識もないまま立ち上げようとして、学校や避難者と対立するようなことになった避難所も少なくありませんでした。また、震災直後から、新潟市・神戸市をはじめ多くの自治体の支援を受けながら勤務を続けました。
 震災直後の3月14日月曜日から、オンラインも不通のまま窓口業務を再開しました。例年の繁忙期の窓口業務に加え、震災に関する様々な業務を、避難所運営業務に職員を派遣したまま、少ない職員でやり繰りしました。
 家庭の事情等で出勤できない職員以外ほとんどの職員が勤務を続けました。
 しかし、その頃区役所では深刻な問題が発生していました。勤務している職員の食料がありませんでした。避難所で勤務していた職員は食事をとることができましたが、区役所で勤務する職員には、区内の被害が甚大だったため、備蓄していた食料を配布することはありませんでした。もちろん庁内の食堂も営業しておらず、市内の商店で食料品の調達も困難なのに勤務を続けているため、食料を確保することができませんでした。組合の執行委員会で職員の食事の窮状を訴えたところ、自治労各都市の仲間や各種労働団体の皆様より、たくさんの支援物資を受け取ることができました。
 少ない職員で業務を続けていく中、4月の人事異動は5月に延期され、定年退職者も1ヶ月延長し、繁忙期を乗り越えました。また、新規採用の職員はほとんどが、5月から避難所勤務になりました。
 津波の被災地域から勤務している職員の中には、家族が亡くなったり行方不明になっている人も少なくなく、避難所から通勤している人もいました。
 私たちは、自らも被災しながら、被災者の対応を行い、時間を見つけては、家の片付けをしたり、遺体安置所で家族を探したりしなければなりませんでした。


2. 5年経って思うこと

(1) 2016.3.11
① 語り継ぐこと
 若林区役所では、震災の1年後から、市の慰霊祭とは別に、殉職した菅原さん大友さんの偲ぶ会を、毎年行ってきました。当時から区役所で勤務していた職員も少なくなり、お二人が亡くなったことも知らない職員も少なくない状況です。
 区役所の周りを見渡すと、震災前と同じ風景に戻りました。しかし、あの悲惨な被害にあった沿岸部は更地になったままです。ここで、菅原さんと大友さんが未曾有の災害の中、必死で避難誘導していたこと、私たちには命をかけて行う仕事があること、必ずどのような仕事でも家族のもとに帰ることを、この区役所で勤務する職員に語り継ぐことが、当時からここで勤務している私たちの義務だと思います。
 今年も、お二人の家族や当時の同僚、多くの区役所の職員が追悼に訪れてくれました。お二人のことや当時の思い出を語り合いながら、5年前のことを思い出しました。
 それから、語り継いでいかなければならないのは、避難所で何の準備もせずに業務に入ってしまい不甲斐ない仕事をしてしまったこと。平時であっても、常に災害に備える準備を怠らないこと。私たちと、同じ過ちを繰り返さないことだと思います。

② 熊本へ
 東日本大震災の後、5年とひと月が経過した、2016年4月14日21時26分、今度は九州の熊本県で大きな地震が発生しました。テレビの画面を見る限り地震だけの被害では、東日本大震災を超えていると思いました。15日に、保健福祉センターの所長と話をする機会がありました。もし熊本から支援を求められたら、すぐに対応するよう依頼しました。その後の報道で多くの避難所が開設されていることを知りました。
 その後4月16日1時25分再び本震と呼ばれる震度7(熊本市内で震度6強)の地震が発生しました。
 その翌週仙台市から熊本市への避難所運営支援職員の派遣が決まり、4月22日私も熊本市への派遣が決定し、4月26日から5月6日まで11日間熊本市北区の避難所で支援業務を行いました。
 これまで、ニュースや新聞で見た熊本城や益城町の倒壊した建物の映像を想像し現地に入ると、幸い北区は想像していたほどの被害ではありませんでした。しかし、避難所には、日中はお年寄りばかりでしたが、夜になると多くの人が自宅で夜を過ごすのが怖いからと避難所に集まってきました。また外では多くの人が車中泊をしていました。
 避難している人からは、「わざわざ遠い仙台から来てくれてありがとう」と多くの人から声を掛けられました。私は「5年前には仙台でも大勢の熊本の人のお世話になりました」と何度も繰り返しました。
 5年前未曾有の災害の中で働いてきた私たちは、熊本で現在大変な苦労をされている職員のみなさんの少しでも力になれればと派遣されてきました。避難所では、区役所の職員の人とはあまり会えませんでしたが、想像するに区役所の中は大変な激務になっていたと思われました。そのためか、避難所に勤務される熊本市の職員は、熊本城で勤務されていた人が多く、派遣される前に見ていた衝撃的だった熊本城の様子を聴くことができました。
 また、避難している人や、熊本市の職員の人からは、東日本大震災の地震や津波の被害のこと、熊本では前震があって本震が来たので、次に後震が来るのか等いろいろと話をすることができました。

(2) 最後に
① 感 謝
 震災の前から勤務している若林区役所保険年金課。今、レポートを作成しながら、当時のことを思い出すと、なんとか生き残れたという感じです。私は、国民健康保険の給付の業務を担当していましたが、震災後の2年間ほどは、1年で約10年分(支給した金額などです)の業務を行いました。膨大な業務量に対して増員を要求しても、配属されるのは臨時職員ばかりでした。他の職場も同様でした。激務に耐えかね退職した仲間、自ら命を絶った仲間も少なくありませんでした。
 どうやって、今日まで生きてこられたのかを考えると、いろいろな人たちに支えられて、今日まで仕事を続けてくることができたと思います。避難所で神戸市・新潟市の仲間、職場では京都市・東京都特別区・徳島市の仲間、その他全国の大勢の自治体に勤務する仲間の支援がありました。
 本当にありがとうございました。
② 復 興
 今回、仙台で開催される自治研集会に来ていただきましてありがとうございます。みなさんが参加している集会の会場付近を見廻しても、震災の傷跡を探し出すのは難しいと思います。
 しかしながら、ここから電車や地下鉄で少し足を延ばすと一面の更地に土を盛り市街地を再生しようと懸命に働いている自治体の仲間が大勢います。
 また、福島の自治体には原発事故の影響で居住すらままならない中、自治体の再生を過酷な状況の中でめざし働いている地元の仲間、多くの派遣職員がいます。
 これから、10年後20年後東北の被災地がどのように復興していくのか見守ってください。私たちも、これからもどこかで大きな災害が発生した時には、東日本大震災で経験したことを少しでも力に支援していきたいと思います。