1. 5年前のこと
(1) 3.11
① 震災発生時の区役所の様子
あの日、2011年3月11日午後2時46分、私は現在と同じ職場若林区役所保険年金課に勤務していました。市民との電話対応中に、携帯電話から緊急地震警報が鳴り出すと間もなく、今まで経験したことがない程の激しい揺れが職場を襲いました。また、地下からは工場の機械のような地響きが鳴り、地震は約3分間揺れ続けました。私は、電話で会話していた相手に無事かを確認すると、「もう、駄目だ」と言い残し電話は切れました。マンションの高層階に居住していた方でした。揺れもようやくおさまり、身の回りを確認すると、幸い私の職場は区役所の1階にあったため、書庫が倒れたりするような被害はありませんでした。
身の回りや職場の安全確認をしていると、ラジオから大津波警報が発令されたことを確認しました。丁度、1年前の2月28日にもチリ中部沿岸の地震で発表した大津波警報で避難所を開設したこともあり(宮城県内で予測した津波の高さ3mに対して、観測された津波の高さ106cm)、この時点では、それほど重大なことになるとは、想像もしませんでした。
まもなく、保健福祉センター管理課から、避難所を開設することになったので、指定する学校にすぐ向かうよう指示されました。指示された避難所には、1年前のチリ中部沿岸の地震で発表した大津波警報で避難所として開設したが、海岸線に近すぎるため閉鎖された荒浜小学校も含まれていました。その時、直接出動を指示した課長に、前の経過も知っていたので荒浜小学校に向かうのか確認すると、指示どおりに出動するよう命令されました。この時点で、区の指揮系統は崩壊し、第1陣で避難所に派遣された職員も、危機意識がないまま避難所に出発してしまいました。
② 避難所の様子
午後3時頃だったと思います。私は同僚2人と3人で七郷小学校に避難所開設に出発しました。区役所を出て、県道荒井荒町線を東に向かうと、道路はまだ渋滞はしていませんでした。ほとんどの信号機は、動かなくなっていましたが、国道4号線蒲の町交差点の信号は動いていました。その頃、車内のカーラジオから、岩沼市にある仙台空港が津波に襲われているとのニュースを聞き、これまで私が経験してきた地震災害(1978年に発生した宮城県沖地震等)とは規模の違う災害になっていると実感しました。蒲の町交差点を通過し、荒井地区に入ったころから、南東の方向(おそらく名取市の閖上地区だと思いました)から、幾つかの煙が見えました。
途中何箇所かは、通行が困難なほど破損した道路はありましたが、大きな渋滞に巻き込まれることもなく、順調に(おそらく区役所から15分くらい)走行し、七郷小学校に到着しました。
着任の報告を校長にするため、校舎2階の職員室に向かいました。2階に上がり、職員室の扉を開くと、目の前に白いロッカーが倒れかけていました。事務机に引っ掛かり、完全に倒れているわけではなかったので、立て直そうとしたところ、教員から「危険だから触れるな」と叫ばれました。私がロッカーだと思っていた物は、重量数tもある耐火金庫だったのです。校長と打ち合わせをしていると、荒浜小学校に向かっていた区の職員3人が、七郷小学校に来ました。状況を確認すると、仙台東部道路より東側は、津波の浸水のため進行できないので引き返すよう警察より指示されたため、七郷小学校に避難したとのことでした。
校長より、既に避難者は2,000人を超えていること。体育館には収まらないので教室も開放していること等の報告を受けました。現場を確認するため体育館に向かうと、既に足の踏み場もない状態でした。物資を確認したところ、食糧・水・毛布等全て数百人分しかないことが判明しました。とりあえず、七郷小学校の近隣のコミュニティーセンターから物資を回収し、七郷小学校に搬入するためリヤカーを動かしてみると、タイヤの空気が抜けていて搬入作業は思っていたよりも困難でした。
その時間(おそらく午後4時頃)から、雪が降り出してきました。明るいうちに毛布等の物資を配布し、停電の夜に備えるため、1本のローソクを幾つかに分けて、体育館や教室に配布したりしていました。しかし、度々強い余震があったので、本当に火を使わせていいのかを何度か話し合いました。避難所の運営は、教職員が行っており、私たち区役所の職員6人は、右往左往するばかりでした。特に私などは、区役所を出発する際に、「交替の職員も後で向かわせる」などと言われたことを真に受けて、交替要員を待っていたり、翌日のサッカーの試合は行われるのかを心配したり(3月12日はベガルタ仙台のホーム開幕戦でした)、家族の安否を携帯で(災害時に通話規制はされていたが、何度もかけると意外に通じた)確認したり、その時点では、まだ事の重大さは、それほど感じていませんでした。
③ あの日の夜
夕方午後5時頃には、日も落ちかなり暗くなってきたと思います。引き続き繰り返し起きる余震の度に、避難者のいる体育館や教室を見廻り火気に注意していました。学校側と町内会で、ある程度地区ごとに避難者を分けて収容していたので、大きなトラブルもなく夜を迎えました。校舎上階の見廻りをしていると、南東方向の名取市の閖上地区や北東方向の仙台新港が激しく燃えているのが見えました。暗闇の中、火災の炎しか見えなくなってくると、段々不安な気持ちが大きくなってきました。震災発生から数時間は使用できていたトイレも、受水槽の水がなくなると使用できなくなり、暗い中水を汲みにも行けないため排泄物を流すこともできなくなりました。
その後、避難者への食事の提供をどうするのか検討しました。アルファ米を提供するにも、お湯を沸かすことができず、水で作ってみましたがとても食べられる代物ではありませんでした。とりあえず子どもだけに乾パンとミネラルウォーターを配布しました。
午後9時頃になっていたと思います。職員室で教職員と待機している時、ラジオから「仙台市若林区荒浜地区の塩釜亘理線付近で200~300体の遺体を上空のヘリコプターが確認」とのニュースが入りました。愕然としました。津波が起きて被害が出ていることも知っていました。しかし、自分が存在している地点から、数km先でそんなに多くの生命が失われたことが信じられず、今自分が大災害の中で生きていること、これからどうなってしまうのか、あのニュースの後、恐怖と不安が頭の中でいっぱいになりました。
仮眠を取ろうにも、荒浜のことを考えると眠ることはできず、あの夜は一睡もできませんでした。校庭に避難していた車中泊の人や、建物に入らず外で夜を過ごしている人もいました。寝つけもしないので、外の見廻りに出ると、外は大変寒かったが、星が綺麗に輝いていたことと、校庭から数100m先の仙台東部道路を超えた地区のこと、荒浜地区のことを考えると悲しさや悔しさがこみ上げてきました。
④ 朝が来た
早朝3時頃だったと思います。何かを壊している音がしました。確認するため校庭に出ると、避難者が昇降口のスノコを壊し火を起こしていました。七郷小学校の校長は寛大な人で、学校の備品でも臨機応変に対応していただき大変助かりました。学校によっては、備品を壊すことを許可はしなかったと思います。火を起こすことができたのでお湯を沸かしました。昨夜挑戦してみたアルファ米もお湯で作ると食べることができました。半日ぶりに食べ物を口にすることができました。
午前8時頃だったと思います。ニュースを見たり聞いたりした人が食料品を持ってきてくれました。最初に来てくれた人は近所で中古車販売店を経営している人でした。自家用車にたくさんの食料品を積み込んで持ってきてくれました。津波で浸水した地域に近い避難所だったため多くの支援物資を受けとることができました。
それからしばらくすると、区役所から防災無線で連絡があり、一度区役所に戻るよう指示されました。
(2) 被災者
① 犠牲者
3月12日の昼前に区役所に戻ることができました。区役所の入り口で総務課長に会いました。職員の無事を確認したところ、荒浜地区に避難するように広報に向かった職員2人が戻ってきていないと伝えられました。戻ってこなかった、まちづくり推進課の菅原さんと大友さんの遺体が発見されたのはゴールデンウィークの連休に入ってからでした。しばらくして、現地を通行した人から二人の活動を聴く機会がありました。未曾有の災害の中、必死で避難誘導していたことを思うと胸が痛みました。1年前のチリ中部沿岸の地震の際にも、安全衛生委員会で災害時の広報について話し合う機会が何度かありました。しかしながら、津波を過小評価しこれほどの規模の津波が来ることを想像せず、何の対策も取らないまま二人を現地に向かわせてしまったことは、当局側だけでなく私たちにも責任があると私は思います。二人の他にも数人の職員が津波にのまれましたが、幸い無事でした。
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