1. はじめに
兵庫県芦屋市は、1940年に全国で173番目の市として誕生しました。南に大阪湾を臨み、北には緑豊かな六甲の山々が連なる四季の彩りに包まれた住宅都市です。
戦災や戦後のジェーン台風被害からの復興を重ね、交通・産業・教育・文化・福祉面等の復興・充実を図ってきました。
しかし、1995年1月17日未明に、阪神・淡路大震災によって、またも本市は壊滅的な被害がありました。
この震災で尊い命を失われた市民444人、負傷者3,175人。被災家屋は、全壊家屋7,739世帯・半壊家屋9,927世帯、合計17,666世帯(5割)、さらに一部損壊家屋14,564世帯を合わせると9割以上となっており、ライフラインや公共交通機関でも甚大な被害を受けました。
(1) 兵庫県芦屋市の人口と面積(2016年6月1日現在)
① 住民基本台帳人口:総数 96,513人/男 43,947/女 52,566/世帯数 44,451
② 総面積:18.57平方キロメートル
③ 隣接自治体:神戸市、西宮市
④ 所在地:兵庫県芦屋市精道町7番6号
(2) 兵庫県芦屋市へのアクセス(神戸空港経由の場合)
神戸空港からポートライナー神戸空港駅から三宮駅へ約18分 三宮から阪急で約15分、JRで約7分、阪神で約11分。阪神芦屋駅で下車し徒歩約1分です。
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位置図 |
芦屋市役所 |
2. 芦屋市水道事業の概要
芦屋市の水道事業は、1934年には精道村議会において上水道布設事業が満場一致で可決され、1938年3月31日に奥山浄水場などが完成し、翌4月1日に給水を開始しました。
しかし、給水開始直後の同年7月5日に阪神地方を襲った大水害は、完成間もない水道施設にも多大な被害をもたらし、これが完全に復旧したのは4年後の1942年でした。
1945年に阪神水道企業団からの受水を開始しました。現在では芦屋市の自己水源が給水量に占める割合は約12.8%で、残りの約87.2%を阪神水道企業団から受水しています。
年 表 |
年号 |
年(西暦) |
月 |
芦屋市の主なできごと |
芦屋市の水道の主なできごと |
明治 |
22年(1889年) |
4月 |
芦屋、打出、三条、津知4村合併
精道村の発足 |
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昭和 |
10年(1935年) |
3月 |
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精道村上水道事業認可 |
13年(1938年) |
4月 |
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水道の給水を開始 |
15年(1940年) |
11月 |
芦屋市の市制施行(全国で173番目の市誕生) |
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20年(1945年) |
8月 |
太平洋戦争終戦 |
阪神水道企業団から受水の開始 |
47年(1972年) |
6月 |
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奥山貯水池完成 |
平成 |
7年(1995年) |
1月 |
阪神・淡路大震災 |
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3. 阪神・淡路大震災からの復旧
1995年1月17日5時46分に、都市直下型のマグニチュード7.3の大地震が芦屋市を襲いました。
(1) 被害状況の情報収集活動
貯水池、浄水場、送・配管から給水管に至る水道施設にも大きな被害があり、被害状況の調査は、まず、浄水場宿直者及び初めに出勤した職員によって現況を把握し、全市断水状態である旨を水道部災害対策本部(17日午前8時過ぎ設置)に報告する。
被害情報のうち、給・配水管の漏水等の実態調査は大震災から3日程経てようやく実施し、市民へ復旧見通し情報を広報したのは1月28日となり、このことで市民から相当苦情電話を受けることとなりました。
(2) 応急給水活動
① 水道部職員の出勤状況
震災当日、職員は50人中19人の出勤であった。その後、バイクや徒歩等で出勤してきたものの、1月20日には連絡のとれない7人の安否確認のために、携帯電話で本人と連絡をとり全員出勤する旨を通知した。
しかし、家族が亡くなった者や家屋の全壊等で全員が揃ったのは1月23日になった。
② 断水の状況
地震により、市内の配水池(9か所・9池)は、2時間30分から3時間30分で空になり、午前9時頃には全市域が断水状態となった。
③ 応急給水の方針決定は、震災発生直後の午前7時ごろに市の災害対策本部から、水道部職員に指示があり、水道部長の出勤と同時に水道部災害対策本部を設置し、応急給水の方針決定を行い、午前中はおもに応急給水の方法、体制等の準備活動に終始した。
④ 応急給水活動の実施
17日午後から病院、一部避難所へ応急給水を開始した。なお、震災当初はポリ容器(18L)で水を配ることが唯一の方法であった。自己水源の奥山浄水場には、震災当初2,000m3の水があり、さらに応援各市町からの大型給水タンクの水も入れて、浄水場近くの消火栓から、自衛隊等の給水車に補給することにした。
18日からは、全国の自治体、自衛隊、民間団体の応援により、ピーク時には62団体128台の大型給水タンク車と329人の支援によって給水を行った。
震災3日目頃から船による支援の申出があり、水の確保もできることとなった。海上保安庁や家島町、下津町の所有する給水船で、甲子園フェリー乗り場、芦屋浜シーサイドタウンにあるヨットハーバー等係留可能なところを給水基地として補水することもできた。
その後、阪神水道企業団から日量3,600m3の水が奥山浄水場内の浄水池に送水が可能になり、応急給水の拠点場所への応急給水基地とした。
ア 給水タンク車による応急給水
a 実施期間…1月17日~3月10日(53日間)
b 応急給水支援団体
表1 応急給水支援団体活動状況 |
団体名 |
団体数(団体) |
延団体数(団体) |
延車両台数(台) |
延人数(人) |
自治体 |
101 |
1,597 |
1,909 |
4,152 |
自衛隊 |
1(連隊) |
39 |
1,658 |
6,240 |
民間団体 |
14 |
21 |
25 |
27 |
計 |
116 |
1,667 |
3,592 |
10,419 |
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注)海上保安庁は、人数など不明のため、表に入れていない
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c 応急給水量
・ 総給水量……14,959m3
・ 給水延人数…640,457人
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自治体 |
自衛隊 |
民 間 |
1995.1.18 |
8台 |
56台 |
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1.19 |
29台 |
34台 |
5台 |
1.25 |
72台 |
50台 |
2台 |
2.1 |
62台 |
52台 |
1台 |
2.2 |
65台 |
52台 |
1台 |
2.8 |
50台 |
50台 |
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2.22 |
20台 |
14台 |
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3.1 |
9台 |
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図1 応急給水の推移 |
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イ 応急給水栓(24時間給水)による給水
a 実施期間…1月28日~5月12日(105日間)
b 設置数…市内全域96か所
c 応急給水量…16,897m3
⑤ 応急給水の優先
応急給水は、病院、避難所、中高層住宅等の密集地、一般家庭の優先順位で行った。しかし、数日間は病院等限られたところでさえ数10L程度しか用意できなかった。
⑥ 応急給水の場所
震災当初、市街地をJR線と宮川で縦、横に区分し、1つの区分に2か所、合計8か所の給水拠点を設けた。その後、自衛隊の15か所、学校中心の給水とは重ならないよう、また、交通の妨げにならないで効率的に行えるように民家、人口の密集地を可能な限り選定した。
1月20日から広報車4台で、給水場所を知らせる広報活動が開始できるようになった。
⑦ 兵庫県企業庁による応急給水
生活用水の不足を補うため、兵庫県企業庁により、生活用水の給水が実施された。
⑧ ボランティアの活躍
ア ポリタンクによる水くみ
イ 高齢者宅への水の運搬
ウ 給水所で応急給水車のホースの補助
エ 避難所への水の運搬
オ マンション等高層住宅の高層階までの水をポリタンクで運搬等
(3) 応急復旧活動
送・配水管も市内全域で相当の被害を受けたが、山岳部の奥池地区は被害が比較的少なく、1月23日には奥池地区の全戸に給水が可能となった。しかし、市街地については、全戸断水という今まで経験のなかった状況が続いた。
被災直後から、全国の自治体からの復旧に対して応援申入れがあり、1月19日の1自治体を第1陣として、計48自治体から応急復旧の協力を得て、震災2週間後の1月31日には全市の復旧を約30%とし、32週間後には60%にまで復旧できた。
その後、倒壊家屋で復旧不可能な地域を除き2月27日に応急復旧を完了し、通水率は96%まで回復した。
表2 市街地の水道復旧経過 |
月/日 |
復 旧 |
復旧率(%) |
延長(㎞) |
給水可能戸数 |
1/17 |
震災 |
- |
- |
- |
1/23 |
応急復旧開始 |
- |
- |
- |
1/25 |
給水開始 |
4.0 |
6.7 |
1,300 |
1/31 |
2週間後 |
29.8 |
54.5 |
9,900 |
2/7 |
3週間後 |
60.3 |
110.3 |
20,100 |
2/14 |
4週間後 |
73.0 |
133.6 |
24,380 |
2/21 |
5週間後 |
91.5 |
167.4 |
27,600 |
2/27 |
応急復旧完了 |
96.0 |
175.7 |
30,900 |
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図2 通水率の推移 |
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4. 水道施設と主な被害状況
(1) 水道施設の被害
① 奥山貯水池⇒リップラップ崩壊・取水塔傾斜
② 芦屋川取水口⇒岩石崩落により取水施設全壊
③ 導水路⇒道路崩落露出、管路クラック、人孔破損、落石損壊
④ 奥山及び六麓荘浄水場⇒ろ過池、沈殿池等……側壁、床面のクラックによる漏水
⑤ 朝日ケ丘ポンプ場⇒ポンプ池クラックによる漏水、流出入管・定水位弁室破壊
⑥ 配水池⇒側壁、床面のクラックによる漏水、擁壁、石垣損壊、低中区配水池
(2) 配水管の被害状況
公道の配水管、給水管は市内全域で破損し、1月17日午前9時頃には断水状態になり、幹線のφ700㎜、特にφ450㎜の破損個所が多く初期の通水が遅れることになった。
配水管(φ50㎜以上)の被害件数は、市域全体で297か所に及んだ。
(3) 給水管の被害
公道内(φ50㎜~φ13㎜)は316件で、民地内では2,934件にのぼった。
図3 1日当たりの配水量 |
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5. 応援団体の要請
被災直後は自治体から直接市へ応援の申し入れがあり、それに応じて市から支援を要請しました。その後、全国から応援の申し入れが急増したため調整不可能になったこともありましたが、日水協支援連絡体制ができたので、その後は日水協を通じ支援要請をしました。
6. 応急復旧の役割分担
(1) 水道部職員の役割分担
① 復旧計画の策定(担当のブロック割り、復旧手順)
② 応援要請の受け入れと調整
③ 応援都市への施工指示、監督
④ 応援都市の断・配水作業と広報を指示
⑤ 支給材料(全機材)の調達と出入庫
⑥ 復旧工法の指導(各市の使用材料が異なったため)
⑦ 埋戻し材(すべてクラッシャラン)調達と残土処分
⑧ 応援都市の修理報告の処理
⑨ 復旧状況情報の伝達→職員(市民への対応)
⑩ 復旧状況情報の伝達→災害対策本部
⑪ 復旧状況情報の伝達→市広報紙の「地震災害情報」
毎日発行(1月25日から)に水道復旧状況を掲載する。
⑫ 応援都市職員の宿泊の手配(被害のなかった民間の保養所等を確保)
⑬ 応援都市職員の食事の手配
⑭ 厚生省、日水協、県、マスコミ等の窓口(スポークスマン)
(2) 応援都市の役割分担
① 配水管(75mm以上)、給水管(50mm以上)の漏水調査→漏水修理→通水→各戸開栓
・掘さく・修理・埋戻し・残土処分・仮復旧(クラッシャラン)
② 修理の報告
③ 修理計画
④ 民地内に給水栓1栓立て
(3) 指定工事店の役割分担
① 屋内給水装置の漏水修理
② 公道からメーター間の漏水修理(市が費用負担)
③ 各戸開栓
④ 民地内に給水栓1栓立て
7. 5年前に見た東日本の光景
今から5年前に被災地を訪れ、現地の様子をこの目で確かめました。その当時の仙台・松島・石巻(女川町・雄勝町)・花巻・岩手(平泉)他を巡った手記です。
2011年2月10日に、仙台空港に到着。現地は積雪ではなかった。津波に襲われた仙台空港は人も施設もすっかり様変わりしていた。
空港を出発し高速道路の両側に名取市、仙台市若林区の田畑が広がる。塩害のまま放置された田畑である。
バスは北上し仙台市宮城野区に入る。建造物の被害は見当たらない。松島に到着。平日なので旅行客はまばらであった。3月11日は床下浸水で被害は最小。復興も早かった。松島の島々が防波堤の役割を果たしていた。
2月11日に松島を出発。JR仙石線(仙台⇔石巻)沿いにバスは進む。野蒜(のびる)駅から風景が一変する。駅舎はもとより線路も車両も津波に襲われた。上りと下り列車で乗客の明暗を分けたとガイドがあった。
石巻市内中心部の門脇(かどのわき)小学校は窓ガラスもなく躯体だけが吹きさらし状態である。幸い児童は全員無事だった。
低地部は津波に襲われたが台地までは届かなかった。女川の中心部も全滅であった。物産を売る「マリンパル女川」だけが残っていた。震災前には見えなかった海が見渡せた。同じ沿岸部でも入り江の深いリアス式海岸の集落と海水浴場沿岸の集落でも被災の度合いが違う。
雄勝町の漁師さんたちと触れ合った。波の高さは20メートル。津波の色は青かった。そして雄勝町の漁港も跡形もなくなった。しかし彼らは合同会社「オーガッツ」を立ち上げ再起を誓っていた。
漁師さんたちと別れ、雄勝中学校周辺に立ち寄る。石巻市図書館分館の屋上に観光バスが乗っかっていた。大津波の脅威をまざまざと感じた。
我々のバスは沿岸部から内陸部へ北上側の上流に沿って移動。児童の六割が犠牲となった大川小学校に到着。
2月11日は月命日でもあり多くの遺族、参拝者が途切れなかった。私たちも献花と線香を手向けた。北上の風が一段と冷たく厳しく思えた。シャッターを押すことができない雰囲気であった。
大川小学校は今も4人の児童が行方不明。中には震災後重機の免許をとり子どもの遺体を見つけた母親もいた。マニュアルどおりに堤防に向かい逆流してきた津波と鉢合わせになった。裏山に逃げ込んだ児童は助かった。今でも保護者と市教委で対立している。
北上川沿いの民家は無傷なのに何故大川小学校のエリア周辺が津波にのみ込まれたのか。とても悔しい気持ちになった。
そして、重たい気持ちを引きずりバスは雪がしんしんと積もる花巻温泉に到着。
沿岸部と内陸部では被災の度合いが違う。同じ沿岸部でも奇跡的に津波の被害がない低地もあった。
津波は第1波から第4波まである。第1波は低い。第1波が去ったと安心した住民が低地に戻り第1波と合流した第2波の大津波に多くの方々が飲み込まれた。
被災地は建物がないから見晴らしが良すぎる。それだけに痛々しい。ただ絶句。むごい光景に言葉がでなかった。寒風がさらに口を開きにくくする。トイレは仮設。我慢に我慢を重ね、歯を食いしばり復興に向かっている。不通のJR仙石線も沿岸部から内陸部に路線計画がある。
内陸部は比較的安泰。しかし花巻温泉を初め観光資源は無事なのに旅行客が遠退き東北地方全体の経済が冷え込んでいた。春から夏が最悪であった。今はようやく客足が戻ってきて安堵している。2月12日。雪深い花巻温泉を後にして世界遺産登録にわく「中尊寺」を参拝し仙台空港から岐路に着いた。
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(雄勝町) 鉄筋コンクリート陸屋根に大型バスが……。自然のエネルギーに圧巻。当初は災のシンボルとして残す計画だったが、被災者の気持ちを考えて2012年3月10日に取り除くことが決まった。
(仙台空港)神戸から東北へのメッセージコーナー。高校や球団他からの心温まるメッセージ。
8. 課題と教訓
この70数年にわたる本市の水道事業を振り返りますと、通水してまもなく阪神大水害や戦災に遭遇し、また、渇水対策や阪神・淡路大震災では全市域が断水となり、復旧のたびに全国各地から応援をいただくなど、関係者の多大なるご支援とご協力により幾多の困難を乗り越える歴史でもありました。
芦屋市周辺は、将来的に東海、東南海、南海連動地震による大規模災害の発生が想定される地域です。防災対策において「想定外」という言葉を安易に使うことは許されなくなっています。
したがって、日本列島で暮らす以上、大災害の記録の歴史はこれからも続き、自然災害と共存し生命を守る覚悟とより強固な防災・減災対策とが求められます。
(1) 見えた課題
① 被災直後
・交通機関・道路がマヒし、少数で初動体制
・被害状況の把握が困難
・電話不通により情報、連絡不能
・庁舎内倒壊で車両、材料庫の鍵が不明
② 市災害対策本部の組織編成どおりの体制が組めなかった
③ 広報活動
・がれきで道路が封鎖箇所では、車両の通行不可
・広報車不足
・市広報課の窓口一本化
・市民から苦情殺到で電話がマヒ
④ 応急給水
・学校のプールの水が生活用水として役立つ
・給水タンク車の大規模駐車場がなかった
・当初1人3L/日程度が日につれて生活用水への要望が高まる
⑤ 応急復旧
・当初全国の自治体より応援の申し入れが急増し調整不可能であった
・応援自治体用の管理図面(台帳、配管図、住宅地図)不足
・持参された携帯電話が非常に役立った
・震災マニュアルがなかった
・車両不足に代わりバイク、自転車が有効であった
・復旧対策本部はスペースの大きな、すべての業務が行える条件の部屋が必要だった
・復旧専用の電話が必要
(2) 教訓を活かす
① 交通機関・道路がマヒを踏まえた初動体制づくり
② 震災と風水害への対応組織は別に編成
③ ボランティアを組み入れた組織の活用の検討
④ 職員の勤務のローテーションづくり
⑤ 早期かつ定期的に情報提供をして住民の不安解消
⑥ 広報体制の整備
⑦ 平時から給水補給基地の確保
⑧ 井戸、プールの水を生活用水として活用
⑨ 緊急耐震性貯水槽の設置
⑩ 復旧支援隊の受け入れ体制
⑪ 自治体や民間との災害相互応援協定の確立と迅速な連携。
⑫ 管理台帳、図面の分散管理
⑬ 資材、人員、資機材基地及び駐車場の確保
⑭ 復旧マニュアル作成
⑮ 問い合わせ・相談・苦情専用電話設置
⑯ 給水使用材料の統一化(給水装置工事施工基準の統一化)
⑰ 無線・携帯電話による情報確保と関係機関と相互連絡網の整備
9. むすび
有事の際、誰もが真っ先に望むものは、まず、愛する家族の安全です。その様にとらえると、東日本大震災を含め、日本が多くの自然災害を経験する中で、試行錯誤により獲得してきた教訓をひとつひとつ検証し備えていかなければならないと誰もが、真剣に取り組むことでしょう。
また、災害復旧の場面では見えにくいですが、財源の確保が必要です。さらに応急復旧活動訓練の継続的実施も欠かせません。
視点を国際社会に移してみても、地球温暖化に起因する異常気象などを含め各国で巨大な自然災害に世界の各地で発生しています。グローバル社会を迎えた今日では、すべての国が自国だけで災害復旧するよりは、国際支援へと復興の輪が広まりつつあります。
このレポート作成を通じて、貴重な「震災の記憶」を呼び起こす機会を得て、改めて震災からの復興のあり方の再認識と今後に伝えていかなければならない使命を痛感しました。大震災のあの日から忘れてはならないと思うことは、当時全国からの皆さんの多大な支援により現在の生活がある中でもあるということと感謝の気持ちです。
さいごに、4月14日以降発生した2016年熊本地震。被災地の一日も早い復旧・復興をこころよりお祈りしております。 |