3. 被災者のコミュニティ再生のプロセスを考える
被災者やボランティア、避難所運営等にかかわった人たちからの聞き取りと、それらに係る文献を参考に考えてみた。
被災者のコミュニティの回復過程
被災者が日常生活を取り戻し、コミュニティが通常の機能を回復するには、一般に、以下のようなプロセスを辿ると言われています。ただし、被害状況や個人特性、地域の特殊性など、様々な要因が絡んでくるため、プロセスや回復にかかる時間は様々です。
英雄期 〈災害直後〉 |
自分や家族・近隣の人々の命の財産を守るために、危険をかえりみず、勇気ある行動をとる。 |
ハネムーン期 〈1週間~6ヶ月間〉 |
劇的な災害の体験を共有し、くぐり抜けてきたことで、被災者同士が強い連帯感で結ばれる。援助に希望を託しつつ、瓦礫や残骸を片付け、助け合う。被災地全体が暖かいムードに包まれる。 |
幻滅期 〈2ヶ月間~1、2年間〉 |
被災者の忍耐が限界に達し、援助の遅れや行政の失策への不満が噴出。人々はやり場のない怒りにかられ、けんかなどのトラブルも起こりやすい。飲酒問題も出現。被災者は自分の生活の再建と個人的な問題の解決に追われるため、地域の連帯や共感が失われる。 |
再建期 〈数年間〉 |
被災地に「日常」が戻りはじめ、被災者も生活の建て直しへの勇気を得る。地域づくりに積極的に参加することで、自分への自信が増してくる。ただし、復興から取り残されたり、精神的支えを失った人には、ストレスの多い生活が続く。 |
注意)それぞれのプロセスにかかる時間は人により異なります。
出典)David L Romo(1995):災害と心のケア、P14、アスク・ヒューマンケア
上記回復過程を参考に中越地震におけるコミュニティのプロセスを考える。
(1) 災害前のコミュニティ
田畑の耕作や自然の多い環境で、一般的には一番身近な「向こう三軒両隣」の付き合いから、町内会という組織の中で日常の生活を営み、その中で祭りや防災訓練、町内独自の行事等を行い、コミュニティを構築している。さらに町内間、仕事や趣味を通じて独自のコミュニティを築いている。
ある村ではそれらも含め、「よそ者は黒船」「困ったときは行政に陳情すればいい」等の考え方もあり、ある意味閉鎖的な村もあった。
一方で、そういったコミュニティを嫌い、新たな居住地へ出る若者も増え、高齢化・過疎化という課題も抱えていた。
(2) 災害直後のコミュニティ(英雄期)
公民館・学校・公共施設など安全な場所に避難し「自分や家族・近隣の人々の命の財産を守るために、危険をかえりみず、勇気ある行動をとる。」とある。
被災場所により行動は違うが、山古志での自宅被災経験者に聞いた。一番に思ったことは「一番に家族の安否確認が大事であり、それまで生きた心地がしなかった。まずは自分と家族の安否を確認してから行動ができる」と語る。自分の心の中の不安が解消されてこそ、その後の行動も確実なものとなると考える。そして安否確認の範囲が隣近所となり、町内となり、その経過の中で様々な情報が集まり、コミュニティに結びつくものと理解できる。
被災者は指定避難場所・役場・近隣の公共施設あるいは駐車場に集まるが、災害直後からしばらくは情報が錯綜し、普通ならどう動けばよいのか判断しかねるので、そこにいる地域リーダー或いはリーダー格の判断(素早さと的確)がすべてを左右し、災害直後の安全とコミュニティは形成されると思われる。
そこには8人集まっていた。被災直後から情報収集はラジオだけで、他の地区の情報は入ってくるが山古志についての情報は全く入ってこなかったので一番近い小千谷役所に歩いて出掛けた。途中土砂崩れで引き返してきたという。情報収集のため2次災害というリスクは薄れていたようだ。
(3) 1週間~6ヶ月間(ハネムーン期)
「劇的な災害の体験を共有し、くぐり抜けてきたことで、被災者同士が強い連帯感で結ばれる。援助に希望を託しつつ、瓦礫や残骸を片付け、助け合う。被災地全体が暖かいムードに包まれる。」とある。
中越地震では震災直後から避難所の開設・設置を行った。全村避難の山古志は2日後にヘリコプターによる長岡市への全村民避難を行った。その間に全村民の安否確認を行うことが出来たという。「隣の家族構成や間取りだけでなく、どの場所で眠っているのかまで把握しているというようなご近所である」という。普段からのご近所づきあい(コミュニティ)のたまものと思われる。さらに村が空っぽになることから自警団を立ち上げ村を守ることとした。避難者数は最大で103,178人となり、最大で603か所の避難所が設置された。避難所の他、公園、グランド、民間施設の駐車場、個人所有地等に設置されたテント・ハウスなど多種多様な避難場所が発生した。長岡市ではあらかじめ指定した避難所には職員を派遣して、避難所運営を行うことになっていた。しかし、緊急・臨時の避難場所も多く、市職員或いはそこに働いている職員が24時間体制でコミュニティを構築するべく働かざるを得なかった。町内会長・区長等リーダー格の人がいても、子どもからお年寄りまで避難所で生活するには、ルールが軌道に乗るまで世話役として、また行政等へのパイプ役として避難所運営に従事し続けなければならないという現実があり、職員が一時避難所に1週間から10日帰宅せず宿泊従事という所も少なくなかった。そこには避難所の運営は誰かが(行政)やってくれるだろう、私は被災者だからそんなことしてられないという思いがあるのだろうか。
1人2人に任せず、いかに早く避難所のコミュニティを構築し安心して安全に生活するには、より具体的に、あらかじめマニュアルを作成しておいて、避難者にも周知し、避難者自ら運営をしていかなければならないことを自覚してもらうこと。避難者の中から複数人の連絡員を選び、その中からリーダーを選び避難所運営に携わってもらうことが必要と考える。
山古志ではヘリコプター避難により、どこに誰が避難したか把握することができず、村民がバラバラになったため5日後には村民を集落ごとに再編し、区長をはじめとするコミュニティの再生に取り組んだ。
他の地区では老人・女・子どもしか平日はいないなか、地震による被害の後片付けについてとなり近所共同で片づけをしていた。
(4) 2ヶ月間~1、2年間(幻滅期)
「被災者の忍耐が限界に達し、援助の遅れや行政の失策への不満が噴出。人々はやり場のない怒りにかられ、けんかなどのトラブルも起こりやすい。飲酒問題も出現。被災者は自分の生活の再建と個人的な問題の解決に追われるため、地域の連帯や共感が失われる。」とある。
確かに体育館等の避難所では続々と集まってくる避難者でパンク状態に陥り、避難所がスペース不足になったうえ物資の不足もあって、いくつかの場所では精神的ストレスから避難者同士の衝突が起きた。これらを理由に屋外に停車させた車の中で寝泊まりする避難者もいた。しかし、聞いた限りでは、地域の連帯や共感は失われることなく、反対に生活の再建と個人の問題を共有しあって、互助の精神が培われたとのこと。それは、応急仮設住宅に入ることができる先の見通しが立ち、体育館等避難所生活が短期だったことや、避難所のコミュニティがしっかりしていたことが要因と思われる。被災者の話では「震災が起きてコミュニティの問題が出るのではなく、日頃の問題が浮き出てくるだけである」と話された。
中越地震では震災発生から約1ヶ月で全被災者が応急仮設住宅に入居することができた。日本有数の豪雪地帯という地域特性を踏まえ、応急仮設住宅は冬季の積雪や寒さ対策を講じたほか、基本的に被災地に近い所に建設され地域コミュニティを維持・形成することができるよう集落のまとまりに配慮して建設戸数を決定し、各町・集落ごとに応急仮設住宅を振り分けた。団地内には畑や花壇、集会所等も設置し、震災前にやっていたことができるよう配慮したり、高齢者の孤独死対策として、長岡市中心部の応急仮設住宅団地に、高齢者向け給食サービス等のデイサービスを提供できる機能を持った集会所も設置された。中心市街地では様々な地域・職・年齢の人が入居し、リーダーとなる人がいないため、「絶対に孤独死を出さない」ということから行政が入り、1棟から1人ずつ役員を選出し、互選で会長を決め、仮の町内会組織を立ち上げ、予算もつけてコミュニティの構築を図った。応急仮設住宅の建設における地域コミュニティへの配慮として ①集落のまとまりに配慮して各団地の建設戸数を決定 ②入居者の希望に沿えるような入居先を選定 ③障がい者・高齢者が偏らないよう住戸タイプを混合配置 ④団地内のコミュニティ形成に資する集会所や談話室を設置 ⑤1住戸につき1台分の駐車場を各団地に配置とした。
(5) 数年間(再建期)
「被災地に『日常』が戻りはじめ、被災者も生活の建て直しへの勇気を得る。地域づくりに積極的に参加することで、自分への自信が増してくる。ただし、復興から取り残されたり、精神的支えを失った人には、ストレスの多い生活が続く。」とある。
災害から3年2か月、2007年12月全応急仮設住宅から被災者退去。その後の生活については追っていないが、村に帰った人、新天地に移住した人、様々な生活を送るなかで、中越地震の経験を糧に、コミュニティを大切にしていることを願う。
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