【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第3分科会 石巻に虹を架けよう~被災地の今を見る、知る、触れる、考える~

 2011年3月11日の東日本大震災で被災した宮城県南三陸町と、南海トラフ巨大地震の被災想定により近い将来の被災が予想されている高知県黒潮町の自治体職員が交流を続けている。この度、黒潮町職員労働組合は宮城県を訪問し、研修を行った。南三陸町職員組合との交流研修をとおしての気づきを報告する。



南三陸町職組・黒潮町職労交流研修報告
―― 当事者性の気づき ――

高知県本部/黒潮町職員労働組合 柿内  靖

1. 交流の経過

 南三陸町職組と黒潮町職労の関わりは、高知県の公衆衛生チームの一員として保健師が短期派遣されたことが始まりであった。その後、防災の自治研活動に位置づけ、単組間の交流を深めていった。

日にち 内  容
2011年4月~6月 高知県の公衆衛生チームとして黒潮町保健師4人が派遣される。
①4/10~16、②5/5~11、③5/20~26、④6/4~10、各1人の派遣であった。
筆者は、①4/10~16に保健師として参加している。
2011年7月 黒潮町職労より、気仙沼職労を通じて南三陸町職組へ支援金を送金する。
2013年1月 被災後初の南三陸町職組定期大会準備中に支援金の入金に気付いた三浦前委員長から当時の書記長に謝意の連絡あり、それをきっかけに交流が始まった。
2014年2月 2014年3月、(公社)高知県自治研究センターの「3・11東日本大震災から高知は学ぶ」に事例報告者等として、南三陸町から三浦委員長をはじめ4人を高知にお招きした。実体験からの意見を聞く機会は高知県民や県内自治体職員にとって、身につまされる内容であった。シンポジウム終了後、南三陸町職組のメンバーと黒潮町職労の有志で交流を図り「次」につなぐことを約束した。
2014年7月5日 2014年7月5日、南三陸町職組より5人を招き、黒潮町で単組間交流を行った。職員組合主催であったが、黒潮町からは副町長や防災担当課長など多様な参加を得られた。危機対応を考えることは「日常」を考えることなのだと多くの仲間が理解し始める機会となった。また、次の交流は南三陸町でと約束をした。

2. 南三陸町を訪問

 2014年の約束を果たすため、2015年11月21日~23日、黒潮町職労より5人の組合員が南三陸町を訪問した。東日本大震災を経験した南三陸町職組から、震災の教訓を継承し、職員の生命の確保、防災、減災対策、町づくりの維持活性化に役立てることを目的に、被災地・南三陸町で交流研修を行った。
 事前学習として、2014年の単組間交流時に南三陸町職組からいただいた「3・11東日本大震災 南三陸町職員の業務状況」を再度読み込み、自らの業務と照らし合わせて日頃の疑問点や研修で学びたいことをまとめ、確認し合った。

 

【日程】

11月21日(土)

黒潮町→高知竜馬空港→伊丹空港→仙台空港
石巻市、大川小学校
南三陸町、防災対策庁舎、町仮設庁舎
宿泊先、研修、交流会
11月22日(日) 南三陸町、さんさん商店街
気仙沼市、杉ノ下地区、気仙沼港、復興商店街
陸前高田市、奇跡の1本松、ベルトコンベア施設
気仙沼市、リアス・アーク美術館常設展示
南三陸町着
宿泊先、交流会
11月23日(月) 南三陸町発
東松島市、松島
仙台空港→伊丹空港→高知竜馬空港→黒潮町

周囲の盛土に埋もれそうな南三陸町防災対策庁舎
  南三陸町は、2011年~2013年を復旧期、2012年~2017年を復興期、2014年~2020年を発展期とし、復興の基本理念を「自然・ひと・なりわいが紡ぐ安らぎと賑わいのあるまち」と定め、町民の力を結集して復興に向けて取り組んでいた。(南三陸町震災復興計画参照)
 私たちは、復興期から発展期にさしかかった南三陸町を訪れた。防災対策庁舎のある志津川地区は、10mを越える盛土が行われており、盛土の上に新たなまちが計画されているという話であった。南三陸町のまちづくりや、盛土に囲まれた防災対策庁舎等、復興工事の実際を目にして、無意識のうちに黒潮町と重ね合わせて想像していた。今後予想される南海トラフ地震と津波被害の後に、私たちはどんなまちづくり、復興を行うのか? 2014年の自治研活動の中でも議題に上がった「事前復興」というキーワードを思い出し、私たちの町の防災、減災対策に活かさなければならないと感じた。

3. 職員の体験

 研修会(交流会)では、業務多忙な中、南三陸町職組の方々に参加していただき、被災時の体験やその後の復旧・復興業務について話を聞くことができた。「九死に一生を得る」という言葉通りの壮絶な体験をし、自らも被災者であるにも関わらず、時には住民からの厳しい叱責を浴びながらも、懸命に自治体職員としての任務を遂行してきた話に、同じ自治体職員としてただ頭が下がる思いであった。また、震災後に町職員として採用された若手職員の方々からは、まちの復興に携わりたいという強い思いが伝わってきた。自らの役場職員としての歩みが、今後の南三陸町の復興に向けた歩みになるのだという責任感にあふれた青年たちであった。
 今回、南三陸町を訪れ、現地で自治体職員の方々から直接話をうかがうことができた。咄嗟の判断が生死を分けるぎりぎりの体験をされた方々が、自らの心の傷を開くような思いで、被災体験から復旧・復興業務について語ってくれた。
 被災体験からは「臨機応変な行動で、何としても生き抜いてほしい」という思いと、ヘルメットやライフジャケットなどを備えることで守られる命があることを学んだ。また、お薬手帳や通帳、印鑑など、基本的な持ち出し物が被災直後の混乱期を乗り切るためにどれだけ大切であるか再認識することができた。発災時の混乱した中でも行動できるマニュアル化と訓練、いざという時にはマニュアルに縛られずに臨機応変な対応で命を守り抜くことが必要であると学んだ。
 現在、中学生の防災教育では、穴を掘ってトイレを作る等の土木作業が取り入れられる等、被災後の生活を視野に入れた訓練が行われているという話を伺った。防災教育も避難訓練だけでなく日常生活を想定することで内容が拡がるとともに、いざという時には中学生も支える側の人材であることを平時から学ぶことができる内容になっていることに感銘を受けた。
 

交流研修:聞き取り調査の様子 黒潮町職労(左)と南三陸町職組(右上部)

 また、仮設住宅の入居者が減り、残った方には「取り残され感」が発生していることや、災害公営住宅には独居高齢者や高齢世帯が多く「見守り」が課題であることが分かった。被災者一人ひとりの背景が違う中で、コミュニティをどうやって維持するかが課題である。


4. 当事者性の獲得

 仙台空港から南三陸町に向かう途中で、石巻市の大川小学校を訪れた。大川小学校は、新北上川沿いにあり、震災時には津波が堤防を越えて押し寄せ、避難途中の小学生、教諭、住民の方々が多数尊い命を落としている。私としては、震災の被害を現地で学ぶために訪れたい場所の一つであった。
 津波の被害を受けた大川小学校校舎や校庭跡に設けられた記念碑に手を合わせていると、同行してくれた南三陸町職組の方々が「大川小学校を訪れるのは今回が初めてです」と言った。また、記念碑に手を合わせることができず、「今のタイミングではない気がする……」と困惑の表情で話してくれた。この短いやり取りは、私の心に深く刻まれ、自分の考えを見つめ直すきっかけとなった。震災による甚大な被害の後、ハード面の復興が急がれる中で、被災地の自治体職員の方々は、被災者としての気持ちの整理がつかないまま、大量の業務に忙殺される日々を過ごされている……。冷静に考えると当然とも言える視点が欠落していたことに気が付いた。
 気仙沼市と南三陸町の広域行政事務組合が運営するリアス・アーク美術館では、津波による被災物と写真、それらをもとにしたキーワード、メッセージが常設展示されていた。被災地では片づけられ、目につかなくなった被災物の数々とそれらに寄りそうように掲示されたメッセージにふれることで、ハード面の復旧・復興では隠せない被災地の思いに触れた気がした。そして自分に足りないものにやっとたどり着いた気がした。この思いを端的に表現しているリアス・アーク美術館常設展示図録『東日本大震災の記録と津波の災害史』の文章を引用すると「当事者というと、直接的な被災者、否応なく突き付けられた当事者性をもった者のみと社会は定義してしまう。しかし別な形の当事者性をもった者もいる。獲得された当事者性である。直接の被災者ではないが、被災地、被災者と長期的に深く関わることによって当事者性を獲得する、そういう関係性もある。また覚醒する当事者性というものもあるだろう。当事者、第三者という立ち位置は被災の有無によってのみ決定するものではない。被災していなくても当事者性を獲得」できるということなのだ。
 震災から5年、復興事業が進み、復興期から発展期にさしかかった南三陸町を訪れ、私自身が「被災地の方々は辛抱強く、人もまちも着実に復興している」というステレオタイプで被災地を捉えていたことに気が付くと同時に、自分と被災地の関係を整理することができた。
 東日本大震災の1ヶ月後、公衆衛生チームの一員として南三陸町に5日間滞在し、避難所等に避難された方々の保健衛生活動に携わった。南三陸町の甚大な被害や被災者の悲惨な状況を見聞きする中、あまりの惨状に呆然とし目の前の業務をこなすことが精一杯だった私は、無力感の中で帰町した。その後も「被災地支援に行っても何の力にもなれなかった」という自戒の念が強くなり、「何の力にもなれなかった自分が被災地に行っても良いのか? もっと適任者がいるのではないか?」そんな思いからこれまで被災地を訪れることを逡巡していた。被災地の状況を知りながら、実はある面当事者であったにも関わらず。表面的には「被災地から遠い」「忙しい」ことを理由に、被災地を避け、第三者として被災地を見ていたのである。この度の研修を通して、東日本大震災について第三者(という認識)になってしまえば、南海トラフ地震に備えるにも第三者の視点になってしまうのではないか? と思うようになった。裏を返せば、東日本大震災について「当事者性」をもって捉えた時、南海トラフ地震対策も本当の意味で「当事者性」をもって考えられるのではないか?
 今更ながらで大変恐縮だが、東日本大震災を思い、関わることで獲得した「当事者性」をこれからの南海トラフ地震対策に活かしていかなくてはならない。やっとこの認識に至った思いだ。

 
復興工事が進む海岸線   穏やかな海では養殖業も再開されている

5. まとめ

 単組間の交流が始まって、4年目を迎えた。職労の自治研活動として始まり、その後の取り組みを模索してきた中で、この度、黒潮町職労組合員が南三陸町を訪れる機会に展開した。
 被災地を訪れて、震災当時の作業状況、被災地の現状、まちづくりの経過、そしてそれらに携わる当事者の思いに「現地」で触れることができたことは、これからの南海トラフ地震対策にとどまらず、自分たちの暮らすまちをどうしていくべきか? 今後のまちづくりにとって大きな道標となる。
 現に、黒潮町職労ではこれまでの単組間交流を通して日常の中で避難物品をリュックに入れて携行したり、ライフジャケットを自家用車に常備するなど、身近な行動の変化を起こした者もいれば、被災した地域社会を想像しつつ担当業務を見つめ直す者もいる。それぞれに「当事者性」が覚醒し、日常が確実に変化し始めているのだ。